第9話 畑と信頼のくじ引き
その朝、くじ引きの列は、なかなか整わなかった。
前日の会議で決まった新たな制度は、すでに各家に伝えられていた。
嘆く者、怒る者、黙って受け入れる者。
反応はばらばらだった。
細く割られた薪が家の数だけ用意され、その末端に、そっと刻みが入れられている。
当たりは三本──
つまり三つの家が、その日、アーデルに食料を差し出さねばならない。
乳製品でも、
だが、そのどれもが貴重だった。
この寒さと飢えのなかで、当たりくじはすなわち「供出の義務」──つまり“罰”だった。
共用倉は朝早くから掃き清められ、家々が持ち寄った皿が整然と並べられている。
釜ではすでに“貢献麦”が焼かれ、
その日もっとも貢献度の高かった畑は、アーデルが魔法で耕す。
それが“正義”だと、
だが──
その朝、共用倉でレオンとアーデルが待っていても、村人の足はなかなか向かなかった。
くじを引く者が三人。
つまり三つの家が“当たり”を引く。
だが、その当たりは──飢えた家にとって、ただの“罰”だった。
だからこそ、村人たちは本能的に悟っていた。
「当たりは三本。
ならば、それが誰かに渡ったあとで引いた方が安全だ」と。
先に引けば、三つの当たりすべてがまだ残っているかもしれない。
だが、当たりが出きってしまえば、残るのは“空くじ”だけ──つまり、安全なくじ。
だから、人々は言い訳を探し始めた。
「昨日の作業で腰を痛めてな……少し後にさせてくれ」
「子どもが熱を出していて、いまは手が離せない」
「どうぞどうぞ、お先に……」
不自然な譲り合いが、朝の冷たい空気に漂っていた。
なかには、頭のシラミを取るしぐさをする者もいた。
木靴に小石が入ったと、わざとしゃがみ込んだ者もいた。
そのどれもが、偶然ではなかった。
当たりくじが“報酬”であるならば、人は前に出る。
だが、それが“罰”に見えるとき、人は静かに後退する。
「いつ引いても公平だよ」とアーデルが言っても、
「順番は関係ない」とレオンが主張しても──それは“正論”でしかなかった。
人の心は、数字に従わない。
早く引けば当たるかもしれない。
遅く引けば、当たりが消えているかもしれない。
だが、それでも人は、“できるだけ遅くに”
それは、確率ではなく、「当たりが出た」という“現実の出来事”を、
なにより強く信じてしまう、人間の感覚の
「罰は、できれば誰かが先に引いてくれるのがいい」
誰も口に出さなかったが、皆がそう思っていた。
──「できれば、罰は誰かが先に引いてくれたほうがいい」と。
声にするには
制度への明確な反発はない。だが、それは信頼ではなく、ただの諦念だった。
くじの前で立ち尽くすアーデルとレオンの前に、足を止める者は少ない。
村人たちは、わざとらしく靴を直したり、子どもの看病を理由に離れたりと、言い訳を探して時間を稼いでいた。
誰もが心の奥で、「当たりくじが誰かに渡ったあとの“安全なくじ”を引きたい」と願っていた。
そんな空気のなか、アーデルが一歩、前に出た。
肩をすくめ、声のトーンを少しだけ下げる。語るように、語りかけるように。
「……怖いのは、わかるよ」
その声に、数人がちらりと顔を上げた。
責めるでもなく、説得でもない。静かな共感がにじんでいた。
「このくじは、“当たったら
だから、できるだけ後ろで引きたいって思うのは、当然だよね」
周囲に、言い訳を手放せないままの表情が並ぶ。
アーデルは、それを責める気はなかった。むしろ、理解したいとさえ思っていた。
「でも、本当は──順番は関係ないの」
そこで彼女は一度、ことばを切り、周囲をゆっくりと見渡す。
「人数分のくじがあって、全員が一回ずつ引くって、ちゃんと決まってる。
くじをよく混ぜたその瞬間に、もう“当たり”の位置は決まってるの。
だから、誰がどこで引いたって、最初の時点では、全員が同じ確率なんだよ」
言いながらも、彼女はそれが“理屈”に過ぎないことを自覚していた。
それでも、伝えたかった。知識と、感情のあいだに横たわる断絶を、少しでも埋めたかった。
「順番は、誰が“その結果”を引き受けるかってだけ。
先でも後でも、引く前の段階では……公平なの」
だが──その説明は、すぐさま遮られた。
「違うだろ」
最前列の男が、肩をそびやかして声をあげた。
それを皮切りに、
「当たりが全部出たら、残りは全部はずれなんだ。
安全になったら引くさ」
「早くご
「街道を先に歩けば盗賊が出る。後から行けば盗賊だって帰ってるさ。
そんなこともわからないのか?」
どの声にも、怒りや敵意というより、焦りと不安が
彼らは制度を否定しているのではない。
「損を引かされるかもしれない」という恐怖が、理屈をかき消していた。
言葉ではなく、感情が場を支配していた。
アーデルの声は、あくまで理路を説いていたが、群集の耳は現実の“損得”にしか向いていなかった。
彼女の言葉は、空に向けて投げられたように、音もなく吸い込まれていった。
(あーわかる!確率って勘違いしやすいよねー。『3つのドア。ヤギ2匹、車1台。
あなたがドアを1つ選んだら、司会者は必ずヤギのドアを1つ開けます。あなたはドアを選び直しますか? 』
いくら聞いても理解できなかったなー。選び直したほうが得なんて、確率難しすぎ!)
