第5章:試練、そして真実
月読家を覆う呪詛の影は、日を追うごとに濃くなっていった。涼の体調は悪化の一途を辿り、高熱と咳に苦しむ彼の姿を見るたびに、私の胸は締め付けられた。葵は解呪の方法を探し、椿は兄を案じて食事も喉を通らない様子だった。屋敷の使用人たちも、不吉な空気に怯え、静かに顔を見合わせるばかりだった。
ある夜、私は涼の看病をしていた。額に置いた冷たい布を取り替えながら、彼の苦しげな呼吸を聞いていると、扉が静かに開いた。振り返ると、そこに立っていたのは、男の影。月明かりに照らされたその顔は、以前、葵が話していた黒幕、
影山は、まるでこの屋敷の主であるかのように、何の断りもなく部屋に入ってきた。その目は、獲物を狙う獣のようにギラつき、涼の寝顔を冷徹に見下ろしている。
「ごきげんよう、狐火の巫女殿。そして、愚かな月読の末裔よ」
影山は嘲るような笑みを浮かべた。その声は、蛇のように粘りつき、私の耳の奥にまとわりつく。
「何の用だ。涼様から離れろ」
私の声は、驚くほど冷静だった。涼をこれ以上、苦しませるわけにはいかない。私の霊力が、警戒するように周囲の空気を探っていた。
「用など、一つしかない。月読家を完全に消し去り、その全てを我が手に入れることだ。そして、お前のその力もな」
影山は、懐から小瓶を取り出した。中には、禍々しい紫色の液体が揺れていた。それは、見るだけで吐き気を催すほどの、おぞましい邪気を放っていた。
「これは、月読家を滅ぼすための、最後の仕上げだ。お前がこの男を助けたいのなら、私に従うのだな」
小瓶を涼に近づけようとしたその時、私の体が動いた。霊力を集中させ、影山の腕を強く掴む。しかし、影山は想像以上に強靭で、私の手を強く振り払った。小瓶が床に落ち、ガラスが砕け散ると同時に、紫色の液体が床に広がり、黒い煙を上げて消えた。その途端、部屋に満ちていた邪気が一気に増幅するのを感じた。涼の呼吸が、さらに苦しげになる。
「無駄な真似を……」
影山が私を捕らえようと手を伸ばした瞬間、病に伏せていたはずの涼が、か細い声で叫んだ。
「日向さんに……手を出すな!」
涼は、意識が朦朧としながらも、私を庇うように立ち上がろうとした。その時、私の頭に、突然、鮮烈な光が走った。
それは、まるで凍りついていた何かが砕けるような感覚だった。目の前に広がるのは、幼い頃の記憶。隠り世の森で、人間たちに捕らえられそうになった小さな仔狐の姿。そして、その仔狐を救おうとして、逆に人間に捕まってしまった、里の巫女――アヤ様の姿。私の霊力が暴走し、周囲の全てを焼き尽くすほどの光を放ったあの光景が、鮮明に蘇った。人間への深い憎しみと恐怖、そして自らの力の恐ろしさ。それが、私が人間に対して心を閉ざした理由だった。あの、アヤ様を傷つけた罪悪感が、再び私の心を締め付ける。
その記憶が蘇ると同時に、私の霊力が再び暴走し始めた。部屋の空気が振動し、私の体から、制御しきれない光が溢れ出す。それは、蔵で邪気を浄化した時よりも、はるかに強く、荒々しい力だった。
「これは……まさか、狐火の巫女の真の力…!」
影山は驚きと同時に、その力を手に入れようと、不気味な笑みを浮かべた。彼は私に襲いかかり、私の暴走した霊力を吸収しようと試みる。
「日向さん!」
涼が、命の危険も顧みず、私を庇おうと影山に体当たりした。病弱な涼の力では、影山を止めることはできない。だが、彼が私のために必死になってくれたその姿が、暴走しかけていた私の意識を、現実に引き戻した。
私は、涼の手を握りしめた。彼の温かい体温が、私の心を落ち着かせる。
「大丈夫、涼様。私は、もう逃げない」
私はそう呟くと、意識を集中させた。幼い頃の恐怖を乗り越え、この力を制御する。涼を、月読家を、護るために。
その時、部屋の窓が静かに開き、黒い装束の宵闇が姿を現した。彼は、静かに私の傍らに立つと、その視線は私の目を見つめ、諭すように言った。
「日向様、狐火の巫女の真の力は、憎しみではなく、愛によってのみ制御されるものです」
宵闇の言葉が、私の心に深く染み渡る。
「縁結びの巫女は、隠り世と現世を繋ぐ架け橋。その絆を強めることで、巫女の力は無限となる。あなたは、もう一人ではない」
その言葉と同時に、涼の熱い手が私の頬に触れた。彼の視線は、私の全てを受け入れるかのように、深く、優しかった。
「日向さん。私には、あなたが必要です。この家を、私たちを、どうか護ってください」
彼の真っ直ぐな瞳。その中に宿る、私への信頼と愛情。私は、涼のために、この月読家のために、戦うと決めた。アヤ様を傷つけたという罪悪感も、人間への恐怖も、涼の存在が全てを上書きしてくれた。
私の霊力が、暴走ではなく、意思の力によって、再び輝きを放ち始めた。今度は、内側から溢れ出す、温かく、しかし力強い光だった。その光は、影山が放つ邪気を浄化し、彼の体を縛り上げていく。
影山は、私の変化に驚き、焦り始めた。
「馬鹿な……! お前のような娘に、そこまでの力が…!」
しかし、彼の抵抗も虚しく、私の光は彼を完全に包み込んだ。影山の姿は、やがて光の中に吸い込まれるように消え去った。彼の呪詛の力も、屋敷から完全に払われたようだった。
嵐が去った後のように、部屋には静寂が訪れた。涼は、私に寄りかかったまま、安堵したように息をついていた。彼の額の熱は、不思議なほど下がっていた。
「日向さん……」
涼が、私の名を呼んだ。その声は、かつてないほど力強く、そして、深い愛情に満ちていた。私は、彼の目を見つめ、静かに微笑んだ。幼い頃から抱えていた人間への不信感は、もうどこにもなかった。私と涼の間に、形式的な契約を超えた、真の絆が生まれた瞬間だった。
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