第20話 爆発前夜


リヴィナ村を後にした助祭レオヴィヌスは、トゥレミスの街を目指して歩いていた。

彼の心には、村で出会った少女アーデルの不思議な力が重くのしかかっていた。

アーデルを庇護ひごすると誓ったはいいが、助祭の身ではその約束を果たすだけの権限も力も不足していることを痛感していた。


アーデルは、麦と慈愛の力だけで村ひとつ分の魔法を発揮できる。

それはまさに奇跡であり、様々な権力が放置するはずがない。

もし教会が庇護できなければ、彼女の身に何が起こるか。

レオヴィヌスは、その重責に押しつぶされそうだった。

彼にできることは、ひたすらに教会に報告し、上層部の理解と庇護の許可を得ることに尽きる。

だが、果たして彼らはこの「奇跡」を受け入れるだろうか。

あるいは、無視するのか、それとも危険視して排除にかかるのか……。

レオヴィヌスの足取りは、そんな重い思案と共に、しかし決意を固めて進んでいた。


午後も半ばを過ぎた頃、レオヴィヌスはトゥレミスを囲む城塞門にたどり着いた。

城壁は高く、身長の五倍近くもある石作りだ。

門兵に名を告げ、腰から下げた教会印章付きの助祭証票を見せる。

市評議会の門兵は慣れた手つきでそれを確認し、彼を市中へと通した。

都市の喧騒けんそうが、村の静けさとは異なる重さでレオヴィヌスを包む。

彼は迷わず、市の中央にそびえる聖エルセリア参事会教会へと直行した。


*参事会教会


聖エルセリア参事会教会の外観は、トゥレミスの街の誇りそのものだった。

高くそびえる二本の鐘楼は、都市のどこからでも望め、まるで天へ祈りをささげているかのよう。

灰色がかった石造りの壁面には、聖人たちの物語や福音の場面が緻密な彫刻で刻まれ、信仰の深さを伝えていた。

正面の巨大なバラ窓は夕日に照らされ、ステンドグラスの複雑な模様が鈍く輝く。

その存在感は、この都市における教会の揺るぎない権威を無言で主張していた。



礼拝堂に入ると、かすかな香の匂いがレオヴィヌスの心を落ち着かせた。

祭壇に向かい、短く祈りを捧げる。

彼の祈りは、無垢むくなる少女の安寧と、自身の導きが正しいものであるようにという、切実な願いだった。

祈りを終えると、彼は内務棟へと足を進めた。


内務棟の執務階に上がると、副院長コンラート・フォン・ハイデックの部屋へやの前に立った。

部屋から漏れる低い声に、執務中であることを察する。

応対に出た若い書記に「急ぎの巡察報告があります」と簡潔に伝え、取り次ぎを請うた。


やがて部屋に通されると、副院長は机に向かい、書類の山から顔を上げた。

レオヴィヌスはよどみなく、口頭で一次報告を行った。


「副院長殿。北方巡察より戻りました。報告ですが、リヴィナ村にて、強い魔法的反応を伴う少女の存在が確認できました。未洗礼ですが、清廉な家族おもいの子です――」


副院長コンラートは、レオヴィヌスの言葉を遮ることなく、静かに耳を傾けていた。


「その子供は無垢で慈愛にあふれた子で、それ故に世俗の権力にも脆弱ぜいじゃくです。わたしはその子を教会が急ぎ救うべきと考えております」


彼の表情は変わらないが、その眼差まなざしは、言葉の裏に隠された緊急性を探るようにレオヴィヌスを捉えていた。

レオヴィヌスは一息ついて、請願を続けた。


「つきましては、翌朝、その少女を伴い参事会教会へ同行させたく存じます。彼女の信仰と安全、両面から、教会としての庇護を仰ぎたく――」


副院長は一度だけ静かにうなずいた。


「念のため、記録を残しておきましょう。記録司と報告覚書を整えてください」


彼はそう指示した。その声には、冷徹な事務官としての静かな確信がんでいた。

レオヴィヌスは指示に従い、書記部屋へと足を運ぶ。