アーデルは、一つひとつの言葉を丁寧に選びながら、ゆっくりと語りかけた。
もはやそれは、単なる説明ではなかった。
数の理を説くのではなく、心に届く言葉を探している──そんな切実な“説得”だった。
「……盗賊と、このくじは、違うんだよ」
その言葉に、わずかにざわめきが走る。
アーデルは構わず、続けた。
「誰かが先に引いたあとで、自分が無事だったら……それって、たしかに“得した”気分になるよね。
でも、それは“確率”で判断してるんじゃなくて、“結果”を見てそう感じてるだけなの。
ほんとはね、数字って、感情とちがってずっと静かで……でも、正しいんだよ」
彼女の声は、
だがその静けさが、かえって人々のざわついた心には届きづらいものになっていた。
「……この制度は、みんなで平等に、負担を分け合うためのものなんだ。
だから、順番で争い始めたら──本当に大切な“公平さ”が壊れちゃう」
一瞬、場に沈黙が落ちた。
けれど、その静寂は長くは続かなかった。
「“カクリツ”ってなんだよ?」
低く、不機嫌な声がひとつ上がる。
続いて別の男が、鼻で笑うように言い放った。
「数字はお前らだけのもんだろ。あとは……徴税代官か?
俺たちみてぇな百姓には、関係ねぇ話だ」
その言葉に、数人が同調するようにうなずいた。
アーデルの理路整然とした語りは、彼らにとっては“上からの押し付け”にしか聞こえなかったのかもしれない。
彼女が差し出す論理と平等は、彼らの不安と
アーデルは、一瞬だけ口を閉ざす。
数字が正しいことはわかっている。
だが、それが人の心を動かすとは限らない──その事実が、目の前にはっきりと横たわっていた。
(そこからかー。どうやって説明したらいいの。
たぶん……盗賊とこのくじは違うはず……うまく言えないけど違う)
アーデルの説明は、感情的には理解されなかった。
だが、数学的には、彼女の言葉は端的に正しかった。
村人たちは皆、「最初に引いた者は損をする」「後の者は安全だ」と口々に言った。
その理屈は、街道を通る順番にたとえれば、直感的にわかりやすい。
だが──盗賊と、くじは違う。
盗賊は、一度現れれば、その危険は消える。
つまり、「状況そのもの」が変わるのだ。
しかし、くじは違う。
たとえ当たりが出ても、「くじの総数」と「引く人数」は変わらない。
このくじは、たとえるなら「全員同時に盗賊に向かっていく」のだ。
誰かが必ず盗賊に捕まり、残りは走り抜ける。
全員が、必ず一本ずつ引く。
だから、当たりが先に出ようと後に残ろうと──それは単に「誰がどの順番で、どの結果を引き当てたか」というだけで、確率の公平さは崩れない。
アーデルは、「それでも、誰が引いても同じ」と信じていた。
だが──村人たちが信じたのは、「実際に当たりが出た瞬間」だった。
彼らにとって、“目の前で起きた出来事”こそが真実であり、
“数の上では同じ”という言葉は、ただの言い訳にしか聞こえなかった。
そして──このすれ違いこそが、新たな制度が疑われる最大の理由だった。
(今のくじは、やってることは全員同時引きと同じ結果のはずなんだよね。
いっせーので全部つかんで……そう、途中で結果が見えるから損した気分になるんだよ……そうだよ)
アーデルは、体の奥から何かがこみ上げてくるのを感じた。
それは怒りでも悲しみでもなく、もっと原始的で、もっと衝動的な熱だった。
言葉より先に、それは口をついて飛び出した。
思考の手綱が追いつくよりも早く、彼女の声は空気を切り裂いた。
「そうだよ……!だったら──」
その瞬間、アーデルの瞳に火が
魔法使いとしての自負、合理を
「くじ棒に印をつけるんじゃなくて、長さを変えようよ!
