第16話 畑の赦し

アーデルが家を出てから、数刻が過ぎていた。


火床の火はすっかり消え、灰の奥にかすかに赤い名残なごりを残すだけ。

冷気がじわじわと床をい、室内に染み込んでいく。


ミーナが、部屋へやの寒さに気が付き、軽くんで目を覚ました。


ふと火床に目を向ける。

いつもなら、そこにはアーデルがいるはずだった。

魔法の消耗を補うため、眠るか食べるかしていたあの子の姿が、今はどこにもなかった。


「……アーデル?」


ミーナのか細い声が、室内の静けさに響いた。


ヴァルトも目を見開く。

彼女の呼びかけが現実であることを、すぐには受け入れきれない。


だが、目の端にあるものが、すべてを明確にした。

畳まれた頭巾――アーデルの頭巾――が、きちんと置かれていた。


ふたりは、無言で顔を見合わせる。

そこにあったのは、眠気でも戸惑いでもなかった。

一瞬で覚めるような、強烈な予感。

嫌な予感が、胸を締め付けた。


昨日きのうのアーデルは、上の空だった」

ミーナがつぶやくように言う。


「そう言えば……」

ヴァルトも記憶をたぐるように続けた。


言葉にしなくても、ふたりは理解していた。

これは、何かを決意した者の行動だ。

静かに、誰にも知られずに――覚悟を固めて、出て行ったのだ。


もたもたしている時間はない。

一刻も早く探さなければ、取り返しのつかない事態になるかもしれない。


外に出ると、まだ夜は明けきっていなかった。

空には白みがわずかにさし始めていたが、村を包む霧と冷気はなおも残っていた。


ヴァルトとミーナは、声を潜めながら探し始めた。

辺りは静かだが、完全な暗闇ではない。

半月を過ぎた月が膨らみ、村を鈍く照らしていた。


たいまつを使えば探しやすいかもしれない。

だが、この夜の月明かりのもとでは、むしろ裸眼のほうが遠くを見通せた。

夜目の効く村人にとって、それは常識だ。


「アーデル、どこに行ったの……」

ミーナの声は、不安と後悔をまぜた震えを帯びていた。


「礼拝小屋にはいないぞ」

ヴァルトの声も、普段より低く、緊張を含んでいた。


捜索はすぐにひろがっていった。

アーデルの名を呼ぶ声が、最初は抑えられていたが、やがてしだいに大きくなる。

それにつれて、近隣の家々も異変に気づき始める。


火の番をしていた老婆や、夜泣きの子をあやす母親、寝付けなかった者――

そうした者たちの耳に、不穏な声が届いた。


一軒、また一軒と、戸口が開く。

顔を出し、眉をひそめ、肩をすぼめながら外を見回す。

冷え込みの中で、何か尋常ではないことが起きていると、誰もが感じ始めていた。


「どうした?」


「アーデルが……頭巾を置いて、どこかに行ったの」


ミーナの言葉に、周囲が一瞬沈黙した。

その意味はすぐに伝わった。


「用足し中に熊かおおかみにやられたとか……」


「それはない。まれるとしても叫ぶだろう。気づかないわけがない」


半ば冗談、半ば本気のやりとりが交わされる。

だが、どこか、全員が薄々感じ始めていた。

これは普通の失踪とは異なる。


そこへ、重い足音とともに現れたのはカスパだった。


眉をひそめ、周囲を見回すと、吐き捨てるように言い放つ。


「あいつ、逃げたのか? ……みんな起きろ、探し出せ!」


怒声が、夜の村に鋭く響いた。

それは不安をかき乱すのではなく、規律の名のもとに“動員”を始める声だった。


次の瞬間――村の鐘が鳴った。

それは火事や傭兵ようへい団の来襲など、本当に危機が迫ったときにだけ使われる警鐘だった。

リズムは決まっている。三度のはや打ちと、間を置いての一打。

それを聞いた者にとっては、すぐに身支度するよりほかない。


戸口が次々と開き、人々が寝巻きのまま外へ出てくる。

ともりを持つ者、くわつえを持つ者。

すでに「捜索」というより、「狩り」の様相を呈しはじめていた。

カスパが指揮を取るように、声を張り上げる。


