第5話「口笛と水平線」

 5月20日、午後五時半。日が傾き始めた曙浜港は、春から初夏へと季節を移そうとする柔らかな光に包まれていた。海辺の空は茜色に染まり、薄くたなびく雲が淡いオレンジと紫に溶け込んでいく。港の防波堤には、雄太が一人立っていた。

 薄い潮風が頬を撫で、波の音が穏やかに耳をくすぐる。彼はゆっくりとポケットから口笛を吹くために唇を尖らせる。そして小さく、映画で聞いたあの懐かしい旋律を吹き始めた。古い白黒映画の名曲――静かな港の夕暮れに、不思議なくらいぴたりとはまる旋律だった。

 その背後から、真理がそっと近づいてきた。

 「……お洒落な趣味ね」

 驚くことなく、雄太は口笛をやめて振り返った。「映画の中の曲なんです。たまたま耳に残っていて……」

 「たまたま、でそんなに綺麗に吹けるの?」

 真理は少しだけ呆れながらも、その口元にわずかに浮かぶ柔らかな微笑みを見逃さなかった。潮風に吹かれる雄太の横顔は、淡々としながらもどこか色気があった。

 (……ほんとに、不思議な人)

 口笛というシンプルな行為だけで、なぜこんなに絵になるのか。真理は胸の奥が微妙にざわつくのを自覚しながら、わざと軽口を飛ばした。

 「さては、昔はモテたでしょう?」

 「え?」と雄太は一瞬きょとんとした。

 「無自覚なのが一番タチ悪いのよ、こういうのって」と真理は笑う。「今日だって、倉庫作業してる時に通りがかりの奥様方がキャーキャー言ってたわよ?」

 「……そうなんですか?」

 「無自覚、無防備、無邪気。これが“魔性の男”の三原則だわね」真理は少し悪戯っぽく笑った。

 雄太は軽く困ったように目を伏せ、「自分ではわかりません」と小さく呟いた。

 その反応がまた、真理の胸をじわりと熱くする。

 (この人、本当に“自然に”周りを振り回してくるわ……)

 波の音が二人の間を静かに埋めていく。太陽はゆっくりと水平線へと沈みゆき、海面が金色に輝いていた。

 しばらく黙って眺めていた真理は、ふと柔らかく言葉を継いだ。

 「でもね、雄太くん。あなたが来てから、本当に町の空気が少しずつ変わってきたのよ」

 「僕は何もしていないですよ。皆さんが動いてくださってるだけです」

 「そういう謙虚なところも含めて、ね」真理は静かに微笑んだ。

 少し照れたように、雄太は水平線に目を戻した。その横顔が夕陽に照らされ、輪郭がほのかに輝く。

 真理は、その静かな光景をそっと目に焼き付けた。


 その少し後、二人のもとに他の仲間たちも集まってきた。タコ焼きの屋台袋を提げた智が、にやにやしながら言った。

 「お、なんだい、デートか?」

 「違うわよ!」と真理が即座に返す。「たまたまここで会っただけよ」

 「はいはい、たまたまね」智はからかうように肩をすくめた。

 「智、からかうなよ」と知樹が苦笑しながら屋台袋を受け取る。「ほら、みんなで夕飯にしようぜ」

 「わーい! タコ焼きだー!」梨絵が元気よく跳ねた。

 「今日はよく働いたから、ご褒美ね」優愛が微笑む。

 6人は防波堤の端に腰を下ろし、ささやかな夕暮れのピクニックが始まった。風が心地よく、タコ焼きの湯気が潮風に揺れていく。

 「それにしても、倉庫の修復が本格化してきたわね」と真理が串を口に運びながら言った。

 「まさかあの崩れかけの建物が、イベント会場に生まれ変わるとはな」知樹も感慨深げに続ける。

 「古いものってさ、壊すのは簡単だけど、活かすってなると案外難しいよね」智が少し真面目に語った。

 「でも、それができるからこそ面白いのよ」と真理。

 「うん。みんなで作っていくって、すごく楽しい!」梨絵が目を輝かせる。

 雄太は静かにその会話を聞いていた。そしてゆっくりと口を開く。

 「……壊れたものにも、価値は残っています。手を加えれば、また誰かの役に立てる」

 その一言に、また静かな空気が流れた。

 「ほんと、あんたってさ……何気ない一言で、人を元気にするよなあ」と智が呟く。

 「“魔性の男”の追加要素ね。『希望を与える魔性』ってとこかしら」真理が笑う。

 「そうだね。町の人たちにも、今度のフェスティバルがそういう存在になればいいな」優愛がふわりと付け加えた。

 6人はしばらく、誰ともなく静かに水平線を眺めていた。沈みかけた太陽が、海面を橙色に染めながらゆっくり沈んでいく。

 「……いい景色だな」

 ぽつりと呟いた雄太の言葉が、心地よく皆の胸に染み込んでいった。


 タコ焼きの食べ終えた串を片付けたあとも、6人は防波堤に腰を下ろしたまま、まるで潮風に身を任せるように静かに語り合っていた。日が完全に沈み、今は薄明かりの空に宵の星が顔を出している。

