第21話 禁断の日誌と父の涙

「やったぞ!」


 俺は、分厚い日誌を掴み取ると、雄叫びを上げた。

 だが、感慨に浸っている暇はなかった。ゴーストたちは、金庫が開いたことなどお構いなしに、じりじりと俺たちに迫ってくる。


「ユウキ! 手に入れたなら、とっとと逃げるぞ!」

 ザギが、ゴーストの一体を蹴り飛ばしながら叫んだ。

「わかってる!」


 俺たちは、日誌を懐にしまい、一塊になって研究所の出口へと殺到した。

 狭い通路で、ゴーストたちを掻い潜るのは至難の業だ。ノクトが足をもつれさせて転び、ゴーストたちに組み付かれそうになる。


「しまっ……!」


 その時、サラが動いた。

 彼女は、俺が落としたストーンポテトを一つ拾い上げると、ノクトに襲いかかろうとしていたゴーストの頭部めがけて、正確に投げつけたのだ。

 ゴツン、という鈍い音と共に、ゴーストはよろめき、その隙にノクトは体勢を立て直すことができた。


「……貸し、一つね」

 サラは、短くそう言うと、先に立って出口への道を切り開いていく。

 俺たちは、どうにか研究所を脱出し、再び太陽の下へと飛び出した。ゴーストたちは、なぜかドームの外までは追いかけてこない。まるで、光を恐れるかのように、入り口付近でうごめいているだけだった。


「はあ……はあ……。なんて奴らだ……」

 キバが、バイクに寄りかかって息を整えている。

 全員、怪我はなかったが、精神的な消耗は激しかった。


 俺は、懐からアルブレヒトの日誌を取り出した。

 革の表紙は、長い年月を経て硬くなっている。俺は、震える指で、その最初のページを開いた。

 そこには、インクが滲んだ、美しい筆記体で、こう書かれていた。


『我が愛しの娘、サラへ。そして、未来のポテトを愛するすべての者たちへ』


 その書き出しを読んだだけで、サラは息を呑み、顔を背けた。

 俺は、ページをめくっていく。

 日誌には、アルブレヒトのポテト研究のすべてが、詳細に記録されていた。

 様々な品種の交配記録、土壌の成分分析、病害への対策……。そのどれもが、俺がこれまで手探りで進めてきた知識を、遥かに凌駕する、高度で体系的なものだった。


「すごい……。こんな記録が残っていたなんて……」


 俺は、夢中でページをめくった。

 そして、ついに『ゴライアス』に関する項目にたどり着いた。


『ついに、神の作物が完成した。私は、これを『ゴライアス』と名付けた。一つのイモが、赤子ほどの大きさにまで育ち、その味は、蜜のように甘い。これで、世界から飢えはなくなるだろう。人々は、私を英雄と呼ぶ。ああ、なんと素晴らしい日だ!』


 そのページは、喜びと興奮に満ち溢れていた。

 だが、ページが進むにつれて、その記述は、徐々に不穏なものへと変わっていく。


『奇妙なことが起きている。村の者たちが、次々と原因不明の体調不良を訴え始めた。肝臓の機能が低下しているらしい。なぜだ? ここの水は、世界で一番きれいなはずなのに』


『まさか……。まさか、そんなはずはない。ゴライアスが、原因だというのか? そんな馬鹿なことがあるものか。私のポテトは、人々を幸せにするためのものだ。呪いの作物などでは、断じてない!』


 アルブレヒトの苦悩と、葛藤。その悲痛な叫びが、インクの滲みから伝わってくるようだった。

 彼は、自分のポテトが原因である可能性に気づきながらも、それを認めたくなかったのだ。


 そして、最後のページ。

 そこには、震える手で書かれたような、乱れた文字が並んでいた。


『私は、取り返しのつかない過ちを犯した。ゴライアスに含まれる、未知のアルカロイド成分。それが、この地に古くから住む者たちの遺伝子と結びつき、致死性の毒素を生成するなど、誰が予測できただろうか。私の愛した妻も、友人たちも、皆、私のポテトのせいで……』


『ああ、サラ。私の可愛い娘。お前だけは、ポテト嫌いで助かった。それが、唯一の救いだ。だが、私は、お前にどんな顔をして会えばいい? お前の母親を、未来を、この手で奪っておきながら』


『この日誌を、未来の誰かが見るならば、伝えたい。ポテトは、希望だ。だが、その光が強ければ、影もまた、濃くなる。決して、驕ってはならない。自然への畏怖を、忘れてはならない』


『私は、この罪を償うことはできないだろう。だから、せめて、この知識を遺す。これが、私にできる、最後の贖罪だ。

 さようなら、サラ。お前を、心から愛している。

 ――父、アルブレヒトより』


 日誌は、そこで終わっていた。

 最後のページには、乾いた涙の跡のような、大きなシミが残されていた。


 静寂が、俺たちの間を支配していた。

 ザギも、キバも、ただ黙って、俯いている。


 サラは、肩を震わせていた。

 彼女は、ずっと、父親に裏切られたと思っていたのだろう。自分の村を、家族を、ポテトのために見殺しにした、冷酷なマッドサイエンティストだと思っていたのかもしれない。

 だが、違った。

 アルブレヒトは、最後まで娘を愛し、自分の罪に苦悩し続けていた、ただの弱い一人の父親だったのだ。


「……う……うそよ……」

 サラは、両手で顔を覆った。その指の間から、嗚咽が漏れ出す。

「嘘……! こんなの……! だったら、私のこれまでの時間は、何だったの……!? 私の憎しみは……どこに行けばいいのよ……!」


 彼女は、その場に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくった。

 何十年という歳月を、たった一つの憎しみを支えに生きてきた彼女にとって、この真実は、あまりにも残酷だった。


 俺は、彼女にかける言葉を見つけられなかった。

 ただ、アルブレヒトの日誌を、そっと彼女の前に置くことしかできなかった。


 その時だった。

 ゴオオオオオオッ、という、地響きのような轟音が、バイオドーム全体を揺るがした。


「な、なんだ!?」

 俺たちが顔を上げると、ドームの天井が、ミシミシと音を立てて崩れ始めている。

 どうやら、先ほどのゴーストたちとの戦闘の衝撃が、老朽化していたドームの限界を超えさせてしまったらしい。


「まずい! ここも崩れるぞ! 早く脱出しろ!」


 ザギの叫び声と共に、巨大な天井の破片が、俺たちめがけて降り注いできた。

 俺は、泣き崩れているサラの腕を掴み、無理やり立たせた。


「サラ! しっかりしろ! 死ぬ気か!」

「もういい! 放っておいて! 私は、ここで……父さんと一緒に……!」

「ふざけるな!」


 俺は、彼女を肩に担ぎ上げ、全力でバイクへと走った。

 ザギたちも、俺に続く。

 背後で、轟音と共に、西のオアシスと呼ばれた廃墟が、砂塵の中へと崩れ落ちていく。


 アルブレヒトの悲劇も、サラの憎しみも、すべてを飲み込んで、過去の遺物は、完全にその姿を消した。

 だが、俺たちの手の中には、確かに、未来へと繋がる知識が残されていた。

 俺は、背中で抵抗するサラをしっかりと担ぎ直し、バイクのアクセルを、力いっぱいひねった。

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