「畑に人影は?」


「なかった」

「西の畑もいない」


次々に答えが返る。まだ冷えた夜気のなか、声だけが村を飛び交っていた。


「アーデルが逃げ出した。男手は森を探せ!」


「今は月明かりしかない。危険だ」

松明たいまつもそんなに持つわけじゃない。もうすぐ夜明けだ。それを待とう」


声には、焦燥と理性の間で揺れる判断がにじんでいた。

だがカスパは一歩も譲らない。


「レオン! 何かアーデルに吹き込んだな?」


レオンはわずかににらかえし、冷たく言った。


「『近づいたら五倍の罰麦』と言ったのはお前だ。監視も付けていたことを忘れたのか」


図星を突かれ、カスパが舌打ちする。


「……誰か、修道院に向かえ!異端を自白しにいったのなら厄介だ!」


その瞬間だった。

夜の空気を破って、ひときわ若い声が響いた。


「おい、畑が……おかしいぞ! 全部、耕されてる!」


誰もが耳を疑った。


「どの畑だ?」

カスパが叫ぶ。


「全部だよ! 全員の畑! 残った分、全部!」


一拍の沈黙――そして、村人たちが一斉に走り出した。


ありえない――誰もが、まずそう思った。

あの子は、火の番のように火床の前にいて、ひたすら食べていた。

それでも、日ごとに細くなっていったことを、村人はみな、黙って知っていた。

そんな体で畑全部を耕すなど、理屈ではありえない。

だが、風に押されるように、体は自然と畑へ向かっていた。


まだよるとばりは残っていたが、空はかすかに白み始めていた。

足元を照らすには心許こころもとなかったが、目が慣れてくれば見通しも利く。


誰もが、畑に目を凝らした。

そこには、確かに――あの耕起のあとが、淡く広がっていた。


「本当だ……まだ何日分もあったのに」


誰かが呟く。誰も返さない。

全員が、ただ、目を凝らし、土を見つめていた。


やがて、誰かが叫ぶ。


「おい、あそこだけまだだ。少し残ってる」


指さしたのは、村の南端――小さな、まだ手のつけられていない一角だった。


レオンが反応した。

何かを感じ取ったように、言葉もなく、そこへ向かって走り出す。

ほかの者たちも、次々とその背を追った。


ヴァルトも、ミーナも、声を発することなく走り出した。


何があるのか――誰も知らなかった。

だが、確かに“何かがある”と、全員が知っていた。



薄明の空の下、わずかに荒れ地が残る一角。

わずかに地面が耕されぬまま、ぽつんと残っていた。


その近く、耕されたばかりの土の上、小さな身体がうつ伏せで倒れている。

まだ夜の気配が残る大地に、ひとりだけ置き去りにされたように。

風が通り抜けても、彼女はびくともしない。


その体は異様にやせ細っていた。

もう子どもというより、人間というより――折れそうな枝に見えた。


アーデルは、残るすべてのエネルギーを使い切っていた。

予定されていたすべての未耕作地を、たったひとりで、夜のあいだに終わらせていた。


毎日暴食しても、魔法で耕せる量を維持できない体。

その残りを、すべて――ほんの数時間のあいだに注ぎ込んだ。


代償は大きかった。

脂肪はとうに尽き、筋肉までもが、魔法へと変えられていた。

今の彼女を動かしているものは、すでに生命ではなく、意志だけだった。


レオンが真っ先に駆け寄る。

膝をつき、震える手でアーデルを抱き起こす。

その体は、あまりにも軽すぎた。


頬をたたく。

反応を確かめようとするが――張りのある音は返ってこない。

骨と皮。指に伝わる感触は、まるで別の生き物のようだった。


「おい……無事か? 生きているのか?」


こたえはない。

けれど、アーデルのまぶたが、ゆっくりと――ほんのわずかに、持ち上がる。


「アーデル……なんて、なんて無茶をするんだ……」


唇だけが、かすかに動いた。