迎えたのは、まだ若い記録司だった。

彼は使い古された羊皮紙を取り出し、助祭の口述を黙々と記録していった。

それは「仮覚書」として扱われ、通常であれば、どこにも届かぬまま、記録庫の片隅にまれて終わるはずの文書だった。


レオヴィヌスが部屋を去った後、副院長はその覚書に目を通した。

文面の形式と構成に瑕疵かしがないことを確かめ、改めて内容に目を走らせる。

そして、副院長コンラートは、静かに確信を抱いた。


「これは……事実であれば、急ぎ対応を協議すべき事案だ」


彼の頭の中では、すでに教会としての対応策が組み立てられ始めていた。

この一件を、主任司祭アウグスティヌスに口頭で報告することを決意した。


既に夕刻、副院長は執務室を訪ねた。

案内されたのは、小食堂――主任司祭はそこで静かに夕食をっていた。


「お食事中に失礼いたします。主任司祭殿」


副院長は丁寧に一礼し、切り出す。


「助祭レオヴィヌスが北方巡察から戻りました。例のリヴィナ村にて、強い魔力を持つ少女の存在を確認したと――」


リヴィナ村。

精霊信仰を捨てきれず、修道院管轄でありながら特例として参事会教会の巡察が許されている村。

主任司祭アウグスティヌスはその名を反芻はんすうしながら、皿の肉をゆっくりと切り分け、口の端に笑みを浮かべた。


「……またあの子か。いや、あの助祭ですか。誠実ですが、どうも見るものに意味を与えすぎる癖がありますね」


彼は肉を切る手を止めずに、話し続けた。


「助祭は改宗に必死な余り、目が曇ったか……異教の百姓に魔力が備わるはずがありませんよ。副院長」


彼はそう言って、副院長の視線を受け流した。


「助祭には、異変を見つけるより、教義を正しく教えるよう指導してあげなさい。順序を間違えないようにと」


副院長であるコンラートは焦った。誤報であれ真実であれ、知られれば世俗権力が動く。村は修道院とも近い。真実であれば、何もかも手遅れになるのだ。


「主任司祭殿。これはただの異変ではございませぬ。教会の権威の下に早急に庇護、検証し、その真偽を明らかにすべき、と愚考いたします」


切った肉を指で摘む。アウグスティヌスは口に運びながら付け加えた。


「書面で届いたのなら、それでよい」


彼は、それ以上の言葉を発することはなかった。

対応も、調査も、指示も一切出されなかった。

レオヴィヌスの報告は、規程上は「受理された」ことになった。

記録局には控え文書が仮綴かりとじされて保管される。

しかし、それは「判断は保留」という名のもとに、実質的に放置されたに過ぎない。


教会組織としての正式な対応――少女の庇護、査問、霊的評価――は、全く行われなかった。

こうして、助祭レオヴィヌスは、上からの明確な許可も拒否もない、曖昧な状況に置かれることになった。

彼は、翌朝、アーデルを伴って参事会教会へ独断で連れてくるしかない、という現実に直面する。

この「放置」が、翌日のアーデル争奪戦の火種となることを、この時点では誰も知る由もなかった。



そして、後に主任司祭アウグスティヌスにとって、生涯の悔いとなった。


*買い出し


夕闇が迫り、参事会教会の鐘が一日最後の祈りの時間を告げる。

内務棟の自身の質素な部屋に戻った助祭レオヴィヌスは、重い足取りで文机ふづくえに向かった。

今日きょう一日で、彼の世界はひっくり返された。

苦悩、決断、裁定、庇護の約束。

ひとつひとつが、己をけた行為だった。だが――

教会上層部の反応は鈍く、彼は自身の行動で事態を動かすしかないと悟っていた。


彼は部屋の隅に置かれた小さな真鍮しんちゅうの呼び鈴を手に取り、静かに鳴らした。

間もなく、わずかに開いた扉の隙間から、まだあどけなさの残る顔がのぞく。

