第2章:奇妙な共同生活と最初の事件
月読家での共同生活は、奇妙としか言いようがなかった。
広大な屋敷は、手入れが行き届かず、あちこちが傷んでいた。日中は、涼は書斎に籠り、葵と共に再興のための書簡を読んでいた。椿は、庭の片隅で寂しそうに花に水をやったり、読みかけの本を広げたりしている。私は、ただ決められた部屋で静かに過ごすだけだった。里での生活とは何もかもが異なり、私は常に落ち着かない気持ちでいた。
食卓を囲む時間だけが、唯一、月読家の面々と顔を合わせる時だった。涼は私に気を遣っているのか、それとも元々口数が少ないのか、ほとんど話さなかった。椿は何度か私に話しかけてきたが、私が素っ気ない返事しかできないと、すぐに諦めてしまう。会話を繋ごうと努めていたのは、葵だけだった。
「奥様は、隠り世ではどのような暮らしをされていましたか?」
葵が尋ねる。私はただ「里の掟に従い、日々を過ごしていました」と簡潔に答えた。それ以上の説明は不要だと思ったし、私の生きてきた世界を、この人間に理解できるとも思えなかった。涼は、そんな私の様子を心配そうに見ていたが、何も言わなかった。
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~異文化交流:月読邸での小さな発見~
現世での暮らしは、私にとって全てが初めてのことだった。里では、食べ物は自然の恵みそのものであり、調理も素朴なものばかりだったが、月読家で出される食事は、見たこともないほど彩り豊かで、複雑な味がした。
初めて出された朝食は、白い小さな四角いパンと、透明な液体だった。パンはふわふわと柔らかく、液体は甘い香りがした。
「奥様、これはトーストと、珈琲でございます」
葵が丁寧に教えてくれたが、私はどう食べればいいのか分からなかった。すると、涼が小さく微笑み、自分のパンに茶色いものを塗って見せた。
「これはジャムといって、甘いんです。美味しいですよ、日向さん」
涼はそう言いながら、私のパンにもそっとジャムを塗ってくれた。警戒しながら一口食べてみると、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がり、思わず目を見開いた。甘さというものは、里では自然の果実から得るものだとばかり思っていたが、これほど加工されたものがあるとは知らなかった。涼は、私の反応を見て、くすりと笑った。その顔は、ほんの少しだけだが、私に対する緊張が解けたように見えた。
食事の後は、椿がよく庭に私を誘った。月読家の庭は荒れ果ててはいたが、かつては美しかったであろう面影を宿していた。私は霊力で、枯れかかった草木にそっと触れた。私の力が宿ると、植物は微かに息を吹き返し、やがて青々とした色を取り戻していく。椿は、そんな私の姿を、目を輝かせて見ていた。
「すごい! 日向さんは魔法が使えるの?」
「これは、里の力です。自然の恩恵を受けているだけ」
私はそう答えたが、椿は「まるで魔法みたい!」と、無邪気に喜んでくれた。その笑顔は、私の心に、これまで感じたことのない温かい感情を灯した。私が傷つけたアヤ様の笑顔とは、まるで違う。椿の笑顔は、私の心を癒やしていくようだった。
ある日の午後、書斎で本を読んでいた涼が、私に話しかけてきた。
「日向さん。もしよろしければ、里の古文書について、少しお聞かせ願えませんか? 月読家にも、古くから伝わる書物があるのですが、共通する点があるやもしれません」
私は頷き、里の歴史や言い伝え、巫女の役割について、彼に語って聞かせた。涼は真剣な眼差しで私の言葉に耳を傾け、時折、驚きや感嘆の声を漏らした。彼が里の文化に純粋な興味を抱いていることを知り、私は少し嬉しくなった。私もまた、月読家が保管している現世の書物を手に取ってみた。そこには、私が知る隠り世の歴史とは異なる、現世の豊かな歴史や文化が記されていた。新しい知識を得ることは、私にとって、新鮮な喜びだった。
私たちは、書物を通して、互いの世界を少しずつ理解し始めた。それは、言葉を交わすよりも、もっと深く、心を通わせる時間だった。
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そんな日々が数日続いたある夜、私は異変に気づいた。
部屋で静かに書物を読んでいた時、ふと、遠くで何かが崩れるような音が聞こえたのだ。耳を澄ませるが、気のせいかと思うほど微かな音だった。しかし、私の霊力は、屋敷の中に漂う不穏な気配を感知していた。それは、里で感じたことのある邪悪な気とは異なり、もっと澱んだ、陰鬱な「人の念」のようなものだった。
翌朝、私はすぐに異変の場所を突き止めた。屋敷の奥に位置する、古びた蔵だった。扉は堅く閉ざされ、中に何があるのかは分からない。しかし、そこから放たれる邪気は、昨晩よりも明らかに強くなっていた。
「どうかなさいましたか、奥様?」
廊下を通りかかった葵が、怪訝な顔で私に尋ねた。
「あの蔵から、妙な気配を感じます」