「まだ……残ってる……。全部終われば……みんな、仲直りできる。と思ったの……昔の村に戻って、わたしも……仲間になれるって……」


レオンは押し殺すように息を吐いた。

怒りか、悔しさか、悲しみか――どれもが混ざっていた。


「だからってお前……命と引き換えに耕すなんて……」


アーデルは、かすかに笑った気がした。


「死ぬ気は……なかったよ。……死んじゃうかも、とは……思ったけどさ……」


その言葉は、冗談のようで、本気だった。

誰のためでもない。褒められるためでもない。

ただ、自分の手で、終わらせたかったのだ。


「それを、“引き換え”って言うんだよ……バカ野郎……」


レオンの声は、かすれた。

叱責ではない。ただ、それしか言えなかった。


彼の腕の中で、アーデルの体は微かに揺れていた。

まるで、誰かの返事を待つように。


村人たちが、次々に集まり始めた。

声を上げるわけでもなく、自然と輪をくように、アーデルを中心に囲んでいく。

誰もがアーデルの枯れ果てた体を見つめ、言葉を失っていた。


人ひとりが村を救った――そんな言葉では足りなかった。

それよりも、どうしてここまでのことをさせてしまったのかという悔いと驚きが、輪の中心に沈んでいた。


その輪の中を、ミーナとヴァルトが無言で抜けていく。

誰も止めようとはしなかった。


ヴァルトは、アーデルを横抱きにして持ち上げた。


ミーナはすぐに自分の肩掛けを外し、アーデルの体を包む。

自力で腕すら挙げられないアーデルの様子に、ミーナは察し、その腕をそっと胸元にそろえた。

その手がアーデルの冷たい腕に触れたとき、一瞬だけ震えた。


ヴァルトは事態の深刻さを痛感し、焦りが募る。

「なんてことを……お前がそこまで……いや――よくやった」


ヴァルトの声は、途中で何度か揺れた。

彼は、アーデルがこれほどの自己犠牲を選んだことを、本心では認めたくなかった。

生きてこそ意味がある――それが彼の信念だった。

だが今は、その言葉を飲み込んだ。

代わりに、ただその勇気をたたえることを選んだ。


ミーナも、かける言葉が見つからなかった。

人のために尽くすことの美しさはわかっている。

でも――アーデルを失いたくないというおもいが、その上にあった。


言葉が見つからず、代わりに彼女が口にしたのは、

いつもの、叱るような、とがめるような声だった。


「火床を消したらダメでしょう。家の恥よ……」


ほんの少しだけ、声が震えていた。

アーデルは、薄く笑った。

その言葉の奥にある、ミーナの言葉にできない想いを、すでにわかっていた。


「そうだね……つかみ麦で火種をもらってきて」


冗談とも、願いともつかないその一言に、ミーナは何も言わず、冷たい手をそっと握った。


ヴァルトの手は微かに震えていた。

ミーナは涙を見せなかった。

その代わりに、黙ってアーデルの額に手を当てた。


空が白みはじめ、霧がゆっくりと引いていく。

朝日が、その姿を現し始めていた。


誰からともなく、ひとり、またひとりと、地に膝をついた。

折れるように、祈るように、ただ静かに頭を垂れていく。


それは感謝の祈りでも、畏敬の念でもなかった。

もっと素朴で、根の深い――誰もが失いかけていたものを、取り戻すための祈りだった。


だが、ヴァルトの胸中に祈る余裕はなかった。


アーデルの体はすでに限界にあり、抱き上げている感触は軽すぎて恐ろしかった。

冷たくなった皮膚、骨の浮いた腕――それらは、言葉より先にヴァルトの本能に訴えかけた。

火のそばで温めたい。何かを食べさせたい。ただ、それだけだった。


この場に長くとどまらせるべきではない。

誰が何を言おうと、まず家に――そう思っていた。


「とにかく帰ろう。体を温めないと……」


そう言って歩き出そうとしたその瞬間、レオンがそっとその腕を制した。


「すまないが、アーデルの想いを無駄にしたくない。少しだけ――待ってくれ」


その声は、驚くほど静かだった。