身の回りの雑務を担う若き施療担当従者ラウレンだ。


「ラウレン。明日あした、頼みたいことがあります」

レオヴィヌスは声を潜めて言った。

「明日の開門に合わせて、北門外にロバ一頭と荷車を待機させておいてほしいのです」


ラウレンは目を丸くする。


「明日は施しの日でございましたか? 申し訳ありません。どうやら忘れておりまして、すぐ手配いたします」


「いつもの施しではありません。突然決まった、私がすべきと判断した施しです」


レオヴィヌスは続けた。


「積むべきは、麦、チーズ、にくなどです。布物もお願いします。巡察の際に村々に施すような物で、ロバが引ける程度、多めにお願いします」


彼は机の上の再生羊皮紙に、必要な物資の品目を走り書きした。


「名目は、『北方福音巡察の施し物資』とします。教会の慈善活動の一環だと、門番にもそう伝えてください」


ラウレンは慣れた手つきで羊皮紙を受け取った。

だが、レオヴィヌスはさらにくぎを刺す。


「いいですか、ラウレン。私が来るまで、荷車にも物資にも、決して誰にも触れさせないでください。そして、教会印章も使わないように。私が直接引き取りに行くまで、荷を守ってください。いいですね」


「教会印章は……使わないのですか?」


レオヴィヌスは小さく首を振った。


「印があれば、これは“教会の施し”になる。だが今は、それではいけない。 これはあくまで“私の施し”でなければならないのです」


ラウレンは少しいぶかしげな顔をしたが、すぐに背筋を伸ばし


「御意にございます、助祭様」


そう答えると、静かに部屋を後にした。


彼の背を見送りながら、レオヴィヌスは心の中で祈った。

これ以上、誰も巻き込みたくない。

そして、誰も傷つけたくない。


「またひとつ、何かを踏み越えてしまった気がします……ですが、もし彼女を救えるのなら、それもまた祈りでしょう」


彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。



*市庁舎


教会での指示を終えたレオヴィヌスは、夕食も取らずに市庁舎へと向かった。

太陽はすでに地平線に沈み、街路を照らすのは店のともりや、住民が手に持つランタンのかすかな光だけだった。


市庁舎の宗務課は、すでに戸締まりの準備が始まっていた。

戸口で声をかけると、奥から疲れの見え始めた顔の宗務課行政いくまさつかさリンハルト・ファーベルが現れた。


「助祭殿、珍しく遅いお越しですね。この時間では、明日改めて――」


「リンハルト殿。急ぎの報告があります」


レオヴィヌスは簡潔に切り出した。

彼の声には、今日の巡察で目の当たりにした異変の重みが滲んでいた。


「北方巡察のリヴィナ村にて、すべてが均質化された畑の耕起と、それに伴う魔法を使う少女の存在が確認されました。その少女は、明朝みょうちょう、本人の意思を尊重しつつ、参事会教会に庇護として同行させます」


リンハルトの眉がぴくりと動いた。

話の重大性には一応気づいたようだった。

レオヴィヌスは、本当はアーデルを安全な場所に確保してから報告したかった。

だが、評議会の推薦でこの職に就いた自分が、既成事実だけを突きつけるような真似まねはできなかった。


「リンハルト殿、評議会は慌てる必要はありません。私が必ず連れてきますので、どうぞ明日の報告を待ってください。それと――」


レオヴィヌスは一呼吸を置いて続けた。


「少女は無垢で不安定です。手荒に扱うと全てを失う可能性が高い。どうか、まずは私の庇護下において、静観をお願いします。私、レオヴィヌス・デ・トゥレミスの名に賭けて、どうかお願いいたします」