短い棒を三本、それ以外は長くする。全部、よく混ぜて配って……
みんなは比べないで黙って持ってて、最後に、一斉に比べるの!」
彼女の手が宙を切り、言葉がたたみかける。
「これなら、誰が先でも後でも関係ない。
引くときにビクビクしなくて済むし、“公平さ”が崩れないよ!」
その提案には、たしかに光があった。
合理的で、透明で、誰もが直感的に理解できる──はずだった。
(くーっ、我ながら天才すぎる!
最強の魔法使いにして、最強の算術魔法使いだよ、
転生してきた
アーデルの内心は歓喜で満ちていた。
だがその高揚は、次の瞬間、氷のような現実に
「だったら、はずれが多いうちに選ばせろよ」
「最後は選べないんだから、損ってことだろ?」
「くじを引く順番を決めるくじも必要だな」
反応は、早かった。
そして、予想を裏切らず“斜め”だった。
アーデルの目の前で、村人たちは再び“順番”にこだわり始めた。
彼らにとって「公平」とは、ルールの合理性ではなく、「自分が損をしない」こととほぼ同義だった。
(……はぁ。くじの順番を決めるためのくじ? その順番をまた決めるくじ? それ、くじの無限連鎖だよ……)
彼女は心の中で崩れ落ちる。
苦笑さえ浮かぶ前に、冷たい現実が容赦なく押し寄せてきた。
(この村、ジャンケンあるのかな……?
あれも本当は公平なはずだけど、たぶん“勝ち方を知ってる
アーデルは、ゆっくりと目を伏せた。
熱の余韻だけが、体の奥にまだ残っている。
だが、その熱が届く先には、誰もいなかった。
「……言葉は、届かないんだね……」
そう
「数字も、理屈も、気持ちも──全部、届かない……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分の中で、何かを
彼女の中で、確かなものはあった。
だが、それが“人を動かす”ということとは、別の話だった。
認知バイアス――
現代人ですら、この
信じたいものだけを拾い上げ、反証を拒む。
理屈より、心が先に判断を下す。
古来より、こうして判断が速かった者だけが、生き残ってきた。
それは、数十万年かけて遺伝子に刻まれた「生存戦略」に
鉄器すら貴重なこの時代。
電気もなければ、自然権も、義務教育もないこの世界。
それでも──
本能的な「生存戦略」では損をするほど、この世界は、すでに未来に進みすぎていた。
「……家に帰る。終わったら呼んで」
そう呟く声は、もはや蚊の鳴くようだった。
議論を重ねるごとに募る疲弊が、鉛のように彼女の全身にのしかかる。
返事を待たず、アーデルは
背中では、レオンの困惑した声と、再び沸き起こる村人たちの不平不満の騒ぎが、遠い
彼らの声の一つ一つが、何を言っても理解してもらえないという、底なしの焦燥感となって、彼女の心を深く、深く支配する。
知っている知識が、正しいと信じる理屈が、なぜ、これほどまでに通じないのか。
理不尽な壁に頭を打ち付けているような、途方もない孤独感が、アーデルの全身を包み込んでいた。
アーデルは知らなかった──群集とは、理屈だけでは動かない生き物であることを。
正しさなど、感情の熱でいとも簡単に溶けてしまうことを。
そして彼女はすぐに知ることになる。
群衆が、感情で動く生き物であることを。
*
火床の上で、昨日の残りのスープがくつくつと音を立てていた。
灰にうずめた火は、小さな命のように脈打っている。
「あら、もうくじは決まったの?」
ミーナは帰ってきたアーデルに話しかけたが、
湿った薪の匂いに包まれながら、
「もう最悪。みんな、くじを疑ってやってくれないの。『最初がいい』『最後にしろ』ばっかり。数字では公平なんだよ? なのに全然信じてくれない」
その声には怒りよりも、困惑の色が濃かった。
理屈は通っている。けれど、人が動かない。
自分が精一杯補強したはずの制度が、信頼されなかったという現実に、アーデルはわずかに肩を落とした。
ミーナは鍋をかき混ぜながら、ふと目線を落とす。
湯気の向こうで沈思するその顔には、信仰に生きる者のためらいが滲んでいた。
「そうね……アーデルが先に魔法を使ってみせたら、信じてくれるかもしれないわよ?
