第23話「定義されなかった感情たち」

 ──空間が、震えていた。


 記憶共有空間に現れた“つばき”は、かつて風見レンが知っていた彼女とは似て非なる存在だった。


 制服姿は同じでも、その表情に浮かぶのは“拒絶”の色。微笑みではなく、怒りでもない。まるで、それを持つ資格すら失ってしまった者の顔。


「わたしは──あの日、あなたに“定義されなかった”」


 彼女の声は透き通っていて、けれど芯に鋼のような何かがあった。


 レンは、反射的に後ずさる。


「……つばき、じゃないよな?」


「わたしは“つばき”の中にあった、定義されなかった記憶。忘れられた“別の私”」


 コードの残滓が生んだ“もうひとつの姫崎つばき”。

 それはレンが無意識に選びとらなかった、彼女の記憶や感情の断片──


 “恐怖”、“依存”、“敗北感”、“無価値感”……


 再定義世界において排除された、ネガティブな感情の記憶だった。



 「再定義」という行為は、記憶や存在を“選び直す”こと。

 だが、選ばなかったものは“なかったこと”にはならない。

 それはコードの底で“残滓”として渦巻き、こうして暴走という形で現れる。


 レンは、目の前の“彼女”を直視する。


「それでも……君は、つばきだよな。俺にとって」


 “彼女”の表情が歪む。


「違う! あなたは“私じゃない方”を選んだ!」


「たしかに……俺は、彼女の笑顔を選んだ。前に進める姿を、守りたかった。でも、それだけじゃ──」


 レンは言葉を飲み込んだ。


 “じゃあ、それ以外のつばきはどうなる?”


 怖がりで、泣き虫で、自分なんかいらないって、そう思っていた彼女のことは──


 レンの胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


「ごめん」


 そう呟いたレンの声に、記憶のつばきは一瞬、目を見開いた。


「……なに、それ。今さら?」


「うん。今さら。でも──今だから言える。俺は、全部の君を知ってるわけじゃなかった。だから……今から、知りたいんだ」


 レンの手が、空に向かって差し出される。


「君が感じていたこと、君が失っていたもの……聞かせてくれないか」


 記憶のつばきは、しばらく黙っていた。


 だが次第に、表情が揺れ始める。


「ほんとうに……聞いてくれるの?」


「もちろん」



 ──その後、空間は記憶で満ちた。


 “つばき”は語った。


 彼女がどれだけ自分を“兵器”としか思えなかったか。


 どれだけ、レンに甘えたくても“拒絶される”のが怖かったか。


 どれだけ、本当は“世界に必要とされていなかった”と思っていたか。


 レンは黙って、すべてを受け止めた。


 何度も目をそらしそうになった。でも──逃げなかった。


 そして、語り終えた“記憶のつばき”は、静かに笑った。


「ありがとう。……今、やっと“定義”された気がする」


「それは、君自身が選んだんだよ。俺はただ、それを見せてもらっただけ」


「……バカ。優しすぎるよ」


 彼女の体が光に包まれる。


 “再定義”ではなく、“統合”。


 つばきの“忘れられていた感情”は、彼女自身の中へと戻っていった。



 気づけば、記憶空間は穏やかな光に包まれていた。


 ミナト・クロノが、どこか満足そうに言う。


「君、やっぱり“再定義者”だ。いや……それ以上かもね」


「……何 ​:contentReference[oaicite:0]{index=0}​

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