だが、震えていた。


レオン自身、なぜ今この場を止めたのかを、すぐには言葉にできなかった。

ただ――このまま何も語られなければ。

誰も声を上げなければ。

この小さな少女が、命を削ってやり遂げたことが――ただの“奇跡”として、忘れ去られてしまう気がした。


それだけは、どうしても、させたくなかった。


彼の目は、もうヴァルトではなく、村人たちのほうを見ていた。

「ヨハン! アーデルの火床に火を。薪をケチらず思いっきり暖めろ!急げ!」


ヨハンが走り出す。その背を見送りながら、レオンは顔を上げた。


村人たちは動かない。ひざまずいて、視線を落とした。祈りの形式すら、ひとりひとり違っていた。

言葉の代わりに、沈黙だけが広がっていた。


レオンは涙でれた頬を拭いもせず、ヴァルトの隣に歩み出た。

場の空気に、心の奥から突き動かされるように、叫んだ。


「みんな、聞いてくれ!」


それが考えた末の言葉だったかどうかは、本人にもわからなかった。

ただ、この沈黙のまま終わらせてはいけない。――そう思った、それだけだった。


「やせ細り、父に抱かれているのは、俺たちの問題を――すべて、たった一人ひとりで背負った少女だ。誰もが目をそらした畑を、誰もが『自分じゃない』と言い訳した耕地を、彼女は――黙って耕しきった。命を削って。骨が浮き出るほど痩せ細って。それでも、『やりきれば、みんな仲直りできる』と信じていたんだ」


レオンは、村人たちの顔を一人ずつ見つめた。その視線は、彼らの良心に直接問いかけるようだった。


「お前ら、それでもまだ、目をそらすのか?」


思わず叫ぶように言ったレオンの声が、静まりかえった村に刺さった。

誰かが息をみ、誰かが手ぬぐいを握りしめた。

視線を落としていた村人たちが、ゆっくりと顔を上げはじめる。

レオンは、その視線の集まりを確認するように、一歩、前に出た。


「アーデルが望んだのは、神でも救世主でもない。ただ――仲間になりたかっただけだ。偉くなんてなりたくなかった。あがめられるためにやったんじゃない。ましてや、特別扱いされるためにでもない。彼女は、『戻りたかった』んだ。歌を歌い、笑ってた頃の村に。掴み麦で礼を返していた、あのささやかな日々に」


それはレオン自身が、アーデルとの対話のなかで感じ取っていたことだった。

特別であることに苦しみ、ただ仲間でいることを願い続けていた少女の本心。

それを、ようやく言葉にできた気がした。


「でも、俺たちはどうした? 平等の名で縛り合い、罰で支配し、疑い合った。それが、助け合いか? それが、仲間か? 彼女は、そんな俺たちの罪を――命であがなおうとしたんだ」


どこかで誰かが、小さくすすり泣いた。

レオンの言葉は、裁きではなかった。

それは、全員が心のどこかで気づいていたことを、代わりに言っただけだった。

そして、それを“誰が言うか”で、村の明日あしたが変わってしまうことも、彼はわかっていた。


「この子がやったのは『耕起』じゃない。俺たちの心の、ゆるしだよ」


その言葉に、ざわりと何かが揺れた。

長く凍っていたものが、静かにきしむような音を立てて、動き出す。


村人たちが、ぽつりぽつりとうなずき始める。

誰も口には出さなかったが、その表情には、やっと言葉を得た安堵あんどがにじんでいた。


「だから祈るな。見上げるな。立て。祈りじゃなく、行動で返せ。崇拝じゃなく、礼で返せ」


この言葉は、誰に対してでもあり、そして――

自分自身に言い聞かせるようにも聞こえた。


村人たちは、互いを見て、様子をうかがう。

誰かが先に動けば、自分も続けられる。

その空気が、確かに漂っていた。


「アーデルに掴み麦を渡そう。子供に礼を言うように、『ありがとう』って言ってやろう。それが彼女の望みだ。草を抜いてもらったら掴み麦を渡す。屋根を直してもらったら、麦束を渡す。それで、借りも恩も、精算すればいい。――それが、仲間ってもんだ」


