第8話

夜の闇は僕にとって最高の隠れ蓑だった。一条院司が僕の存在を特定し追っ手を放った今、司令室としていた安アパートはもはや安全な場所ではない。僕は最低限の荷物をバックパックに詰め、ネオンの光が届かない街の裏路地を縫うように移動した。


狩られる側に回ったが、僕の心に焦りはなかった。むしろチェス盤のキングが自ら動き出したことへの、冷たい高揚感さえ覚えている。追い詰められているのは果たしてどちらか。その答えは卒業式の日に明らかになる。


僕が新たな拠点に選んだのは、閉館した市民ホールの使われていない地下ボイラー室だった。埃っぽく機械油の匂いが立ち込めるその場所は、僕のような亡霊が潜むにはうってつけだ。幸い古いコンセントはまだ生きており、作戦司令室を再構築するには十分だった。


ノートパソコンを開きフリーWi-Fiに接続する。僕は唯一の共犯者である詩織へ、暗号化したメッセージを送った。

『アジト変更。最終作戦要項を送る。確認後データは即時消去せよ』


すぐに『了解。武運を祈る』という短く頼もしい返信が届いた。僕は僕の復讐計画の心臓部である設計図、旧図書館で実行する物理トリックの全貌を彼女に送った。


『卒業式終了後、全校生徒は旧図書館へ移動する。一条院による「学園の未来」と題したスピーチが始まる。君の役目はそのスピーチのクライマックスだ。彼が「我が校の栄光は、永遠に不滅です」と宣言した瞬間、二階東側回廊の三番目の書架の上から、指定した重さの古書を真下の床に落下させろ』


『落下音はきっかけに過ぎない。人々の注意を天井に向けさせるミスディレクションだ。本当のトリガーは僕が遠隔操作する。君が本を落としたコンマ五秒後、僕はプロジェクションマッピング用の特殊プロジェクターから高周波パルスを照射し、天井裏の受信機を作動させる』


『受信機は極細のピアノ線に繋がれた留め金を外す。すると三階天井裏に固定された古い本の昇降機、ダムウェーターの均衡が崩れる。だが落下はしない。僕が計算したカウンターウェイトにより、それは亡霊のようにゆっくりと音もなく吹き抜けの中央を降下し始める』


『そしてダムウェーターが二階と三階の中間点を通過する時、アームが作動して古いシャンデリアの傘の中に隠した「証拠物件」を解放する。証拠は特殊フィルム製の小さなパラシュートで、光を浴びてゆっくり舞い降りる。まるで天罰が下るように。そしてそれは一条院の立つ演台の真上に着地する。君の役目はそこまでだ。あとは最高のショーを特等席で楽しんでくれ』


これが僕の卒業制作の全貌、誰にも解けない完璧なアリバイ工作だ。僕がその場にいなくても、全ての仕掛けは寸分の狂いもなく作動する。


だが計画を完璧にするにはもう一つ、最後のピースが必要だった。

僕はボイラー室を出て再び夜の街へ向かった。目指すは以前住んでいたアパートの近くにある小さな公園。一条院の追手、おそらく彼が金で雇った調査員がうろついている可能性が最も高い危険な場所だ。


危険は承知の上だった。どうしてもそれが必要だったからだ。

公園の植え込みには僕が事前に決めた場所に、小さな防水ケースが埋めてある。中身はこの復讐劇の仕上げに必要な、小さな電子機器だ。


深夜、僕はパーカーのフードを深く被り猫のように気配を殺して公園に近づいた。案の定、公園の入り口が見える位置に一台の黒いセダンが停まっている。素人ではないプロの調査員だ。


彼らの注意を逸らす必要があった。僕は公園の反対側にあるゴミ捨て場へ石を投げつけた。ガシャンという大きな音が響き、セダンのドアが静かに開く。二人の男が音のした方へ警戒しながら向かっていく。


今しかない。

僕は男たちが死角に入った瞬間を狙い、一気に公園の植え込みへ駆け込んだ。土を掘り返して目的の防水ケースを掴む。そしてすぐさまその場を離れ、複雑に入り組んだ路地裏へ身を滑り込ませた。


「待て!」

背後から鋭い声が飛んできた。見つかった。男の一人が僕の姿を捉えたのだ。

僕は全力で走った。肺が張り裂けそうだがここで捕まるわけにはいかない。僕の脳内にはこの地域の全ての道が地図のようにインプットされている。僕はあえて狭く見通しの悪い路地を選んで逃げ込んだ。


追手の足音が背後から迫ってくる。僕は角を曲がる直前にわざと自分の着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。追手は一瞬パーカーに気を取られ足を止めるだろう。そのコンマ数秒の隙が僕の勝敗を分ける。


計算通り追手は一瞬戸惑った。その隙に僕は工事中のビルの足場へ駆け上がり、隣のビルの屋上へ飛び移った。追手は僕を見失い下で悪態をついている。


僕は屋上の闇に紛れながら荒い息を整えた。手の中には防水ケースが固く握りしめられている。危ない賭けだったが勝ったのは僕だ。


ボイラー室に戻り僕はケースを開けた。中には手のひらサイズの小さな黒い箱が入っていた。僕がアルバイト代を全て注ぎ込んで海外の業者に作らせた、特殊な指向性スピーカーだった。


卒業式当日、これが僕の最後の武器になる。このスピーカーはピンポイントでたった一人の人間にしか聞こえない音を届けることができるのだ。


僕はノートパソコンのカレンダーを見た。赤い印がつけられた卒業式の日。それは明日だった。

全ての準備は終わった。役者も舞台も脚本も全てが揃っている。


「舞台は整った。さあ始めようか一条院司。君のための最後の卒業制作を」


僕はボイラー室の冷たいコンクリートの上で、静かにしかし確かな勝利を確信しながら決戦の朝を待った。

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