私の言葉に、葵の顔色が変わる。
「蔵でございますか……? 確かに、あの蔵には、月読家の古い調度品や書物などが仕舞われておりますが、まさか」
葵はそこまで言うと、何かを思い出したように沈黙した。その様子から、この蔵に何かしらの曰くがあるのだと悟った。
その日の午後、涼は私を庭に誘った。月読家の庭は、手入れはされていないものの、かつては美しかったであろう面影を残していた。その一角に、ひときわ高くそびえる老木があった。幹は太く、枝は天を覆うように広がっていたが、葉は所々枯れ、生気がない。
「この木は、月読家の『守り神』と呼ばれています。代々、月読家を見守ってきてくれたと。でも……最近は、なんだか元気がないんです」
涼の声には、悲しみが混じっていた。彼がこの木を心から大切に思っているのが伝わってくる。私には、その木から、微かに苦しみの念が発せられているのが感じられた。
その夜、蔵から発せられる邪気がさらに強まった。屋敷全体を覆うかのように、陰鬱な空気が広がる。涼も、夜中に何度も咳き込み、その顔色は一層悪くなっていた。
「あの蔵に、何かがいます」
私は葵に告げた。彼は驚きながらも、私の言葉を信じてくれたようだ。
「……実は、奥様。あの蔵には、代々月読家が封じてきた古い書物があるのです。しかし、最近になって、その封が緩み始めていると、父から聞いておりました」
葵は苦しげに告白した。その書物には、月読家に不運をもたらす、古き呪いが記されているという。涼はその事実を知らず、彼はただ、月読家を襲う「祟り」に怯えているのだと。
私は決意した。このままでは、涼の命にも関わる。私は狐火の巫女。契約相手を護るのも、私の役目だ。
「私が、あの蔵の中を調べます」
私の言葉に、葵は驚き、止めようとしたが、私の強い意志を感じ取ったのか、何も言えずに鍵を渡した。
静まり返った夜の月読邸。私は一人、蔵の扉の前に立っていた。古びた鍵が、重々しい音を立てて回る。軋みを上げて開いた扉の向こうは、漆黒の闇だった。私は霊力で周囲の気を探りながら、足を踏み入れた。
蔵の中は、埃とカビの匂いが充満していた。霊力を集中させると、壁際に積み上げられた古い書物の山から、異様なほど強い邪気が放たれているのが分かった。その邪気は、ただの「悪い気」ではない。怨み、憎しみ、絶望。様々な人間の負の感情が、何百年もの時を経て凝り固まった、禍々しい塊だった。
その邪気の中心に、一冊の、異様に黒ずんだ書物があった。表紙には、読めない文字が記されている。私がその書物に手を伸ばそうとした、その時だった。
「日向さん!」
背後から、涼の声がした。彼は息を切らし、私の名を呼んでいた。その顔は、蒼白だった。
「ここへ来てはだめです! ここは、月読家の…祟りがある場所なのです!」
涼は、必死に私を止めようと手を伸ばしてきた。彼の瞳には、純粋な恐怖が宿っていた。私の顔を、これほど心配そうに見つめる人間がいることに、微かな驚きを覚えた。
「大丈夫です。私が、解決します」
私はそう言うと、涼の制止を振り切り、書物に触れた。瞬間、体中に電流が走るような衝撃が走った。書物から放たれる邪気が、私の霊力にまとわりつき、内側から侵食しようとする。過去の怨嗟の声が、頭の中に直接響き渡るようだった。
しかし、私は屈しなかった。狐火の巫女として、里の均衡を守る者として、この邪気を浄化しなければならない。私は精神を集中させ、全身の霊力を解き放った。
霊力は、私の体から光となって溢れ出し、蔵の中を照らした。怨嗟の声は悲鳴へと変わり、黒い靄となって書物から立ち上る。その光景を、涼は息を呑んで見つめていた。彼の表情には、恐怖だけでなく、驚きと、そして微かな希望が宿っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。邪気は次第に薄れ、最後には完全に消え去った。蔵の中は、清らかな空気に満たされていた。黒ずんでいた書物も、元の色を取り戻していた。
私は深呼吸をして、涼の方を振り返った。彼は、呆然とした顔で私を見つめている。
「……あ、りがとう、ございます。日向さん」
涼は、震える声でそう言った。彼の瞳には、水膜が張っていた。私の顔を、こんなにも純粋な眼差しで見つめる人間がいることに、私は戸惑いを覚えた。
「これが、私の役目ですから」
私はそう答えるのが精一杯だった。しかし、彼の顔に浮かんだ安堵と感謝の表情を見て、私の胸の奥に、ほんのわずかな、しかし確かな温かい感情が灯るのを感じた。それは、里を出てから初めて感じる、人間への、悪い感情ではない何かだった。
翌朝、守り神の古木は、枯れていた葉に新しい芽吹きを見せ始めていた。そして、涼の顔には、昨日までとは違う、穏やかな笑みが浮かんでいた。私たちの奇妙な共同生活は、この小さな事件をきっかけに、少しだけ、変わっていくことになる。
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