この提案は、明快で、具体的だった。

祈ることも、崇めることもいらない。やるべきことをやって、感謝を返す。

そうして関係を結び直す。それだけで、もう一度村になれる――そう信じさせる力があった。


「いいのか? それで」


声を上げたのは一人の男だった。言葉は懐疑のようでもあり、救いを乞うようでもあった。


「ああ、いいんだ。彼女はそれが望みなんだろう」


そう応じたのはアンドレだった。

彼は、これまでずっとアーデルを危うい存在として見ていた。

洗礼も受けず、信徒の枠にも入らない者が、祈りの対象となる――それは、教会にとって明確な脅威だった。


だが今、この場で示されたのは神格化ではない。

ただの村人として、生活の輪に迎え入れるという姿勢だった。

その程度の“敬意”であれば、アンドレは――信徒の枠を守る者としても――かろうじて認めることができた。


うなずくように、小さく一歩を踏み出した。


レオンは、震えを飲み込むように言葉を継いだ。

場の空気はまだ不安定で、ひとつ間違えばまた沈黙に戻る、そんな張りつめた状態だった。

彼の中にあったのは、理屈よりも切実な焦りだった。

このままではアーデルの願いも、村の希望も、何ひとつ届かずに終わってしまう。

何かを変えるには、誰かが言葉にしなければならなかった。


「――誰も罰しなくていい。誰の失敗も、もう誰かの罪にしない。今日きょうからは、それぞれの行いに、それぞれが礼を返す。そうして――互いに赦し合っていこう。それが、俺たちのやり方だ」


“赦し合い”という言葉を、あえて口に出した自覚はあった。

けれど、それが計算だったかどうかは、レオン自身にもわからなかった。

ただ、そう言うしかなかった。

言葉を尽くして、あの空気の綱を渡るしかなかった。


そして、その言葉が――意図を超えて――響いた。


”互いに赦し合う”。

その一節が、沈黙を破る呼び水となった。

多くの者が、ずっと胸のうちで罪悪感を抱え、互いを監視し、目をそらしてきたのだ。

制度としての赦し――この見えない可能性に、多くの村人が心を傾けた。


強いられたとは言え、暴力的な平等に加担してしまった者たち。

仲間を見捨てたと自覚していた者たち。

彼らにとってそれは、赦されることの許し、和解のチャンスだった。


何人かが小さく息を吐いた。

その場に跪いていた者たちが、少しずつ立ち上がり、顔を上げていく。

レオンの言葉に、耳を傾けはじめた。


彼はその空気の変化を、肌で感じていた。

だが、まだ足りなかった。

赦しの言葉だけでは、踏み出せない者もいる。

――もう一手。何か、行動でつながるものが要る。


レオンは周囲を見渡した。

声をかける相手を探すように、あるいは、自分自身の不安を振り払うように。

赦しが届いた先に、確かに芽吹いた何か――それを、次の一歩につなげられないか。


そのとき、視線の先にあったのは、まだ耕されていない畑だった。

アーデルが力尽きて倒れた、その場所。


何かに導かれるように、レオンは前に出た。


「見ろ、畑はわずかだが、耕されていない。そこに、アーデルが倒れていたんだ。なら――最後くらい、俺たちが耕そうじゃないか。子供が命を削って始めた仕事なら、大人おとなが責任を持って終わらせるのが、筋だろう。どうだ?」


