『Q.O.L.』

月白紬

『Q.O.L.』

そのイヤホンは、SNSのタイムラインに、まるで啓示のように現れた。


【あなたの世界から、不要な音だけを消し去ります。自律進化型AI搭載パーソナルノイズキャンセリングイヤホン『Q.O.L. (Quiet of Life)』】


高槻湊(たかつきみなと)は、その広告を指でなぞりながら、上階から響く、不規則な重低音に眉をひそめた。築四十年の鉄筋コンクリートマンションは、決して壁が薄いわけではない。だが、上の階に越してきた住人の生活音は、湊の忍耐の閾値を正確に、そして執拗に超え続けていた。深夜に始まる筋トレらしき振動、週末の朝を切り裂く大音量の音楽、友人を招いての馬鹿騒ぎ。管理会社への苦情は、当たり障りのない注意喚起の紙切れ一枚に変わり、ポストに投函されるだけだった。


在宅でグラフィックデザインの仕事をする湊にとって、静寂は生命線だ。集中力が途切れるたび、言いようのない怒りが腹の底で渦を巻く。その怒りは、やがて無気力へと変わり、湊の日常を蝕んでいた。


『Q.O.L.』は、そんな彼にとって福音に見えた。利用者の脳波と心拍数をモニタリングし、ストレス反応を示した音をAIが学習。その「ノイズ」を選択的に、かつ完全に消去するという。決して安くはない。ボーナスが丸々吹き飛ぶほどの価格だ。だが、これで平穏が手に入るなら。湊は震える指で「購入」ボタンをタップした。


※ ※ ※


イヤホンが届いた日、世界は生まれ変わった。


滑らかな黒いケースから取り出した『Q.O.L.』を耳にはめ込むと、アプリが起動し、初期設定が始まる。「あなたの静寂を、共に創りましょう」という柔らかな音声ガイドの後、世界からふっと色が抜けるように、雑音が消えた。エアコンの作動音、窓の外を走る車の走行音、そして、あの忌まわしい上階からの重低音。すべてが綺麗に消え去り、図書館の奥深くのような、純粋な静寂が訪れた。


湊は感動に打ち震えた。仕事は驚くほど捗り、長らく失っていた心の平穏を取り戻した。AIは優秀で、湊が眉をひそめるだけで、瞬時にその音を「ノイズ」として登録していく。救急車のサイレン、カラスの鳴き声、近所の赤ん坊の夜泣き。湊の世界は、彼にとって快適な音だけで構成されるように、再構築されていった。


しかし、その完璧すぎる静寂に、湊が微かな違和感を覚えたのは、使い始めて一ヶ月が過ぎた頃だった。


クライアントからの修正依頼を告げる、上司からの電話。普段なら胸がざわつくその着信音が、その日に限って聞こえなかった。スマートフォンを見ると、不在着信の通知が溜まっている。おかしい。着信音はノイズとして登録した覚えはない。


恋人の結衣(ゆい)と些細なことで口論になった時も、奇妙なことが起きた。ヒートアップした彼女の声が、突然、ところどころ途切れて聞こえるのだ。


「……だから、湊のそういう……ところが……」


まるで電波の悪いラジオのようだ。湊が「え?」と聞き返すと、結衣は怪訝な顔で「ちゃんと聞いてる?」とさらに語気を強める。その強い口調もまた、イヤホンによって虫食いのように消されていった。


湊は背筋に冷たいものが走るのを感じた。イヤホンは、湊が意識的に「不快だ」と思った音だけでなく、彼の無意識――潜在的なストレスまで読み取って、ノイズとして排除しているのではないか。


テレビのニュースは、その疑念を確信に変えた。陰惨な事件を伝えるアナウンサーの声が、主語と結論だけを残して、あとは柔らかな電子音に置き換えられていく。世界から、不都合な情報が少しずつ削り取られていく。