それは、本来の教義では危うい思想だった。
「信じれば、神の恩寵が与えられる」。
その順序を逆にすれば、信仰ではなく取引になってしまう。
だがミーナは知らない。助祭が月に一度巡回するだけの村で、彼女はただ祈り続けていた。
──それは、祈りというよりも、胸の奥に沈んだ何かへの弔いのようでもあった。
何かを──誰かを──救えなかったこと。その記憶だけが、彼女の祈りを支えていた。
その重さを背負いながら、神にすがることだけが、ミーナの道だった。
アーデルは首をかしげた。
「え、それって、くじを引く前に……ってこと?」
(……つまり、駄々をこねる子に、先に
約束守らせるために先に破る前例作ったら、余計に“飴待ち”が増えるだけだよ……
みんな甘いの大好きになっちゃう)
アーデルの前世──常に母の監視のもと、甘味を厳しく制限されて育った。
それが過剰であったことは理解していたし、自由を求める思いもあった。
だが「人は自由であるべきだ」という意志と、「人は制限されるべきだ」という母の教えが、彼女の中で矛盾しながら共存していた。
いま彼女は、その矛盾を抱えたまま原則論にしがみつき、思考を硬直させている。
自分が何に縛られているのか、それすらまだ気づけていなかった。
ミーナは少しだけ、首を傾けた。
かすかに湯気を揺らしながら、彼女は静かに言葉を継いだ。
「……わたし、教えに詳しいわけじゃないの。いつも誰かに聞くだけ」
自嘲するでもなく、ただ事実を口にするような調子だった。
だが、その声には、確かな実感がこもっていた。
「でも、ね。信じるって、何もないところで目をつむることでしょう? それって、すごく怖いのよ」
ふっと、火のはぜる音が聞こえた。
その瞬間だけ、部屋の空気が少しだけ重たくなる。
「だったら、手を伸ばしてくれる人がいたら、目をつむれる気がするの」
ミーナの目は、湯気の向こうにいるアーデルをまっすぐ見つめていた。
そのまなざしに、押しつけがましさはなかった。
ただ、静かであたたかい、真心の輪郭だけがそこにあった。
「アーデルが、最初のその手になってあげたら……って、思ったの」
言葉はそこまでだった。
だが、その余韻は、簡単には消えなかった。
(なんてこと……人ってこんなに優しくなれるの。
こんな死と隣り合わせの世界で……信仰の力なの? それとも、お
彼女の言葉は、アーデルの胸にすとんと落ちてきた。
これまで、前世の合理性や母親の教えに縛られ、「正しいこと」と「そうあるべきこと」ばかりを考えていた自分に気づかされた。
ミーナの言葉は、理屈ではない、人の心の奥底にある不安と、それに寄り添う優しさを教えてくれた。
(……たしかに、信じるって怖いことだ。
私がやろうとしてるのは、みんなに恐怖を強いることだったの?)