その声は、誰に向けたというより、自分にも問うような響きを帯びていた。


言葉だけでは届かない。

だが――

土を耕す音なら、誰の胸にも届く。

一緒に鍬を振るえば、誰とでも、もう一度やり直せる気がした。

レオンがどこまでそれを意識していたのかは、わからない。

ただ、あの一言で、人々は動き始めた。


「ああ、やろう」


最初の声が、地を割るように届いた。

長く沈黙していた者たちが、ようやく言葉を取り戻したかのように。


「責任を取ろう」

「ああそうだ。最後までやろう」


レオンは、それらの声に応えるように言葉を継いだ。


「声をかけてやってくれ。仲間であるアーデルに『ありがとう』という――その一言を。それだけで、アーデルは、きっと報われる。そして、俺たちも、もう一度やり直せる」


それは、彼にしては珍しく、祈るような口調だった。

言葉が届き始めた手応てごたえはあった。

だが、もう一歩。あと一押しがなければ、この場はまた霧散してしまう。

感情のたかぶりだけでは、村の再生はつなめられない。


レオンの視線は、群れの奥にいる一人の男を捉えていた。


マティアス――

この村の精霊信仰のつかさであり、アーデルを“森の返り子”として、神と人の間にある存在として、敬い、恐れ、祈り続けてきた男。


その彼が、今なお、ただ祈りに沈んだまま動かずにいる。

跪いたまま、目を閉じ、誰の声にも反応しない。


……だからこそ、打ち破らねばならない


レオンは一歩、前へ出た。


「さあ、クワを持て。仲間の後始末だ。最後は一緒に耕そう。今度こそ、本当に“仲間”として。彼女に祈らず、礼を言って、仕事にかかろう。……まずはマティアス、手本を見せてやってくれ」