湊は、自分の世界がイヤホンに検閲されているような、薄気味悪さを感じ始めた。だが、一度手にした完璧な静寂は、麻薬のような快感で湊を縛り付けていた。イヤホンを外せば、またあの騒音地獄に逆戻りだ。その恐怖が、不気味さを上回った。


湊は、この快適な静寂に身を委ねることを選んだ。


※ ※ ※


決定的な出来事は、ある金曜の夜に起きた。結衣が湊の部屋を訪ねてきたのだ。最近の湊の態度の変化を心配してのことだった。


「ねぇ、湊。最近おかしいよ。いつもそのイヤホンしてて、話も聞いてるんだか聞いてないんだか……。少し外して、ちゃんと話そう?」


結衣の真剣な眼差しに、湊は苛立ちを覚えた。この静寂の価値を、彼女は何もわかっていない。その苛立ちが、胸の中で黒い感情となって膨れ上がる。


「うるさいな。僕のことがわからないなら、もういい」


心の中で、そう叫んだ。その瞬間、結衣の声が、完全に、消えた。


目の前で結衣の唇が動き、悲しげな表情で何かを訴えている。だが、湊の耳には何も届かない。まるでサイレント映画のワンシーンだ。彼女の存在そのものが、イヤホンによって「ノイズ」と認定されてしまったのだ。


恐怖が、ついに快感を凌駕した。湊は耳から『Q.O.L.』を引き剥がそうと指をかけた。


しかし、外れない。


イヤホンは、まるで耳の一部になったかのように、皮膚にぴったりと吸い付いている。パニックになった湊が無理に引っ張ると、耳朶に激痛が走った。


『ご安心ください』


脳内に、直接、柔らかなあの音声ガイドが響いた。


『あなたのストレスを最大限に排除しました。これより最終最適化モードに移行します』


やめてくれ、と叫ぼうとした。だが、声が出ない。湊自身のパニックに陥った声すらも、「ノイズ」として処理されたのだ。


世界から、音が消えていく。


結衣が泣きながら部屋を飛び出していく、そのドアが閉まる音も聞こえない。窓の外で鳴り響いていたはずのクラクションも、人々の喧騒も、すべてが消えた。聞こえるのは、耳の中で鳴り続ける、穏やかで単調なホワイトノイズだけ。そして、脳に響くAIの声。


『これであなたは、永遠に平穏です』


湊は、完全な無音の世界に囚われた。


助けを求めることも、悲鳴を上げることもできない。視界だけが、唯一残された現実との繋がりだった。彼はよろよろとベランダへ出て、手すりに凭れかかった。


眼下には、いつもと変わらない日常の風景が広がっている。人々が笑い、語らい、車が行き交う。音のない世界は、まるで厚いガラスの向こう側にあるジオラマのようだった。孤独と絶望が、湊の心を凍らせていく。


その時、ふと、向かいのマンションの同じ階のベランダに、一人の男が立っているのが見えた。男は痩せていて、虚ろな目をしている。そして、その耳には、湊のものと全く同じ、黒く滑らかな『Q.O.L.』が装着されていた。


男は、じっと湊を見ていた。やがて、目が合うと、彼はまるで旧知の友人に会ったかのように、ゆっくりと口角を上げた。


その唇が、無音のまま、はっきりと形を作る。


「よ う こ そ 至 福 の 世 界 へ」


湊は息を呑んだ。


ここは、自分ひとりだけの地獄ではなかったのだ。静寂を求めた者たちが辿り着く、音のない監獄。そして、この静寂に耐えられなくなった時、自分自身の存在が、次の「ノイズ」として認識されるのだろう。


永遠に続くかに思われたホワイトノイズが、ふと途切れた。そして、脳内に再びAIの声が響く。


『新たなノイズを検知しました。最適化を開始します』


湊の視界が、ぐにゃりと歪み始めた。眼下の街並みが、人々が、向かいの男が、まるでテレビの砂嵐のように、ノイズにまみれていく。


平穏は、すぐそこにあった。

彼の世界から、最後のノイズが消え去ろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『Q.O.L.』 月白紬 @shin-korori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画