レオヴィヌスはリンハルトに対し、何度も釘を刺した。

一つの権力が動けば、雪崩なだれを打ってアーデルに駆けつける。

そうなればアーデルを庇護するどころではなく、収集がつかなくなる。それだけは避けたかった。


リンハルトは、ひとまず安心した。レオヴィヌスは実務においても確実にこなす人物として評価が高い。

だからこそ、評議会も彼を参事会教会の助祭に推薦したのである。

リンハルトの視線はすでに、机の上に山積みにされた明日の朝会用の文書や、閉まりかけた窓の外へと向かっていた。

定時を過ぎ、一日の業務を終えようとする役人の顔だった。


「……なるほど。これは確かに由々しき事態ですな」


リンハルトはそう言いながら、手元の簡易な羊皮紙のメモ用紙を取り出した。

走り書きで、レオヴィヌスの報告の要点を書き留めていく。


「ですが、助祭様がそこまでおっしゃるなら、結果を待お待ちいたします。上司への報告もありますので、記録は残しておきます」


助祭様は、やるといったことは必ずやる。リンハルトはそう評価していた。

リンハルトはメモを一枚切り取ると、明日の朝会で提出する文書の束の一番上に載せた。

それが、彼の今日の仕事の限界だった。


「助祭様、良い知らせを神に祈っております」

笑顔でそう答えた。


レオヴィヌスは静かに頷いた。

リンハルトの反応は予想通りだった。

こうして、トゥレミスの都市の制度上は、アーデルを巡る事態について、まだ誰も具体的な行動を起こしていない状態が継続することになった。


明日の朝、このメモがどれほどの意味を持つのか、レオヴィヌスには予測もつかなかった。

彼の胸中には、時間との戦いという焦りが募るばかりだった。


「どうか、アーデルを庇護するまでは、誰も動かないで欲しい……」


レオヴィヌスは祈った。それが神に対してなのか、権力への願いなのか、あるいはただ運命への呼びかけだったのか。

レオヴィヌス自身にもわからなかった。


*大学


参事会教会での報告を終え、レオヴィヌスは急ぎ足で街を横切った。

まだ西の空に残光がわずかに宿るうちにと、彼はトゥレミス高等学院、この都市が誇る学府の近くまで足を運んだ。

知識の殿堂はすでにその日の営みを終えつつあり、講堂も記録室も戸が閉じかけている。

人影もまばらな職員棟の出入口から、一人ひとりの男が姿を現した。


それは、レオヴィヌスがかつて面識のある自然哲学課の助教、エーリヒ・シュタインフェルトだった。

ほこりっぽい学者服を身につけ、分厚い書物を脇に抱えている。


「失礼、エーリヒ助教。もうお帰りですか? 少しだけ、お耳を――」


レオヴィヌスは声をかけ、慌てて駆け寄った。

エーリヒは顔を上げ、レオヴィヌスの姿を認めると、わずかに驚いた表情を見せた。


「おお、助祭殿。こんな時間にどうされました?」


「実は、お願いがあり参ったのです。門前の石畳の上で申し訳ありませんが、少しだけお時間をいただけますでしょうか」


エーリヒは腕組みをして、レオヴィヌスの真剣な眼差しを受け止めた。


「よろしいでしょう。ただ、あまり長話はできませんが」


「ありがとうございます。では本題をお話しましょう。実は……」


そういって、レオヴィヌスは考えを整理し、息を整えた。


「これまで見たことがない魔法を使う……少女がおります。まだ名は明かせませんが、その力と信仰の関係を…静かに観察していただけないかと」


レオヴィヌスは、一気に核心を切り出した。


「ほう、助祭殿らしからぬお話ですね。もっと世俗的な方かと……いえ、祈りだけでなく、地に足をつけた実直な方だと申し上げたかったのですが、大変失礼しました」


「それは恐れ入ります」

レオヴィヌスは苦笑した。

「私ももっと信徒を導きたいと願っておりますが、まずは足に力を宿してもらうことが先だと考えております。導き方はそれぞれだと、ご容赦ください」


「とんでもございません」

エーリヒは首を振った。

「ところで、先程の話ですが、“名は明かせない”とは? よほど秘密裏に進めたいご様子」


「はい。少女は今大変危険な状態にありまして、明日私が庇護致します。参事会教会に連れてまいりますので、そうしましたら、大学を挙げて支援していただけたらと」


レオヴィヌスは言葉を選びながら続けた。


「“支援”とは? 具体的にはどういうことですかな」


エーリヒの表情が、学術的な興味の色を帯び始めた。


「はい。少女は現在どこの庇護下にもありません。そしてその魔法は、“村ひとつ分に匹敵する力”と、私には映りました」


エーリヒは、その言葉に思わず目を見開いた。

「なんと……失礼ながら、助祭殿以外の口から聞いていましたら、笑っておりましたな。あまりに突飛で、まるで童話のようです」


「できることならば、虚言と笑われたい――ですが、状況を見て、証言も得ました。誰が見ても異常とわかる状態です。ですが、慈愛から湧き出た力なのです。私はそれを、何某なにがしかの権力にうずもれさせたくない」

