第5話
司令室の壁に引かれた二本の赤いバツ印。
それは僕の復讐劇が、順調に第二幕へと進んだことを示していた。田中正平という権威に媚びる石垣を崩し、西園寺隼人という虎の威を借る壁を打ち砕いた。しかし、一条院司という巨大な城は、まだびくともしない。彼の周りには、彼という存在を支える、幾人もの人間がいる。
僕の視線は、相関図に貼られた次の一枚の写真へと注がれた。
長い黒髪が清らかな印象を与える、物静かな雰囲気の女子生徒。
白石結菜(しらいし ゆいな)。
『白石結菜。18歳。園芸部部長。心優しく、誰にでも分け隔てなく接するため、特に女子生徒からの信頼が厚い。一条院司を「清廉潔白で、正義感あふれる理想のリーダー」だと純粋に信奉している。弱点は、そのあまりにも純粋な信仰心。そして、信じるものが汚されることへの、極端なまでの拒絶反応』
彼女は、聴聞会で涙を流していた。
一条院の悲痛な演技に心を打たれ、僕を心の底から軽蔑し、非難していた一人だ。彼女の純粋さは、時として、真実を見えなくさせる強力なフィルターになる。そして、その純粋さこそが、彼女を崩すための最大の武器となる。
「君が信じる神は、君が思うほど綺麗じゃない。その曇りなき瞳に、真実の姿を焼き付けてあげよう。白石さん」
僕は、彼女を落とすための脚本を、静かに組み立て始めた。
直接的な攻撃は意味がない。僕のような「追放された大罪人」の言葉など、彼女には届かないだろう。彼女自身の目で、一条院司の醜い本性を目撃させる必要がある。彼女が最も大切にしているものを、一条院自身の手で踏みにじらせるのだ。
ターゲットは、園芸部が心血を注いで育てている、中庭の薔薇園。
特に、卒業式に合わせて開花するように調整された、新品種の白い薔薇『ノーブル・プリンセス』。それは、白石さんたち三年生部員にとって、三年間の活動の集大成とも言える、大切な宝物のはずだ。
僕は、協力者である詩織に、短いメッセージを送った。
『D-3、開始。舞台は中庭。主役は白石結菜。観客は園芸部員たちだ』
『待ってました! あの清純派の巫女様ね。彼女をどうやって落とすの?』
好奇心に満ちた返信が、すぐに届く。
『神に、供物を破壊させる』
僕は、そうとだけ返信した。
作戦の第一段階は、噂の流布だ。
僕は、陽泉学園の生徒が利用する、匿名掲示板に、巧妙な嘘を書き込んだ。アカウントは、もちろん使い捨てのものだ。
タイトル:【超ヤバい】隣の男子校の奴らが、うちの学校に何か隠したらしい
『昨日、深夜にうちの学校に忍び込んでた隣の男子校の奴らを見たって友達から聞いた。なんか、中庭の薔薇園のあたりに、ヤバいもん隠したらしい。補導された先輩の腹いせに、卒業式をメチャクチャにする計画だとか。盗んだバイクとか、そういうレベルの話じゃないっぽい。マジで警察沙汰になるやつかも』
内容は、荒唐無稽だ。
だが、具体的な校名と、「卒業式をめちゃくちゃにする」というキーワードが、生徒たちの不安を煽るには十分だった。この噂は、詩織が新聞部の情報網を使って、さらに信憑性のある形で拡散させてくれる手筈になっている。
そして、作戦は第二段階へ。
僕は、一条院司のSNSアカウントに、匿名のダイレクトメッセージを送った。
『拝啓、偉大なる生徒会長殿。あなたの耳にも、すでに入っているかもしれませんが』
僕は、わざとへりくだった態度で切り出した。
『中庭の薔薇園に、由々しき事態が発生しているようです。ライバル校の生徒が、本校の卒業式を妨害するため、危険物を隠したとの情報があります。これは、単なるイタズラでは済まされない、学園の危機管理能力が問われる重大な案件です。警察沙汰になる前に、あなたのリーダーシップで、迅速に問題を解決されることを、一生徒として切に願っております』
プライドが高く、自らの評価を何よりも重んじる一条院が、この問題を放置するはずがない。特に、「学園の危機管理能力」「リーダーシップ」という言葉は、彼を動かすための完璧なトリガーだ。彼は、この問題を解決することで、自分の評価をさらに高めようとするだろう。
最後の仕上げは、白石さん本人へのアプローチだ。
僕は、公衆電話から、声を押し殺して園芸部の部室に電話をかけた。電話に出たのは、幸運にも、彼女本人だった。
「……はい、園芸部です」
「……白石結菜さん、ですね。突然すみません。あなたの育てた薔薇を、心から愛している者です」
僕は、ファンを装って、ゆっくりと語りかけた。
「ネットの噂、見ましたか。心ない者たちが、あなたたちの大切な薔薇園を狙っているようです。今夜あたり、薔薇を荒らしに来るかもしれません。どうか、あなたたちの手で、あの美しい薔薇たちを守ってあげてください。お願いします」
それだけ言うと、僕は一方的に電話を切った。
彼女の純粋さと、薔薇への愛情。そして、部長としての責任感。