 「ところでさ、雄太」知樹が不意に切り出した。「昔からそうやって、淡々と何でも努力してきたのか?」

 「そうですね……振り返ってみれば、小さい頃からずっと『やらなきゃいけないこと』を積み重ねていた気がします」

 「勉強? スポーツ?」と智が乗ってくる。

 「両方ですね。でも……正直、得意だったわけじゃありません。ただ、続けることだけは辞めなかった」

 「うわ、それが一番すごいわよ」と真理がすかさず反応する。「才能がある人より、続けられる人の方がずっと尊敬できるわ」

 「俺、3日坊主の天才だぞ?」智が手を挙げ、皆が笑った。

 「うちの商店街の古株たちも、実はそういう“続けてきた人”ばっかりなのよ」と優愛が言う。「変化は苦手だけど、地道な積み重ねは得意な人たちばかり」

 「だからこそ、今回のフェスティバルで少しでも新しい風を吹き込めたらいいな」梨絵が柔らかく言った。

 雄太はゆっくりとうなずいた。

 「たぶん皆さんも、僕も――積み重ねることが好きなんだと思います。少しずつでも前に進めば、いずれ形になると信じられるから」

 その静かな一言に、またしても6人の胸がじんわりと温まった。

 (……本当に、どうしてこんなに心をくすぐるのかしら)

 真理は胸の奥に波紋のように広がる感情をそっと受け止めていた。

 (たぶん、この人は“頑張ること”が特別なことじゃなくて、呼吸みたいに当たり前なんだわ)

 「でもさ……」智が小さく笑った。「努力する姿が自然すぎる人って、案外自分じゃ“自分が特別だ”って気づかないんだよな」

 「ほんとよね」と優愛が頷いた。「それが“無自覚な魔性”ってわけね」

 「みんな、魔性魔性って……困ります」雄太は少しだけ頬を赤らめた。

 「いいのよ。褒め言葉なんだから」と真理が優しく微笑んだ。

 潮風がまた柔らかく吹き抜ける。夜の港の静けさの中で、彼らは穏やかな時間を過ごし続けた。ほんの2か月前までは他人だった6人が、今はもう自然と呼吸が合っている。


 ふいに、遠くの波止場の向こうで小さな花火の音が聞こえた。どこかの子どもたちが打ち上げた小さな打ち上げ花火が、ぽんと音を立てて夜空に花開く。淡い光が一瞬、6人の顔を照らした。

 「わぁ、綺麗!」梨絵が歓声を上げた。

 「いい季節になってきたなあ……」智もぼんやりと空を見上げる。

 「もうすぐ夏ね」優愛が微笑んだ。「レター・フェスティバルまであと2か月」

 「本当に準備、間に合うかな?」と知樹が呟く。

 「間に合わせるわよ」真理がきっぱりと答える。「安全確認も工程も、予定通り進んでるわ」

 「俺もスケジュールはフレキシブルに組み直してるし、大丈夫だって」と智も自信たっぷりに続けた。

 「私たちがこうして集まって動いてる限り、きっと成功するよ!」梨絵は笑顔いっぱいで拳を握る。

 雄太は、また静かに皆を見回した。

 「――皆さんが一緒にいてくれるから、大丈夫です」

 またその言葉が、6人の胸をじんわりと温める。まるで定番の安心感のように、雄太のこの“淡々とした断言”は、不思議と絶対的な信頼感を生み出すのだった。

 「ほんと、あなたって人は……」真理がまた小さく笑った。「その落ち着き、私にも少し分けて欲しいわ」

 「でもさあ」智が軽口を挟む。「本当にフェスティバル終わったらどうすんだ? 雄太、お前、次は何を目指すわけ?」

 その問いに、雄太は少しだけ考え込んだ。

 「……まだ分かりません。でも、次もまた、誰かの役に立てる場所があればいいと思います」

 「本当、どこまでもブレないねぇ……」知樹が呆れ半分、感心半分で肩をすくめた。

 「でもそういう人、今の時代には希少よ」真理が柔らかく言った。

 「うん。町の人たちも、きっとあなたの存在に救われてるわ」優愛も静かに付け加えた。

 海辺の風がまたひときわ強く吹いた。遠くでまた小さく花火が上がる。静かな夜はまだ続いていたが、その中に確かに、彼らの絆は少しずつ、着実に強まっていった。


 波の音を背に、会話は自然と穏やかな沈黙に変わった。誰もが水平線の向こうに目をやり、それぞれに考え事をしているようだった。港の照明が静かに水面を照らし、夜の空気はますますしっとりと落ち着いていく。