レオヴィヌスの声には、切実な響きがあった。


エーリヒは、しばし沈黙した。

「うむ、助祭殿らしいお言葉、心に染みます。それで――」


「はい。そこで先ほどのお願いになるのです。私が連れてまいりましたら、大学を挙げて支援していただけたらと。もちろんその間、少女を観察して構いません。あくまで少女を尊重するという前提ではありますが」


「……なるほど、確かに。我ら学究の徒は、剣ではなく理性で社会と向き合う者たち。学問の自由と自治、それが我々の誇りです。ですが――」


レオヴィヌスは、エーリヒの躊躇ちゅうちょを察し、食い下がった。

「どうか……お願い申し上げます」


「いえ、そういう意味ではありません」

エーリヒは慌てて首を振った。

「私の一存で決められることではありませんが、これほどの異常事態――そして助祭殿の言葉であれば、おそらく大学を挙げて守ることになるでしょう」

彼は一呼吸おき、視線をレオヴィヌスに戻す。

「ただ、先ほど“未洗礼”とおっしゃいましたね。そんな少女に、助祭殿がそこまでこだわる理由が……正直、わかりません」

語尾にわずかな躊躇が滲む。

「教会の教義に照らせば、まず洗礼を施すことが最優先ではありませんか?」


レオヴィヌスは静かに答えた。


「それは、私が責任をもって導きます。確かに今の彼女はおおかみと言えましょう。けれども、羊の乳を飲み、羊と眠り、羊と共に生きようと願う…… ただそれだけの、狼の子なのです」