アーデルは、自分がどれほど冷徹に、そして
数字の公平性だけを振りかざし、村人たちの感情や不安に全く寄り添っていなかった。彼らが不信感を抱くのは当然だったのだ。
「……そっか。信じるって、怖いの、か」
アーデルは小さく呟いた。ミーナの言葉が、凝り固まった思考の殻を破り、新しい視点を与えてくれた。
「甘さじゃなくて、優しさか……。確かにそうだね……」
アーデルの脳裏に、母の厳しい監視の目がよぎった。甘味を制限され、常に規律を重んじるよう教え込まれた日々。
それは、彼女にとって「甘さ」を排除し、「正しさ」を追求することと同義だった。
しかし、ミーナの言葉は、その「甘さ」と「優しさ」の間に明確な境界線を引いた。
(
でも、ミーナが教えてくれたのは「優しさ」……。人が不安な時に手を差し伸べる、寄り添う心。それは「甘さ」とは違う)
アーデルは、自身の内側で長らく混同していた二つの概念が、分離されようとするのを感じた。
その瞬間、彼女の思考のモヤは晴れ、視界が
(そっか、先に優しさか。確かにその通りだよ。けど、魔法じゃないんだから無限に使えるわけじゃないし……。いや魔法だけど、ハラヘリ魔法なんだよ)
アーデルは先の騒動を思い返した。くじの順番ひとつで、村全体がざわつく。 それは、秩序のない不安が、人々を声高にさせていた。
(誰かの畑を適当に選んで耕したら、また狂乱の
「そう言えばさ。貢献麦って、夕方に配るんだよね」
アーデルはふと、思い出したように口を開いた。
湯気の向こうに浮かぶミーナの背中に、問いかけるように言葉を投げる。
「なんで、ご褒美が“後”なの?」
それは他意のない質問のように聞こえたが、彼女の中ではすでに、制度全体への違和感が小さく渦を巻きはじめていた。
ミーナは、鍋をかき混ぜながら振り返ることなく答えた。
「労働奉仕が終わるのが夕方だからじゃないの?」
言葉の調子は柔らかかったが、その理由には、とくに深い意味があるわけではなかった。
ただ、皆がそうしているから──それだけのこと。
アーデルは一瞬、黙り込んだ。
目を細める。
なにか、引っかかる。
「……そうか。でも、この制度……最初の一歩から、
声に出したとたん、疑念が確信に変わった。
目の奥が
「
翌日の魔法耕起権を夕方に決めるのだから、既に今、最初の耕起対象が決まっていなければならない。
だが、それがなかった。
誰も、対象を決めていない──その事実に、アーデルはようやく気づいた。
彼女は木椀を机に置いた。
こつんと、木が鳴った。
立ち上がると同時に、湯気の中にスープの香りだけが取り残された。
「先に食べてて。昨日からずっとお腹いっぱいなの。気にしないで」
振り返らずにそう言うと、アーデルはそのまま玄関に向かって歩き出した。
頭の中は、すでに外の共用倉に向かっていた。
レオンの顔。くじの列。村人たちの視線。どれもが脳裏に重なりながら、彼女の歩みをせき立てる。
けれど、家を出るその直前、ふと足を止めた。
扉の前で、肩越しにミーナの方を振り返る。
その横顔は、朝の光に少しだけ照らされていた。
「お母さん、ありがとう」
その言葉は、不意にこぼれ落ちたものだった。
理屈ではなく、計算でもなく、ただ感謝だけが残っていた。
それは、彼女自身が「優しさ」というものをようやく言葉にできた瞬間でもあった。
そして──アーデルは扉を開けた。
冷たい朝の空気が、頬を
その空気を胸いっぱいに吸い込みながら、彼女は歩き出す。
頭の中では、ミーナの言葉と、未整理の問題たちがいまだ渦を巻いていた。
制度の綻び、信頼の欠落、人心の複雑さ。
何をどうすれば、解けるのか──それは、まだはっきりとはわからない。
足取りは決して軽くはなかった。
けれど、それでも彼女は、確かに前へと進んでいた。
ただし、それが「優しさ」なのか、「甘さ」なのか。
その違いは、まだ──わからなかった。
*
共用倉の前では、依然としてくじの順番をめぐる言い争いが続いていた。
言葉がぶつかり合い、空気は濁り、まるで何かが
「いいから早くくじ引かせろよ。時間の無駄だ」
「その通りだ。俺が引く」
「レオン、くじじゃなくて精霊様に聞いてもらえよ。マティアスを呼んでくれ!」
誰かがそう言った瞬間、板戸がぎしりと音を立てた。
倉の前で押し合いになるたびに、厚い木の戸がきしみ、かすかに揺れた。
そのたびに罵声が飛び、怒鳴り声が重なり合う。
レオンは
彼の表情には
