第4話 王子との出会い:森の救世主と異界の香り

森の奥から近づいてくる気配は、やがてはっきりとした足音へと変わった。小春が目を凝らすと、木々の間から人影が姿を現す。だが、その姿は、小春が知る「人間」とは少し違っていた。

森の騎士、シオン王子

「そこの者、動くな」

低く、しかし力強い声が森に響き渡った。現れたのは、光沢のある暗色の鎧を身につけた一団だった。彼らは皆、腰に剣を佩き、表情は厳しく、まさに戦士といった風体だ。その中でも一際目を引いたのは、先頭に立つ一人の男性だった。

彼の鎧は、周囲の兵士たちのものよりも明らかに上質で、細部にまで装飾が施されている。深く鮮やかな青色のマントが、風に揺れて翻っていた。頭には、シンプルな、しかし威厳のある兜を被っているが、その下から覗く顔は、整った彫りの深い鼻筋と、引き締まった口元が印象的だった。しかし、何よりも小春の目を奪ったのは、その瞳だ。深い群青色で、まるで夜空の星を閉じ込めたかのような輝きを放っている。その瞳の奥には、疲労と、そして言いようのない憂いが宿っているように見えた。歳は、小春よりもずっと上に見える。おそらく30代前半くらいだろうか。

彼が、小春の嗅覚が感じ取った「緊張」と「責任」の香りの源だった。それに加えて、小春の鼻は、彼の体から微かに立ち上る、別の香りも捉えていた。それは、土の匂いや血の匂いに混じって、深い場所から滲み出るような、「寂しさ」と「諦め」の香りだった。

「ひっ……!」

小春は思わず息を呑んだ。兵士の一人が、剣の柄に手をやり、一歩前に出る。

「貴様、何者だ。こんな森の奥で何をしていた?」

威圧的な問いかけに、小春は言葉に詰まる。

「あ、あの、私、は……」

上手く言葉が出ない小春を見て、先頭の男性が静かに手を上げた。

「待て。危害を加えるようには見えぬ。警戒を解け」

その言葉に、兵士たちはわずかに身を引いた。男性はゆっくりと小春に近づいてくる。一歩、また一歩と近づくたびに、小春の鼻は、彼から放たれる香りの情報に敏感に反応した。

(うわぁ……。やっぱり、この人から「諦め」の匂いがする……。なんでだろう? こんなに強そうなのに……)

小春は、彼の眉間に深く刻まれた皺と、疲労でわずかに赤くなった目元を見つめた。

男性は小春の前で立ち止まった。その視線は鋭く、小春は思わず身をすくめる。

「動けないのか? どこか負傷しているのか」

落ち着いた声で問われ、小春は首を振った。

「い、いえ、怪我はしてないです。ただ、その、急にここに来てしまって……」

「急に、だと?」

男性の眉がわずかに吊り上がる。そして、小春をじっと見つめた。その時、小春は、彼が自分を嗅いでいるような感覚に襲われた。

(あれ……? この人、私からなんか変な匂いがしてるって思ってるのかな?)

彼の表情は変わらないが、小春の鼻は、彼から微かに「違和感」と「困惑」の香りを捉えた。

男性は不意に、小春の身につけているブラウスの袖を指差した。

「その布地……この国の織物ではないな。そして、お前からは、嗅いだことのない香りがする。まるで、人工的に作られた、無機質な香りだ。この森の生命の香りとは、あまりにもかけ離れている」

シオンが感じた「違和感」とは、まさに小春の体から発せられる、現代日本のあらゆる製品に染み付いた「香り」だった。柔軟剤、シャンプー、洗剤、化粧品、そして都会の排気ガスやアスファルトの匂い。このアロマ・エテルナ王国の自然が持つ生命力に満ちた香りと、小春が身にまとっている、人工的で無機質な香りのギャップに、シオンは強く戸惑ったのだ。彼の嗅覚は、その異質さを正確に捉えていた。

「え、あ、それは……」

小春は、自分のブラウスや髪、肌から、まさかそんな「人工的な香り」が放たれているとは思わず、言葉に詰まった。自分にとっては慣れ親しんだ、ごく普通の香りだったからだ。