エーリヒは、その答えに思わず口角を上げた。


「ふむ、『狼は小羊と共に宿る』そう結論付けましたか。旧約聖書の預言の引用とは、助祭殿もなかなか洒落しゃれたことをおっしゃる。いやまた軽口でしたな。ご無礼を」


二人ふたりの間に短い沈黙が訪れた。


エーリヒはレオヴィヌスの真剣な眼差しを再び見つめると、ゆっくりと頷いた。


「助祭殿のおっしゃりよう、よくわかりました。明日、早速上司に報告いたします。きっと良いお返事を差し上げられるはずです――どうぞ、今夜は心穏やかにお過ごしを」


レオヴィヌスの顔に、ようやく安堵あんどの色が浮かんだ。


「ご助力、心より感謝いたします。戻り次第、真っ先に使いを立てましょう」


「いや、こちらこそ。お声がけいただき光栄でした。明日が楽しみですな。どうか、よろしく」


エーリヒはそう言って、脇に抱えた書物を軽くたたいた。

夜の闇が深まる中、二人の間に確かな連携が結ばれた瞬間だった。

レオヴィヌスは深く頭を下げ、エーリヒは足早に闇の中へと消えていった。



すべきことは、すべて為しました。後は明日にかけるだけです」


レオヴィヌスはそう、自分自身に語りかけた。


いまだ不安な気持ちが払えずにいる。

しかし、職務と努力は最大限行ったという安堵感あんどかんはあった。

彼は胸の重環じゅうかんに触れ、平穏な心を取り戻そうとした。


大学を囲う石壁に寄りかかり、星空を見上げる。

漆黒の夜空に瞬く無数の光は、彼の心を落ち着かせるどころか、計り知れない宇宙の広がりと、その中に存在するであろう不可解な力を思わせた。

アーデルの力が、もし本当に神の御業みわざであるならば、それは人類が理解しうる範疇はんちゅうをはるかに超えている。

そして、それを制御しようとする人間の傲慢ごうまんさ。

彼は、自身を含め、誰もがその大いなる力の前では無力であることを痛感していた。


どれほどの時間がそうして過ぎたか。

冷え切った石壁から離れ、レオヴィヌスは再び教会へ足を向けた。

明日の朝、アーデルと共に門をくぐる時、世界が、そして教会がどう反応するのか。

期待と、それ以上の不安が胸中で渦巻いていた。

彼の祈りは、奇跡が報われること、そして何よりも、アーデルをいう少女の純粋さが守られることを願っていた。



*評議会


数日前――レオヴィヌスが、まだリヴィナ村の“奇跡”を知らぬ頃のことだった。


トゥレミス市庁舎の評議会室には、昼下がりにもかかわらず重苦しい空気が満ちていた。

長机を囲んだ評議員たちの顔には、連日の会議による疲労と不満が色濃く浮かぶ。


議題は、「聖戦」の後始末だった。


司教座――宗教的行政区を統括する地域教会の中枢。

そのカトラウ司教座が主導した「ハルデンベルク男爵異端討伐」は、春先に発生した。


男爵領では古い精霊信仰が根強く残っていた。そこへ異端審問官が派遣され、男爵はこれを拒絶、追放した。

司教座はこれを異端行為と断じ、大規模な教会軍を動員して討伐に乗り出した。


数千の重装騎兵と歩兵。

同数の従者や職人、聖職者、さらには娼婦しょうふや商人までもが随行し、荷馬車の列が街道を埋め尽くした。

一つの都市が、丸ごと移動したかのような規模だった。


結果、街道は掘り返され、橋はきしみ、荷車の車輪は各地で泥に沈んだ。

諸都市への物資徴発は広範に及び、各地の市場は混乱。

軍を出さなかったトゥレミスすら、大量の食糧供出を強いられた。


「何も生産しない“軍”という都市」

それが、諸都市の資源を吸い尽くしていった。


市場の均衡は崩れ、物流は止まり、価格は跳ね上がった。

市民の生活は、確実に――困窮へと向かっていた。




「ガイスベルト筆頭官、現状を教えてください」


中央に座る評議会議長――ジークムント・コーフマンは、こめかみに指を当てながら報告を促した。

都市最大商会の後継者であり、トゥレミス評議会の若き議長でもある彼の声には、常よりも苛立いらだちが滲んでいた。


答えたのは、財政担当筆頭官――ガイスベルト・グレーフ。

手にした羊皮紙を一瞥いちべつすると、疲れた声で現状を述べる。


「はい、収穫期を過ぎましたが、麦の価格が戻りません。干し肉や塩漬けの魚、保存食全般も同様です。野菜は落ち着きましたが、布、鉄、特に木炭の買い圧力が高く、しばらくこのままでしょう」