制度は整ったはずだった。公平に、効率的に──
だが、蓋を開ければ、群衆は制度ではなく、疑念と焦燥に突き動かされていた。
そのとき──
「待って!」
澄んだ声が広場に響いた。
アーデルが両手を高く掲げると、その姿が朝の光の中に浮かび上がった。
一瞬だけ、騒ぎが
「みんなー、いい方法思いついたから、ちょっとだけ待ってて。……もしかして、すごいこと起きるかも」
その言葉に、ざわめきが変質した。
怒りでも要求でもなく、「提案」だった。
唐突さにもかかわらず、アーデルの声には、
広場にいた者たちは、ほんのわずかに眉をひそめながらも、自然とその声に耳を傾けていた。
「ちょっと、レオンいい? 打ち合わせ」
アーデルは軽く肩をすくめて見せ、肩越しに笑みを向けた。
「ゴメンねみんな、すぐ終わるから……ほんの少しだけ、待ってて」
その場を和ませるような口調だったが、目は真剣だった。
彼女はその隙を逃さず、レオンの袖をそっと引いた。
ためらいなく彼を引き寄せると、共用倉の裏へと歩き出した。
裏手に回りこむと、
アーデルは念のため周囲に視線を走らせ、誰の目もないことを確かめると、声を落として言った。
「ねえ……今日は、どこの畑を耕すつもりだったの?」
何気ない一言のようでいて、その実、制度の根幹にかかわる問いだった。
レオンは答えず、しばらく黙っていた。
耳の奥ではまだ村人たちの声がくぐもって聞こえてくる。
だが、彼はそれを切り離すように目を
ようやく小さく口を開き、地面に視線を落とす。
「……やっちまった」
その声は、苦さを含んでいた。
言い訳の余地はなかった。
続けざまに、レオンは額に手を当て、天を仰ぐ。
「くじと貢献麦のことだけで、他が完全に抜けてた」
声に悔いと自己嫌悪がにじむ。
静かに、ぽつりと吐き出すように続けた。
「昨日、あれだけ会議してたのに……“最初の畑”の話、誰もしてなかったなんて……。はあ……参ったな……」
その姿は、肩書きも制度も関係ない、ただの
人々の不満を受け止めようとしながらも、その波に
群衆の中で
その沈黙の隙間に、アーデルの声がそっと差し込まれた。
「じゃあ、どこでもいいから、レオンが決めてよ」
言葉だけ見れば軽い投げかけだった。
けれどその奥には、「もう誰かが決めなきゃいけない」という焦りと諦念が滲んでいた。
レオンは顔をしかめ、吐き捨てるように返す。
「この状態で? そんなことできるわけないだろ。公平じゃないって、確実に騒がれる」
小さく舌打ちしたあと、彼は空を見上げた。
雲の切れ間もなく、空は一面の鉛色だった。
その重たさが、今の村の空気そのものに思えた。
深く息を吸い、言葉を探すようにぽつりとこぼす。
「……もう、みんな“得したい”のか、“損したくない”のか、それすら曖昧になってる。考えてるのは、自分が外れたときに“怒れる理由”を用意しておくこと。それだけだよ」
語尾には、皮肉というより、深い疲れがにじんでいた。
公平を求める声が、実は“不満を表明する免罪符”を求めていた──そんな本音を、彼は見透かしていた。
そのまましばらく口を閉ざし、肩を落としたまま地面を見つめていた。
やがて、思い出したように呟く。
「……
レオンの言葉には、制度ではなく“人”に対する深い諦めがあった。
公平とは、決め方の問題ではなく、納得の問題。
そして人は──納得したくないときには、どんな理屈にも背を向ける。
アーデルは、そんな彼の横顔を静かに見つめながら、ふと考えを口にした。
「ならさ、このくじで決めさせたらどう?」
その言葉に、レオンが眉をひそめる。
だが、アーデルの声は真剣だった。
「『くじを信じて使う』って、ちゃんと口にした人だけに引いてもらうの。
“信じる”のが、先でしょ?」
それは命令ではなかった。
かといって、理屈だけでもなかった。
揺らぎながら、それでも自分の足で立とうとする者の提案だった。
「……くじで、何を決めるって?」
レオンの問いかけに、アーデルは一歩、地面を踏みしめた。
その動きには、言葉以上の確信が込められていた。
「魔法耕起権──“最初の畑”を決めるんだよ」
言いながら、彼女は視線を倉の中に向けた。
記憶のなかにある、昨日の試し用のくじ。そこにはまだ短い棒が数本、残っているはずだった。
「それをそのまま使えばいい。全員で引いて、いちばん短いくじを引いた人の畑を、私が耕す」
それは、一見すると小さな提案だった。