男性は、さらに小春を観察するように見つめた。その眼差しは、警戒の色を帯びている。

「お前は、どこから来た? ここは王国の森の奥地だ。迷い込んだとは考えにくい」

小春は、正直に話すべきか迷ったが、これ以上隠しても仕方ないと思い、意を決して話し始めた。

「あの、私、その……日本、というところから来ました。駅の近くの道端で、変な果物を見つけて、香りを嗅いだら、気づいたらここにいて……」

「にほん? 果物だと? 何を言っているのか分からん」

男性は眉をひそめ、さらに警戒心を強めた。周囲の兵士たちも、ざわめき始める。小春は、自分が完全に不審人物扱いされていることを悟り、焦った。

「本当なんです! 私、アロマ製品を扱う会社で働いてて、普段から香りは得意なんですけど、あの果物の香りは本当にすごくて! 甘いのにひんやりしてて、きらきらしてて……」

必死に説明する小春の言葉は、男性には支離滅裂に聞こえただろう。彼の体から、「困惑」と「不信」の香りがさらに濃くなるのを感じた。

その時、小春は無意識のうちに、彼の奥底に潜む「寂しさ」の香りが、さらに強くなっているのを察知した。それは、彼の言葉や表情には表れない、心の奥底から滲み出るような、痛々しい香りだった。

「あの……もしかして、あなた……とっても寂しいんですか?」

小春の口から、何の悪気もなく、純粋な問いかけが飛び出した。

男性は、一瞬、完全に動きを止めた。その瞳が大きく見開かれ、驚きと、そして微かな動揺の色を宿した。彼を取り巻いていた「不信」の香りが、一瞬にして「困惑」と「動揺」の香りに変わったのを、小春は感じ取った。

周囲の兵士たちも、ざわつきが止まり、奇妙な沈黙が訪れる。

「……何を、言っている」

男性は、辛うじて絞り出すような声で言った。その声には、怒りよりも、むしろ困惑と、ほんのわずかな怯えのようなものが含まれているように聞こえた。彼は「シオン」と呼ばれているのだろうか、小春はそう思った。

「だって、あなたの周りから、すごく寂しい香りがするんです。あと、なんか、諦めてるような香りも……。なんか、すごく辛いことがあったんですか?」

小春は、自分の異能が暴走していることなど知る由もなく、純粋な心配から、さらに踏み込んで問いかけてしまった。彼女の言葉は、まるで子供が真っ直ぐに大人の心の奥底を覗き込むかのようだった。

シオンは、言葉を失った。彼の感情の香りを、ここまで正確に言い当てられたのは、人生で初めての経験だった。彼は常に、王として、戦士として、感情を表に出さずに生きてきた。その心の奥底に秘めていた、誰にも見せることのなかった感情を、目の前の幼い少女に、あっさりと暴かれたのだ。彼の体からは、「動揺」の香りがさらに強く立ち上った。

「貴様……! いったい何者だ!」

兵士の一人が、シオンの動揺を察し、剣を抜きかけて小春に詰め寄ろうとする。

「待て」

シオンの声が響き、兵士の動きが止まる。シオンは、動揺を抑えるように深呼吸し、小春を改めて見つめた。その表情は、まだ警戒しているものの、先ほどまでの不信感とは異なる、探るような色を帯びていた。

「お前、本当に何も知らないのか……?」

小春は、きょとんとした顔で首を傾げた。その無邪気な瞳に、シオンは妙な居心地の悪さを感じた。同時に、彼女の言葉の裏に、悪意がないことを悟った。ただ純粋に、心の香りを読み取ってしまっただけなのだと。

「……分かった。この森で迷子になった娘、として保護する。都まで連れていく」

シオンはそう告げると、兵士たちに指示を出した。兵士たちは戸惑いつつも、王子の命令に従い、小春を囲むように隊列を組んだ。小春は、まだ状況が飲み込めていないまま、森の中を歩き始めた。シオンは、時折振り返って小春の様子を窺う。彼の鼻には、未だかつて嗅いだことのない、小春から放たれる「異質な人工の香り」がまとわりついていた。それは、警戒すべき異物であると同時に、彼の心の奥底に、微かな「好奇心」の香りを呼び起こしていた。

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