 その沈黙を破ったのは梨絵だった。

 「ねえ……私、思うんだけど」

 「ん?」と智が顔を上げる。

 「こうやって6人で色んなことやってると、まるで昔からの仲間みたいだよね」

 その言葉に、全員がふっと微笑んだ。

 「確かに」知樹が頷く。「変に気を遣わなくていいのは不思議だよな」

 「たぶん、みんな根っこが似てるのかもしれないわね」と優愛が優しく続けた。「まじめで、地道で、人の役に立ちたいって思ってる」

 「それ、まとめると“地味に熱血”ってこと?」智が茶化して笑った。

 「ぴったりじゃない!」梨絵が嬉しそうに笑った。

 真理は小さく息を吐き、静かに付け加えた。

 「でも、その中心にいるのはやっぱり雄太くんよ。あなたが自然と空気を作ってるの」

 「僕が……ですか?」雄太は相変わらず、きょとんとした顔を見せる。

 「そこが“魔性”なんだよ」知樹が笑う。「自覚なく空気を作る人間が一番強いんだ」

 「そうね。魅力の中心にいるのに、自分じゃ気づかないのがまた厄介だわ」真理も冗談めかして言った。

 「でも、だからこそ安心できるんだろうね」と優愛がふわりと笑った。「“一緒にいて大丈夫”って思わせてくれる空気」

 潮風が再び吹き抜ける。その風の中に、小さく波音が重なる。

 「……本当に、来てくれて良かったわね、雄太さん」

 優愛の静かな言葉に、雄太はゆっくりと微笑んだ。

 「僕も……皆さんに会えて、本当に良かったです」

 再び訪れた静かな沈黙の中で、6人はそれぞれに暖かな満足感を抱いていた。ほんのわずか前までは知らなかった人たちと、こうして寄り添いながら笑い合えている不思議。

 港の向こうには、ぽつりと灯る漁船の明かりが、静かな海に揺れていた。


 そのまま少し肌寒くなり始めた夜の港を後に、6人は商店街へと戻り始めた。ゆったりと並んで歩くその姿は、どこか家族のような温かささえ漂わせていた。

 「さて、そろそろ本格的にイベント告知の準備もしなきゃな」知樹が言う。

 「うん、ポスターとチラシは早めに作ろう」智も頷く。

 「町議会への正式申請書類も整理しておくわ」真理が手帳を取り出す。

 「安全計画の再チェックもやりましょう。あの崩落未遂は報告しておいた方がいいわね」と優愛。

 「わたし、商店街のみんなにも声かけてくる!」梨絵が両手を広げた。

 それぞれの役割が、自然に呼吸するように次々と決まっていく。雄太はその様子を静かに眺めていた。そして、小さく呟いた。

 「……みんな、すごいです」

 その言葉に、全員が足を止めて振り返った。

 「何言ってんだよ」知樹が笑う。「お前がいるからだろ、こうなったのは」

 「そうよ。あなたが最初に“やってみよう”って言ったから、私たちは動き出せたの」真理も微笑む。

 「雄太くんの“魔性”が、全部の歯車を回してるのよ」と優愛が優しく続けた。

 「私たち、魔性チーム第一号!」梨絵が両手で丸を作ってはしゃぐ。

 智が冗談めかして手を挙げる。「よっ、魔性公認チーム!」

 全員がまた笑い合う。夜の商店街に、楽しげな笑い声が響いた。

 しばらくして、アーケードの街灯の下に差し掛かったとき、ふと雄太が空を見上げた。見慣れたはずの星空が、今夜は一段と澄んで輝いているように感じた。

 (……ここに来て、よかった)

 心の中で、静かにそう思った。

 6人の歩みは止まらない。この夜の静かな決意は、やがて町を巻き込む大きな流れへと繋がっていく――

 そして、満天の星が、彼らの未来を静かに照らしていた。


第5話 完

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