名を呼ばれた瞬間、村に緊張が走った。

あのマティアスを――アーデルを祭り上げてきたその本人を――

今この場で、仲間の一人として名指しするなど、誰が予想しただろうか。


だがレオンは、そこを突いたのだ。


“神”ではなく、“仲間”。

“祈り”ではなく、“行動”。


マティアスは、目を開いた。

驚きに目を見開いたが、拒絶はしなかった。

ゆっくりと立ち上がり、まるで重い儀式を終えたように、足を運んだ。


ヴァルトの腕に抱かれたアーデルの前へと進み、静かに頭を下げる。


「ありがとう、アーデル。村は救われた。仲間の一人として、感謝する」


その言葉は、祈りではなかった。

讃美さんびでも、宣言でもない。

ただの「礼」だった。


その瞬間、村の空気が決定的に変わった。


他の村人たちも、マティアスの後に続いた。

最初はぎこちなかった。誰もが何を言えばいいか、戸惑っていた。


だが、一人が「ありがとう」と声にしたとき、その言葉が合図のように空気を変えた。

それは祈りでもなければ、儀礼でもなかった。

生活の言葉――日常の中で、誰かに手を貸してもらったとき、自然に出る一言だった。


「アーデル、あ、ありがとう。助かったよ」


レオンは、静かにうなずいた。


「そうだ。仲間から礼を言われるのが、アーデルの望みだ。同じ仲間として、願いをかなえてやろう」


その一言で、迷いを断ち切られたように、村人たちの声が次々と重なった。


「ありがとう」

「助かった。後は休んでくれ」

「残りは俺たちがやる。すまなかった」

「ほ、本当に掴み麦だけでいいのか?」


アーデルは、少し笑って答えた。


「それが……欲しかったんだよ……」


「アーデル、後で掴み麦を持っていくからね」


「うん。待ってる」


やり取りは短く、淡々としていた。

だがそこには、神を通さない赦しが、確かにあった。

赦されたから感謝したのではない。

感謝を返すことで、赦しがかたちになった。

それは教会の制度でも教義でもない、ただの人と人との繋がりだった。


そのとき、イルゼが一歩前に出た。


「アーデル……その、ごめんなさい。私……」


その声は小さく、けれど村中に届くほどには澄んでいた。


アーデルの周囲にいた者の中で、イルゼほどに揺れた子供はいなかった。

期待と失望、畏れと憎しみ、そして――導かれるままに、裏切りかけた。

そのすべてを、本人も持て余していた。


アーデルはイルゼを見て、笑いもせず、怒りもせず、ただ首を横に振った。

その仕草には、「許す」という言葉さえ要らなかった。

言葉を使えば、それはあまりにも“赦し”として完成しすぎてしまう気がした。

だからこそ、ただ、静かに否定する。

“あなたは間違ったけれど、でも、それで終わりじゃない”と。


「いいんだよ。……そんなことより、今度の修道院の市、ヨハンと三人で行こうよ」


イルゼは戸惑ったように目を見開き、それでも、小さく問い返した。


「……いいの?」


その声には、ほんのわずかに震えが残っていた。

まだ、自分がその輪に戻ってもいいのか、信じきれずにいる。


「仲間でしょ。当たり前じゃん。吟遊詩人、見てみたいんだよねー」


アーデルの声は、まるで何事もなかったかのようだった。

それが、イルゼの心のなかに残っていた“罪悪感”を、そっと拭い去っていく。


「私も楽しみなの。一緒に行こうね」


「うん、もちろん」


それは、ごく普通の、少女たちの会話だった。

市の話をし、遊ぶことを約束し、笑い合う――ただそれだけのやりとり。

けれど、そこに至るまでには、あまりにも長い距離があった。

裏切りと沈黙、不信と葛藤。

子どもたちには重すぎた、そのすべてを超えた末にある、“普通”だった。


村人たちは、きつねにつままれたように、静かに去っていった。

どこかで見慣れぬ風景を眺めるような、不思議な顔つきをしていた。


それは“奇跡”ではなかった。

“改革”でも、“奇跡”でもなく、ただ――日常が戻ってくる音だった。



レオンは、あえて村長むらおさに声をかけなかった。追認を求めることにも、もはや意味はなかった。

平等会議の影に隠れていた今の村長の言葉では、誰の心も動かせない。

カスパに面目を潰され、判断を先送りしてきた責任――

それを弁明する言葉は、この場にそぐわなかったし、誰も聞こうとはしなかった。

彼が何を誤ったわけでもなかった。ただ、流される村の中で、一度も舵を取らなかった。

それだけのことだった。

集落の端で、村長はただ、アーデルの方を向いて、深く頭を下げていた。

それは最後の権威ではなく、ただの人間としての、遅れた礼だった。



ほとんどの者が家に戻り、また農具を持って戻って来る。

しかし、まだ気になってこちらを見る者もいた。

アンドレ――言葉にはしないが、場を見つめていた。

だが、アンドレは一歩を踏み出し、アーデルの前に立つ。


「……」


その口は動かない。だが、静かに頭を下げ、背を向けた。

それは裁きでも、赦しでもなかった。

ただ一人の村人としての、最も簡潔な礼だった。

それで十分だった。



ひとけもなくなり、ヴァルトがアーデルを抱え直しながら言った。


「俺たちも行くぞ。いいな」


レオンは一歩下がって、静かにうなずいた。


「ああ、頼む。すまなかった」


だがその時、アーデルがヴァルトの腕の中で声を上げた。


「お父さん、待って」


レオンが振り向くと、アーデルはそっと彼を見上げた。

その目には疲れも、熱もない。ただ、深い静けさが宿っていた。


「……レオン、これが“言葉が届く”って、意味なんだね」