けれどその実、制度全体に風穴を開ける“きっかけ”になりうる──そう、アーデルは感じていた。
風が少し吹き、共用倉の裏に乾いた草の音が広がった。
レオンは足を止め、数秒、アーデルの顔をまっすぐ見た。
算術と理性で人々を説き伏せてきたアーデルが、あっさり譲歩案を出すとは。
彼はその変化に驚愕した。いったい何が彼女を変えたのだろう。短時間での変貌は、レオンに率直な驚きを与えた。
だが――アーデルは、本質的に変わったわけではなかった。
アーデルは、譲歩したのではなく、譲歩ができたのだ。
くじ制度も、供出も、そして耕起順も──その全てが未だ完全に整いきっていなかった。
完成されたルールは、一度確立されれば、誰も容易には動かせない。しかし、この日、この朝、その設計はまだ途上にあった。
アーデルが柔軟な対応を見せられたのは、彼女自身の内なる優しさだけではない。
ルールの未整備という偶然が、彼女に融通を利かせる余地を与えたに過ぎなかった。
もし耕起の順番がすでに決まっていたなら、契約は一方的な強制に、供出は命令に変わっていたかもしれない。
甘さと優しさの境界線は、彼女の意思ではなく、未完成な構造が生み出した隙間によって定められたのだ。
アーデルはまだ気づいていなかった。
今日のこの柔軟な対応が、未整備という偶然の産物に支えられていたことを。
この制度が完全に整ったとき――何かを崩す術を、彼女は持ち続けていられるだろうか。
彼女が崩さねばならなくなった時、村人は譲歩できるのだろうか。
「……なるほど。先に“報酬”を見せるんだな」
レオンが呟いた声には、戸惑いを越えた納得の響きがあった。
考えが線となってつながり、霧が晴れたような感覚が、彼の表情に生気を取り戻していく。
「体験してもらえば、あとは慣れか……うん。いい。すごくいいぞ、これ」
それまで沈んでいた声に、わずかな熱が戻っていた。
レオンは片手で蝋板を握り直すと、前かがみになって勢いよく立ち上がる。
思考が行動に変わる、その瞬間だった。
「よし、これで行こう。あとは俺がやる。まかせてくれ!」
そう言って、今にも走り出そうとしたその背に──
アーデルがふいに声をかけた。
「ちょっと待って」
その声音には、興奮に流されない冷静さがあった。
レオンの勢いを責めるでも止めるでもなく、ただ“確認”のために、立ち止まることを求める声だった。
「その前に、順番をはっきりさせようよ。……“どっちが先”かで、印象はぜんぜん変わるから」
アーデルの視線は、抜け目なく段取りを追っていた。
焦りはなかった。彼女にとって制度とは“感情を巻き込む技術”でもある。
「畑権? それとも、供出食料?」
レオンは足を止め、振り返った。
一瞬だけ思案の色を浮かべて──それから、わずかに苦笑を漏らした。
「……うーん、そうきたか」
肩をすくめながらも、明らかにその提案の意図を理解していた。
そして、口元に皮肉混じりの笑みを浮かべる。
「じゃあ、“嫌なことは先に”だな。つまり、供出からだ」
アーデルは軽く頷いた。
思惑が一致したことへの安堵と、自分の判断が共有されたことへの静かな満足が、その所作ににじんでいた。
「なるほど。先に供出くじを引かないと、次の畑権のくじは引けない。約束、供出くじ、そして畑権くじ……それで決まりだね」
レオンは腕を組み、しばらく考えるように空を仰いだ。
そして、ゆっくりとうなずき、口角を上げる。
「それに、畑のくじは今日だけの特例だ。明日からは“努力で手に入れる”ものになる。──畑権を“買う”」
その言葉に込められたのは、制度への希望だった。
一度“試す”。その成功体験があれば、人は変わる。
それが本当の運用へつながる。そう信じられるだけの根拠が、ようやく見えてきた。
「つまりこれは、制度の“お試し”なんだ」
レオンの瞳には、かつて軍にいた頃のような、命令ではなく意思で動く者の光が戻っていた。
立ち止まり、悩み、迷っていた彼が──いま、再び歩き出そうとしていた。
「最初は嫌々でもいい。流れに乗ってしまえば、きっと慣れる」
レオンの声には、状況を見極めた者特有の静かな熱が宿っていた。
制度の初動はいつも重たい。だが、人は慣れる――その確信が、彼を少しだけ前向きにしていた。
「だから、供出を先にして正解だ。これは……うまくいくかもしれないな」
その言葉には、希望というよりも、“やれる根拠”が宿っていた。
完璧ではなくても、少なくとも進めるための論理が、そこにはあった。