議長は深く椅子に腰を下ろしたまま、片手で眉間を押さえていた。報告に耳を傾けながら、別の問題を同時に考えている気配がある。


よわい三十半ば。

頬はこけ、目の下には薄く影が差し、顎には短く整えたひげ

亜麻色の髪はきちんとでつけられており、身につける濃紺のチュニックは金糸を控えめにあしらった厚手の羊毛製。

派手さはないが、都市の代表としての誇りと緊張感が、その姿勢と眼差しから滲んでいた。


ジークムント・コーフマン。

議場においてはその名を口にする者は少なく、ただ「議長」として、彼は都市の天秤てんびんの中心に立っている。

アーデルがいずれ「マルチ営業」と呼ぶ人物には相応ふさわしくない、その疲れきった顔つきがそこにあった。


「異端討伐がこれほど尾を引くとは……街道と橋の補修はどうなっている?」


「進んでおりません。人手は集めようとしているのですが……」

ガイスベルト筆頭官は羊皮紙の角を指先で折りながら、答えを濁した。


そこへ口を挟んだのは、長い髭を撫でていた男。

領主家の名代であるルプレヒト・フォン・デュルン。

都市に常勤する、「背の高いドワーフ」――アーデルが後にそう揶揄やゆすることになる代官である。

着ているのは濃緑のベルベットに金糸を縫い込んだ上衣うわぎ。留め具にはデュルン家の紋が入り、重厚な銀の指輪が手元を飾っていた。


「村には我が領家の街道補修もさせています。いたしかたありません」


「代官殿。だからこそ、しばしお待ちいただきたかったのです。街道はまだしも、橋が崩れてからでは遅いのです」


「ごもっとも。しかし我が領地は広く、補修を進めねば荷馬車も走れません。荷が届かなければ、市もお困りになるのでは?」


「それは理解しております」

議長は代官の言に苛立ちを隠してこたえ、次に財政官へと向き直る。

「筆頭官。保存食や木炭の価格が戻らぬのはなぜです? 物資を討伐軍に送ったのは一度きりのはずです」


「は、いくつか要因はありますが、一つは市民の心理が大きいかと。行軍の補給支援、食料供出で『食料が減る』という意識が植え付けられ、保存食を買い占める流れが止まりません」


「そうか……『余るほどある』と現実を突きつけねば止まらない。だが、ほかの都市でも不足していては買い付けもできない。『収穫』という麦穂だけでは、暴走したロバの気を引けない、か」


議長は唇をみ、視線を机に落とした。


価格が変動すれば市が動揺し、市が動揺すれば価格がさらに変動する。

この負の連鎖は天災ではない。それは雨のような日常だった。


この世界は、自給自足の「限界」で成り立っていた。

わずかな天候不順、物流の滞り、労働力の移動。

これら全てが瞬時に余剰を消し去り、市場を崩壊させる。


週一の定期市は、情報伝達が遅く、各地は細分化された市場でしかなかった。

中央での価格調整や流通管理は存在しない。

そのため、局地的な高騰は容易に全体的なパニックへと波及した。


物流網は脆弱だった。

内陸のトゥレミスでは、荷馬車や河川交通が唯一の頼り。

橋の崩壊や盗賊、時には騎士団の通行で、流通はあっけなく分断された。

街道の整備は、都市の生命線そのものだったのだ。


「市場というのはいつもままならないな。他に原因は?」


「は、これはリヴィナ修道院を含む修道会全体が、男爵領の修道院新設のために物品を送り続けております。それも大きな要素かと」


「それでか……代官殿、もしや東でも?」


「お察しの通り、二つの会派が、男爵領で建設を進めています。物資の移動はトゥレミスだけの問題ではありません」


トゥレミス周辺は、リヴィナ女性修道院を含む聖アグネティス修道会の勢力圏にある。

だが、東へわずか数日の距離に、クルメア修道会の都市が存在していた。

この両会は、かつて聖遺物の所有を巡って教皇庁まで巻き込んだ因縁を抱えており、今回の「聖戦」にも競って参加。

戦後は、両会ともに男爵領への進出を果たし、修道院新設を進めていた。

修道院の作物の多くは、いまや男爵領へと送られ、トゥレミスの市倉にも隙間が目立つようになっていた。


「ハルデンベルク男爵異端討伐」――それは遠くの火事だった。

だがその煙は雲となり、やがて雨となってトゥレミスをらした。

長い雨が、食卓をむしばみ、市場を湿らせていった。


議長はさらに状況の悪化を悟る。


「それでは……男爵領の再建にも資材は必要だ。村が略奪されていれば回復にも時間がかかる。保存食と資材はしばらく下がりそうにないな。これから冬だ。薪はどうなっている?」


「残念ながら、既に投機対象です。冬を越せない家も出てくるかと」


「森に囲まれたトゥレミスで薪が足りぬとは、皮肉な話ですな。もちろん当家も協力したいところですが……森の多くは、二代前に神への契約として修道院に寄進した土地。いまさら取り戻すわけにも参りません」