レオンは少し口元を歪めて、頭をかいた。

照れ隠しのように視線を外す。


「いや、お前の真似だ。感動を演出して言ったんだよ。……見事に成功したろ?」


アーデルは微笑んだ。

それは、肯定でも否定でもない。

ただすべてをわかっている者の、柔らかな応答だった。


「ウソ。本気だったでしょ」


レオンも、その笑みに応えるように目を細める。


「さぁな? ……でも、届いたなら、それでいい」


それ以上、どちらも何も言わなかった。

言葉の役目は、もう終わっていた。

あとは、静けさの中に残された火のぬくもりと、土のにおいと、――仲間たちの足音が、すべてを語ってくれていた。



村の空が、わずかに白みはじめていた。

新しい一日が始まろうとしていたが、それは昨日までの延長ではない――そんな予感を、誰もが無意識に感じ取っていた。

そのとき、レオンは減りゆく人混みの端に、ただ一人じっと立ってこちらを見ている男の姿に気づいた。

カスパだった。

その目には怒りも、反論もなかった。ただ、諦めに似た鋭さが残っていた。


「……お前は何か口を挟むと思ってたが、意外だったな」


レオンが先に言った。

皮肉でも挑発でもない。ただの事実だった。

カスパは鼻で笑った。


「ふん。お前が流れを作っちまったからな。それに……問題はすべて解決した。俺の望んだ結末だ」


レオンは一歩だけ近づいた。

顔を歪めるでもなく、声を荒らげるでもなく、静かに告げる。


「好きに言ってろ。だが――一つ、間違ってる」


カスパが眉をひそめた。


「おいおい、赦し合うんじゃないのか?」


「今の話だよ」

レオンの声には、どこか疲れがにじんでいた。

「流れは、俺が作ったんじゃない。わかってるだろ」


カスパの目がわずかに揺れた。

けれど、それもすぐに消える。

唇を吊り上げ、口元だけで応じる。


「……お前が次また失敗して、アーデルは助けてくれるかな?」


それは呪いというには軽く、冗談というには苦すぎた。

そして、何よりも――未練が滲んでいた。


レオンはわずかに肩をすくめた。


「もう仕切りはこりごりだ。お前たちに――いや、村寄むらより衆に任せるさ。今度は……うまくやってくれ」


だが、その言葉に、カスパの食指は伸びなかった。


彼の脳裏には、ゼバスチャンの姿があった。

年貢を納められず、夜のうちに姿を消した一家。

そして、それきり戻ってこなかった幼馴染。

あのとき、誰かが止めていれば――

自分がもう少し、違う方法を知っていれば――

カスパの中には、その問いだけが、形を変えて残り続けていた。


だからこそ、彼は「制度」にこだわった。

感情も事情も、ひとまずは制度に預けることで、誰かが置き去りにされることだけは、避けられると思った。

仕組みに守られれば、誰もが平等に扱われると――信じたかった。

だが今、村人たちは祈り、膝をつき、礼を言い、赦し合い、立ち上がった。

それは制度を超えた“物語”だった。

そして制度の人間にとっては、どこか敗北のようにも感じられた。


「……誰がやるかよ」


吐き捨てるようなその言葉には、憤りではなく、ただ空虚さだけがあった。



ミーナが、そっとアーデルの頭巾を結び直す。

この世界では、女が髪を隠すのは当然のことだった。

それは信仰のためであり、慎みのためであり、何より――共同体の一員であることを示す、目に見えるしるしだった。

少女が女になるとき、そして他者の目の中で「仲間」として数えられるとき、

初めて、その頭巾はきちんと結ばれる。


アーデルは今、誰の問いにも答えることなく、目を閉じたままだった。

けれど、その布が額にそっと沿ったとき、

彼女は確かに“帰ってきた”のだと、誰の目にも明らかだった。


アーデルは、再びこの村に迎えられる準備を整えた。



ヴァルトの腕に抱かれたアーデルを先頭に、ミーナがその横を歩いていく。

その小さな行列は、まるで祭りのあとに静かに村へ戻る人々のように、柔らかく耕された畑のあぜ道を進んでいた。

途中、鍬を手にした村人たちが、アーデルとすれ違っていく。

皆、最初は戸惑いがちだったが、やがてそれぞれの言葉で声をかけ始めた。


「ありがとう」

「アーデル、ありがとう」


それは、感情の発露ではなかった。

大声でも、美辞でもない。

ただ、ごく自然に――草を抜いてもらったとき、屋根を直してもらったときと同じように――

仲間への礼として、言葉が交わされていった。


すれ違うたびに、「仲間として」の挨拶が続いていく。

そこには、崇拝も、贖罪も、もうなかった。


すでに荒れ地では、作業が始まっていた。

誰かが歌い出した労働歌に、別の誰かが声を重ねていく。

それは祈りでも命令でもなく、昔からあった、この村の生活のリズムだった。


おーい土よ ぬくもってるか

オレの鍬が目を覚ます

こねてほぐして ばらまいた

腹のふくれる麦になる

神さま雨を けちるなよ

カビじゃなくて 芽が出ろよ

じいのころから 耕してる

子も孫も この道通る

足が抜けるまで 耕そう

土の下にも 聴こえるように



アーデルは、ぽつりと呟いた。


「久しぶりだな。この歌……」


歌は続いていた。

リズムに合わせて鍬の音が土を打つ。

その音は、静かな村の空に、一定の律動として広がっていった。


アーデルのまぶたが、わずかに動いた。

風が、畑の土の匂いを運んでくる。

その香りの向こうに、遠い遠い昔――



まだ何も背負っていなかった頃の村の音が、かすかに、重なっていた。

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