第24話 商人の甘い罠

 交易都市ギアヘブン。

 その名は、荒野に生きる者たちの間では、畏怖と憧れの対象だった。

 大崩壊以前の技術を独占し、圧倒的な物資と情報量を背景に、周辺の集落を経済的に支配する巨大な都市国家。彼らと取引できれば一夜にして豊かになれるが、一度目をつけられれば骨の髄までしゃぶり尽くされる、という。


 そのギアヘブンの商会長、バルトロが、今、俺たちの目の前に立っていた。

 彼の後ろには、護衛の兵士たちがずらりと並んでいる。その装備は、俺たちがこれまで戦ってきた賊とは比べ物にならないほど、洗練されていた。統一された金属製の鎧、寸分の狂いもなく手入れされたクロスボウ。彼らが、ただの商人ではないことを雄弁に物語っていた。


「奇跡の作物、ですか」

 俺は、警戒を解かずに応じた。「ただのポテトですよ。俺たちは、それを育てて暮らしているだけです」


「ご謙遜を」

 バルトロは、わざとらしく手を振った。「我々の情報網は、正確さが売りでしてね。食料にも、燃料にもなるという、その『黄金』。ぜひ、我々ギアヘブンに、独占的に卸してはいただけませんか?」


 独占契約。その言葉に、俺の隣にいたザギが、ぴくりと眉を動かした。


「もちろん、ただでとは言いません」

 バルトロは、芝居がかった仕草で手を叩いた。すると、後ろの荷馬車から、次々と見たこともないような品物が運び出されてくる。


 太陽光で動くという、携帯式の浄水装置。

 軽量で、鋼鉄のように硬いという、新素材の合金で作られた農具。

 そして、色とりどりの美しい布地や、甘い香りのする固形石鹸といった、この荒廃した世界ではおよそお目にかかれない贅沢品の数々。


「こ、これは……」

 見送りに集まっていた村人たちから、感嘆の声が漏れる。

 特に、女たちは、美しい布や石鹸に目を輝かせていた。アンナでさえ、興味深そうにそれらを見つめている。


「これらは、ほんの手付け金です」

 バルトロは、村人たちの反応を見て、満足そうに笑った。「我々と契約していただければ、このような品々を、定期的に、安定してお届けすることをお約束しましょう。あなた方の生活は、劇的に改善される。もはや、賊や変異生物に怯える日々とは、おさらばです」


 その言葉は、悪魔の囁きのように甘かった。

 ダントさんをはじめ、多くの村人たちが、その提案に心を揺さぶられているのがわかった。無理もない。彼らは、ずっと苦しい生活を強いられてきたのだ。目の前の豊かさを、喉から手が出るほど欲しがるのは当然だった。


「……ユウキ」

 ギデオン長老が、俺の耳元で囁いた。「どう、思うかね?」

「……罠、ですね」

 俺は、小さく答えた。「独占契約なんて結んだら、俺たちはギアヘブンの言いなりになるしかない。最初は甘い汁を吸わせて、やがてはポテトの生産から価格決定権まで、すべてを奪うつもりでしょう。そうなれば、俺たちはギアヘブンのための、ポテトを作る奴隷になるだけです」


「……ワシも、そう思う」


 俺は、バルトロに向き直った。

「お申し出は、ありがたい。ですが、独占契約はお断りします」

 俺のきっぱりとした返事に、バルトロの笑顔が、わずかに引きつった。村人たちの間にも、動揺が走る。


「我々のポテトは、我々のものです。誰か一人が独占するものではない。我々は、あなた方だけでなく、他の集落とも、自由に、公正な取引がしたいと考えています」


「……ほう。それは、残念だ」

 バルトロは、ゆっくりと瞬きをした。その瞳の奥の、ハイエナのような光が、一瞬、強くなった気がした。

「若き指導者殿は、理想がお高いようだ。だが、その理想が、この過酷な世界で通用するとお思いかな?」


 彼は、挑戦的な視線を俺に向けた後、再び人好きのする笑みを浮かべた。

「まあ、よろしいでしょう。今日のところは、これにて失礼します。我々の提案、ぜひ、村の皆さんとよくよくご相談なさってください。心変わりした時は、いつでも歓迎しますよ」


 そう言うと、バルトロは優雅に一礼し、護衛たちと共に去っていった。

 彼らが持ち込んだ豪華な品々は、見せつけるように、広場に置かれたままだった。

 嵐が去った後のように、広場には気まずい沈黙が流れた。


「……ユウキ、なんで断っちまったんだ!」

 沈黙を破ったのは、ダントさんだった。「あれだけの品物が手に入るチャンスだったんだぞ! 浄水装置があれば、もう水汲みに苦労することもねえ! 合金の鍬があれば、開拓だってもっと楽になる!」

「そうだ!」「もったいない!」

 ダントさんの言葉に同調するように、他の村人たちからも、不満の声が上がり始めた。


「みんな、落ち着いてくれ!」

 俺は声を張り上げた。「目先の利益に目が眩んだらダメだ! あれは、俺たちを奴隷にするための、甘い罠なんだ!」

「奴隷だと? 考えすぎじゃねえのか?」

「そうだ! ユウキは、俺たちの暮らしがどうなってもいいって言うのか!」


 村人たちの心は、ギアヘブンが置いていった贅沢品によって、見事に分断されてしまっていた。

 俺の言葉は、彼らの欲望の前では、もはや届かなくなっていた。

 ザギやキバたちは、苦々しい顔でその様子を見ている。


 アンナは、俺と村人たちの間で、どうしていいかわからないといった顔で立ち尽くしていた。彼女の目も、あの美しい布地に、一瞬釘付けになっていたのを、俺は見ていた。

 俺は、自分の無力さを感じていた。ポテトで村を救うことはできた。だが、人の欲望という、もっと厄介な敵を、どう相手にすればいいのかわからなかった。


 その夜。

 俺は、一人で実験農場にいた。

 昼間の喧騒が嘘のように、静かだ。

 俺は、アルブレヒトの日誌のあるページを開いていた。そこには、ポテトを使った酒の作り方が、詳細に記されていた。


(……これしか、ないのか)


 ギアヘブンとの対立は、避けられないだろう。

 武力で敵わない以上、俺たちが対抗できる武器は、ただ一つ。

 ポテトが生み出す、圧倒的な『富』。

 彼らの経済を、内側から破壊するほどの、強力な経済兵器。


 俺は、日誌を閉じ、立ち上がった。

 村の外れにある、今は使われていない倉庫へと向かう。

 今夜から、ここで、村の誰にも知らせず、秘密の計画を始めるのだ。

 錆びた大地の黄金は、今、新たな価値を生み出そうとしていた。それは、人を酔わせ、熱狂させ、そして時には、巨大な帝国さえも揺るがす、危険な液体。


 俺たちの、静かなる経済戦争の、始まりだった。

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