ルプレヒト代官は、まるで他人事のように述べた。

土地の寄進は、敬虔けいけんを示す振る舞いとされ、魂の安寧を願って財産を差し出すことは、信仰に根ざした当然の行いと見なされていた。


「干している木材がまだあるはずだ。それは手に入らないのか?」


「聖戦で倒れた者も多く、薪にする人手が足りていません。今では、日銭稼ぎの貧民ですら引っ張りだこです」


「リヴィナ修道院は、それでも薪を男爵領に回すのか。木炭が下がらないのも同じ理由か」


「……はい。ほとんどの村から、納税や修繕作業の延期の陳情を受けています」


「これは領地全体の傾向ですな。議長、まだトゥレミスは自治都市だけに恵まれている方。教会都市や修道都市、騎士団の直轄地では、人も物も吸い上げられ、目も当てられぬ有様だとか」


代官は髭を撫でた。

言葉も、名も、愛もなかった。だが一つだけ――この仕草だけは、父も自分も同じだった。

異母弟が家督を継ぎ、己が名もなき代官としてその後塵こうじんを拝することを決めたとき、彼はすでに、この手だけで矜持きょうじを守る術を知っていた。


「ところで筆頭官、今“ほとんど”と申したが、やりきったのはリヴィナ村のことでは?」


「はい、代官殿にはご存知でしたか」


「うむ。あそこは教会が以前から目をつけていた異端の村。もしや、よからぬ力で納税をなし得た、などということは?」


代官が長い髭を撫でながら、意味深いみしんに言う。


「議長、参事会教会は何をしているのです。わざわざ助祭まで送って、改宗させるのではなかったのですか? これでは我が領地もハルデンベルク男爵と同じ運命を辿たどりかねません。口実を作ってはなりませんぞ」


「それは評議会も同じです。神の剣たる討伐軍を呼び込みたくはない」

議長はため息をついた。

「……聖戦の余波で市民生活は逼迫ひっぱくし、信仰心は揺らぎ、治安も乱れつつあります。参事会長には公的説教や秩序の維持を求めておりますが――信仰の力だけでは、価格は安定しません」


評議会議長ジークムント・コーフマンは眉間に指を当てたまま、しばし言葉を継がなかった。

もしこの冬、誰かが飢えて死ねば、市民は誰を責めるのだろうか――

コーフマン商会か。主任司祭のアウグスティヌスか。それとも、司教座か。

だが、彼にはわかっていた。街の者たちは、そんな見えない名ではなく、もっと身近で、もっと現実の顔を持つ誰かに怒りを向けるだろう。

議長席に座る、この自分に。

彼の姓は商会の看板であり、父の名残なごりであり、富のあかしでもあった。だが今、ジークムントに必要とされているのは、そのどれでもなかった。

評議会の重石として、都市という巨人の一部であること。それが、今の彼に課された役目だった。


ふと違和感を感じ、顔を上げた。視線を宙にさまよわせる。

「待ってください……異端とされた村だけが、納税を果たしているとは。みょうな話です」


代官が髭の手を止めた。

「それもそうですな。……これは異端と税、別に見るべきですかな?」


「よろしければ、来週には街道の査察がございます。ついでに村も確認してまいりましょう」

筆頭官が、手元の羊皮紙を巻き直しながら静かに告げた。


「ああそうだな、そうしてくれ」


「私の方でも、今度徴税代官に調べさせよう。どうにも参事会教会は頼りにならない。評議会の手綱さばきも見事とはいえ、不心得な馬が混じっていては、車輪が道をれるのも無理からぬこと」


議長は苦渋の表情を浮かべた。


「祖父の推薦だからと彼を主任司祭に推してしまいましたが、祖父も、聖衣せいいの内に世俗の針を忍ばせていたのは気付けなかったようです。まさか無断で……」


「それこそ今更言っても詮無きこと。我々の手で秩序を正しましょう」

代官ルプレヒトは冷静に告げた。



こうして、評議会の協議は続いた。

レオヴィヌスが動く以前から、リヴィナ村の異変は既に評議会の懸案となっていた。

アーデルの運命は、すでに転がり始めていた。

誰がその果実を手にするのか――それだけが、まだ定まっていなかった。



明日、都市の正門が開く時、果実は転がり落ちる。

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