傷ついた誇り

 オークション会場を出るとき、私は自分の足で歩いているのかも曖昧だった。


背中に、いくつもの視線が突き刺さる。

それは冷笑、侮蔑、あるいは怒り。


「気でも狂ったか、あの小娘」「“神話の遺物”をさらっていくとはな」

「結局は、金の力を見せびらかしたいだけさ」「惜しいな。あれは飾ってこそ絵になる代物だったのに」


笑い声、舌打ち、ささやき。

それらが鉛のように喉の奥に詰まって、呼吸すら苦しかった。


けれど私は、足を止めなかった。止まれば崩れてしまいそうで。


一歩ごとに、心が痛んだ。

それでも、後悔はしなかった。


あの子の瞳を見て、黙って見過ごせる人間にだけは、なりたくなかったから。


控え室の扉の前には、案の定あの男——オークション主が待っていた。

初老の男。脂の浮いた口髭。顔にはにやけたような余裕。


「いやはや……さすがはヴァレンシュタインのお嬢様。

ご自身の一声で“競り”を終わらせてしまうとは」


「市場は冷えてしまいましたが、さぞやお父上もお喜びでしょうな。

……ええ、お戻りになられたときには、どうかご報告をお忘れなく」


私は彼を睨みつけた。怒りというより、もはや自分を支えるためにそれしかなかった。


「あなたのやっていることは——恥ずべき行いよ。人を品物として扱って、平気な顔をして……!」


私は声を張った。喉の奥が焼けるようだった。

自分でも、それが怒りだけではなく、悔しさや恥に近いものだとわかっていた。


「そうお怒りにならずとも」

男は肩をすくめる。「あなたも結局、買われたではありませんか」


にやけた唇の端が、私の良心を嗤っている。

……そう、彼は最初からわかっていたのだ。

私がどんなに綺麗事を並べても、“奴隷を買った”という一点において、彼と同じ土俵に立ってしまったことを。


言葉が喉の奥で詰まった。


「どんな理由であれ、“奴隷を買った”という事実は、消せません。私から見れば、お仲間ですな。違いますか?」


あざけるような声に、全身が冷たくなる。


「……それしか、なかったのよ」


声が震えた。情けなかった。こんな声を、誰にも聞かれたくなかった。

それでも言わなければ、押し潰されそうだった。


「誰かにあの子が渡るくらいなら、私が——私が連れ出すしか、なかった……」


「ええ。ええ、まさにその通りですとも」


男は笑った。深く、ゆったりとした笑みだった。

それはまるで、私の“正義感”という名の薄氷が砕けていく音を、楽しんでいるようだった。


「この国では、正義も優しさも、制度の檻の中でしか動けない。そうでしょう?」


言い返せなかった。

なにより、彼の言葉が——悔しいほど正確だった。


そうして彼は、懐から一組の鍵と、数枚の書類を取り出した。


「では、形式的な引き渡しを。こちらが首輪の鍵と管理指示書です。命令語一覧や拘束具の使用方法も載っておりますが、まあ、良く躾けられた個体ですので、ご心配なく」


目の前に差し出された銀の鍵。

それが、“所有”の証なのだと思うと、指先が冷たくなった。


「そんなもの、使わないわ」


「おや、それはご立派な。では、鞭も罰符も不要ということで?」


「当たり前でしょ。あの子にそんな扱いをするつもりはない」


私の口調は静かだった。でもその奥で、感情は噴き上がっていた。


「ふふ……どうぞご自由に。どのように扱われようとも、“所有者”の裁量ですからな。

どうか末永く、大切になさってください」


表面上は丁寧な言葉。でも、その奥にあるのは——私が“買い潰した”ことへの、露骨な皮肉だった。

本来ならもっと釣り上がるはずだった金額を、私が終わらせてしまったのだから。


オーナーにとって、私は“場を壊した子ども”なのだ。

どれだけ正義を振りかざしても、彼の目に私は“商売を邪魔した貴族の娘”にすぎない。


私は封筒と鍵を無言で受け取った。

指先が、かすかに震えた。


ドアの奥から、かすかな鎖の音が聞こえた。


——ああ、そうだった。私はこれから、あの子と向き合わなければならない。


深く息を吸って、私は震える手で、扉を押し開けた。

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