見守る背中
朝の厨房は、まだ火が本格的に回る前の、しんとした空気に包まれていた。
グレイスは鍋の準備を整えながら、扉の向こうの足音に耳をすませる。
まだ誰も起きてくる時間じゃない。けれど最近は、その「例外」が一人いる。
「……おはよう、グレイス」
控えめな声。振り返れば、やはり予想どおりだった。
「おや、フィオ。今日も早いねぇ」
湯を張った桶に手を伸ばしながら、グレイスは自然な調子で応じる。
フィオは慣れた手つきでタオルを絞り、手拭きや食器の準備を始める。最近では何も言わなくても動いてくれるようになった。
「お嬢様の部屋、もう火は入ってる?」
「はい。火起こしはさっき終わりました」
「そりゃ助かるよ。あの部屋、日が入らないから冷えやすいんだ」
そう言いながら、グレイスはこっそりフィオの横顔を見やった。
少し前までは、何を言っても無表情で、まるで糸の切れた人形みたいだったのに——
今は違う。口数は少なくても、気配に柔らかさがある。
お嬢様のことを気にして、さりげなく様子を見に行っているのも、グレイスはちゃんと気づいている。
(あの子なりに、変わろうとしてるのかね……)
大きな音を立てないように、静かに食器を並べるフィオの背中に、そんな思いがふっと浮かぶ。
フィオは無言のまま、絞ったタオルを一度たたむと、指先で端をなぞるように触れていた。
その手が止まり、ぽつりと——
「……昨日、お嬢様が……“ありがとう”って言ってくれました」
声は、かすれるほど小さかったが、その中には確かに、感情の揺れがあった。
——ありがとう。
たった五文字の言葉が、あんなにも胸に残るなんて。
ただの作業にすぎないと思っていたはずなのに。言われた瞬間、どうしてだろう、胸の奥があたたかくなって、少し苦しくなった。
「ちゃんと見てくれてる」「誰かの役に立てた」……そんな当たり前の言葉に、こんなにも動揺している自分がいることに、少し戸惑いながら。
フィオは、自分でもわからない感情を持て余すように、うつむいた。
グレイスは驚かせないように、穏やかに笑う。
「それは、よかったじゃないか。あんた、頑張ってるもんねぇ」
フィオは少しだけ顔を伏せたけれど、目元がほんの少し和らいでいた。
——この子、ようやく「心」で動きはじめたんだね。
静かな朝の厨房に、湯の沸く音がふつふつと響く中、グレイスはひとり、胸の中で小さく頷いた。
◇
昼前の陽射しが、石畳の中庭に柔らかな影を落としていた。
洗濯物を干しながら、グレイスはふと手を止め、二階の窓辺を見上げた。
ちょうどそのとき、窓辺で何かを手渡し合うふたりの姿が見えた。
リディア様が椅子に腰かけ、包帯を巻き直そうとしている。
その傍らに立つフィオは、ぎこちない手つきながらも、真剣な顔で手当てを手伝っているようだった。
指先はまだ慣れていなくて、包帯が少しよれてしまう。けれど、リディア様はそれを責めるでもなく、
微笑みながらそっと手を添えていた。
(……まるで、子どもを見守る親みたいだねぇ)
ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かんで、グレイスは自分で苦笑した。
あの子の不器用な優しさを、リディア様はちゃんと受け取ろうとしている。
どちらが先に心をひらいたかなんて、もう関係ないのかもしれない。
少し前までは、ああいうことはグレイスの役目だった。
けれど最近では、何かとフィオが側にいる。
——別に、いいんだけどね。
グレイスは静かに洗濯物を揺らしながら、続けて空を見上げた。
(あの子は“人のために動く”ことには慣れてる。でも、“誰かに必要とされる”のは、初めてなのかもしれないね)
そしてもうひとつ。
お嬢様もまた、“人を頼る”ということが、どういうものか、やっと知りはじめたのだと思う。
完璧に立ち続けようとする背中は、時にとても脆い。
けれど、今のリディア様は——そうじゃない。
フィオの差し出す手を、ちゃんと受け取ろうとしている。
窓辺のふたりは、何かを言い交わしながら笑っていた。
ほんの一瞬。けれど、それは確かに、本物の微笑みだった。
(……いい顔するようになったねぇ、ふたりとも)
グレイスは思わず目を細めて、陽に透けるシーツを風に泳がせた。
◇
夜の厨房は、薪の余熱とスープの香りに包まれていた。
煮込み終えた鍋を片づけながら、グレイスは静かに手を止め、椅子に腰を下ろした。
湯気の立つカップを両手で包みながら、ひとつ息をつく。
「……フィオ」
名前を呼んでみると、ほんの少しだけ胸の奥が揺れた。
奴隷。
あの子は、そういう立場でこの屋敷に来た。
でも——リディア様の目に映っているのは、きっとそれだけじゃない。
(あの子なら、お嬢様の助けになってくれるかもしれない)
いつからか、そんな期待を抱いてしまっている自分がいる。
けれど同時に、その思いにブレーキをかける声もある。
(……でも、“友達”なんて、許される関係じゃない)
使用人の自分ですら、一歩引いてきた。
この家に仕えて長い身として、お嬢様の“未来”を思えばこそ、踏み越えてはいけない一線がある。
それでも、ふたりを見ていると、思わず笑みがこぼれてしまうことがある。
寄り添って、支え合って、まるで——
「……ほんと、ずるいよ。応援したくなっちゃうじゃないか」
小さく笑って、湯気を見つめる。
(リディア様は、ずっとひとりで頑張ってきた)
ご両親が亡くなられてからの一年——
あの子がどれほど気丈にふるまってきたか、誰よりも近くで見てきた。
笑って、堂々として、まるで本当に平気そうに見えたけれど。
でも本当は、誰よりも……ひとりだったのかもしれない。
使用人たちは「お嬢様」に仕えるけれど、その心にまで踏み込もうとはしない。
グレイスだって、守ることばかりで、寄り添うことはできていなかった気がする。
——“孤独”だったのは、きっとお嬢様のほう。
だから、あの子がそばにいてくれるなら——フィオが、あの子の心を温めてくれるなら。
それだけで、どれほど救われるだろうか。
フィオが、そんなお嬢様の“心”に触れてくれるなら——
もしも、あの子がただの“従者”以上の存在になれるなら。
「……ねぇ、フィオ。どうか、お嬢様をひとりにしないでおくれよ」
独り言のような声が、夜の厨房にやさしく溶けていった。
そして翌朝もまた、変わらぬ日常が始まる。
湯気の立つ鍋と、パンの焼ける香りと、食器が重なる音のなかに、ふたりの小さな変化がそっと溶け込んでいく。
誰もがまだ、それに気づいてはいない。
けれどきっと——
その温度にだけは、屋敷の空気が、ほんのすこしだけ、敏くなっている。
閉じた瞳の国 澄吹 @suhukit
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