彼女が、今夜、薔薇園を見回りに行くであろうことは、ほぼ確実だった。
全ての駒は、配置された。
あとは、舞台の幕が上がるのを待つだけだ。
その日の夜。
僕は、学園を見下ろせる、近くのマンションの非常階段に潜んでいた。詩織からのリアルタイムの情報が、僕のスマートフォンに送られてくる。双眼鏡を構え、漆黒の闇に包まれた中庭を凝視する。
『ターゲット、白石結菜。園芸部員数名と、中庭に現れたわ。懐中電灯で薔薇園を見回っている』
詩織からのメッセージ。計画通りだ。
そして、その数分後。
もう一つの光が、中庭に現れた。
一条院司だ。彼は、生徒会の役員数名を引き連れて、堂々と歩いてくる。その手には、スコップやシャベルが握られていた。
双眼鏡のレンズの中で、二つのグループが対峙する。
懐中電灯の光が、互いの顔を照らし出す。
「一条院様……? こんな夜中に、一体何を……」
白石さんの、戸惑う声が聞こえてきそうだった。
一条院は、彼女を一瞥すると、まるで邪魔者でも見るかのような冷たい視線を向けた。
「ああ、白石さんか。丁度いい。君たちも手伝ってくれ。この薔薇園を、今から全て掘り返す」
「……え?」
白石さんの声が、凍りついた。
「ほ、掘り返す……? なぜですか! この薔薇は、私たちが、卒業式のために……!」
一条院は、苛立たしげに舌打ちをした。
「そんなことより、重大な問題が起きているんだ。この薔薇園のどこかに、学園の安全を脅かす危険物が隠されているという情報が入った。万が一のことがあってはならない。生徒の安全を守るためだ。多少の犠牲は、やむを得ないだろう」
彼の言葉は、正論に聞こえる。
だが、その口調には、薔薇を育んだ者たちへの配慮など、微塵も感じられなかった。彼にとって、この薔薇園は、自らのリーダーシップを見せつけるための、ただの舞台装置に過ぎないのだ。
「そんな……嘘です! 私たちが、ずっと見守ってきました! 何も埋められてなんかいません!」
必死に食い下がる白石さん。
その彼女の訴えを、一条院は鼻で笑った。
「君の感傷と、全校生徒の安全。どちらが重要かは、言うまでもないだろう。いいから、早くどきたまえ。これは、生徒会長としての命令だ」
非情な宣告。
一条院は、自らスコップを手に取ると、躊躇なく、純白の『ノーブル・プリンセス』の根元に、その刃を突き立てた。
ザクリ、という鈍い音が、夜の闇に響く。
土が掘り返され、大切に育てられた白い薔薇が、無残にも横倒しになる。
「あ……」
白石さんの口から、悲鳴にならない声が漏れた。
彼女の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれている。
他の園芸部員たちも、呆然とその光景を立ち尽くすだけだった。
一条院は、部下たちに顎で指示を出す。
「何をぼさっとしている! 時間がないんだ、急げ!」
生徒会の役員たちが、次々と薔薇を掘り返していく。
美しい花びらが踏みにじられ、泥にまみれていく。それは、白石さんの純粋な信仰が、土足で踏みにじられていく光景そのものだった。
彼女が信じていた「清廉潔白なヒーロー」は、そこにいなかった。
いたのは、自分の目的のためなら、他人の大切なものや想いを、平気で破壊する、冷酷な独裁者だけだった。
やがて、薔薇園は、見るも無残な更地と化した。
もちろん、危険物など、どこからも出てくるはずがない。
一条院は、忌々しげに土を払うと、こう言い放った。
「どうやら、ガセネタだったようだな。だが、これも危機管理の一環だ。仕方ない。……ああ、白石さん。後片付けは、君たちで頼むよ。これも、園芸部の仕事だろう?」
その言葉が、決定的な一撃となった。
白石さんの膝が、ゆっくりと崩れ落ちる。彼女の瞳から、光が消えていた。
絶望。裏切り。そして、深い深い、失望。
彼女が抱いていた、一条院司という偶像が、ガラガラと音を立てて崩壊していくのが、僕の場所からでもはっきりと分かった。
僕は双眼鏡から目を離し、静かに息を吐いた。
壁に貼られた相関図。
僕は、白石結菜の写真の上に、三本目となる赤いバツ印を、心の中で、強く書き記した。
「神は、死んだ。……君の世界では、ね」
ドミノは、三つ倒れた。
その振動は、もはや無視できない揺れとなって、城の中心を脅かし始めている。
一条院の牙城を支えていた、人望という名の柱が、今、一本、へし折られたのだ。
僕は、次のターゲットに、静かに思考を巡らせる。
そろそろ、生徒という駒ではなく、この茶番劇を裏で支えた、より大きな存在に手をかける時だ。
「あなたの怠慢が、悲劇を生んだのですよ。……見ていますか、教頭先生」
復讐の矛先は、学園の、さらに深い場所へと向けられようとしていた。
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