アーデルは黙って頷いた。
彼の言う通りだと思った。くじそのものを信じさせるのではなく、まず“体験”を積ませること。
それが今日の本当の目的なのだと、自分でも改めて理解した。
「……つまり、今日のくじは“練習”ってことだね。踏み出して慣れてもらう、そのためのくじ。……うん、たぶんそれだね。それで行こう」
それはもう、説得でも報告でもなかった。
制度を預かる者としての、自分自身への言い聞かせだった。
レオンは深く頷き、ようやく気持ちの整理がついたように、倉の表へと足を向けた。
だが、数歩進んだところで、ふと何かを思い出したように足を止める。
「そうだアーデル。腹減ってるかもしれないけど、悪いが、くじで当たった畑、すぐに耕してやってくれないか」
背中越しに振り返った彼の声は、少し申し訳なさそうで、けれど現実的だった。
アーデルはけろりとした表情で首を傾げた。
「昨日、無理して食べたから全然お腹空いてないけど。……なんで?」
レオンは肩を軽くすくめて答える。
「アーデルが“約束を守ろうとしてる”って、村に見せるためだ。耕起が始まれば、感激してみんな仕事にすっ飛んでいくさ。初動が命だ」
言いながら、自分でもその言葉の確かさに頷いていた。
最初のひと掘りは、単なる作業ではない。それは“未来の現実”を示すためのデモンストレーションなのだ。
アーデルはニヤリと笑い、いたずらっぽく言った。
「……頭いいね、レオン。でもね、みんなの前でやると見物で手が止まるから、適当に追い払っておいて」
それは決して冗談ではなく、現場を見てきた者としてのリアルな懸念だった。
“感動”は容易に“見世物”へと転じる。
そうなれば、秩序の導入ではなく、ただの混乱になる。
「わかってる。最初だけ見せれば、十分だ」
レオンもまた、冷静に応じた。
見せすぎず、隠しすぎず。制度の導入に必要なのは、そういう“塩梅”だ。
彼はそのまま倉の表へと歩き出そうとした。
だが、その背に──またしてもアーデルの声がかかった。
「ちょっと待って……」
その呼び止めは、先ほどまでのような確認ではなかった。
もっと、感覚的で、けれど直感に従ったものだった。
アーデルの表情に浮かぶのは、何かを思い出しかけている人間の顔。
言葉に変わる前の思考が、まだ形にならないまま、彼女の中で渦を巻いていた。
「ちょっと待って……」
アーデルの声は、空気を切るように鋭かったが、不穏ではなかった。
ただ、何かが心に触れたときの、あの独特の震え――
彼女はその正体を確かめるように、ゆっくり思考に沈んでいった。
(……待って。あの時……狂乱の宴を止める時。放水で偶然、虹ができて……)
思い出す。あの朝の光の中で、誰もが言葉を失い、そして……祈った。
(メチャクチャ驚いて、みんな、祈ってた)
アーデルは、自分の中にあった“当たり前”が崩れていくのを感じた。
魔法耕起なんて、ただのトラクターの代わり。そう思っていた。
だが──
(もしかして……私が思ってる以上に、“魔法”って……感動を与えるものなの?)
それは、異世界に転生してから初めて抱く“異邦人ではない”視点だった。
魔法が日常になるほどに忘れていた、「初めて見た誰か」の目。
そうして、アーデルの中で一つの提案が形になった。
これは制度の話ではない。
もっと原始的で、しかし確実に人を動かす“順番”の問題だ。
「まず……先に魔法耕起権のくじをする。すぐに耕す」
彼女の声は穏やかだったが、その言葉には明確な意図があった。
「それを見せながら供出くじをやる。……これって、どう思う?」
レオンは眉をわずかに上げた。
その意図を即座に理解したわけではなかった。けれど、彼女の真剣な目を見て、耳を傾ける。
「つまり、約束、畑権くじ、魔法耕起、供出くじ。……この順番になるかな」
少しの沈黙ののち、レオンはふむ、と顎に手をやりながら言った。
「……つまり、魔法耕起の演出をして、“ほらすごいだろ。アーデルを応援してみんなで支えよう”って気持ちになって、供出くじをしてもらうのか」
アーデルは顔をしかめ、わずかに声を荒らげた。
「な、なんか微妙な言い方だけど、それかな」
語気は強くないが、言葉の芯は強かった。
「少しでも気持ちよく供出してもらえたら、それでもっと頑張れるんじゃない? これはただ、くじの順番を工夫してるだけだよ」
語気は強くないが、言葉の芯は強かった。
くじ制度は、心を動かさなければ動かない。
そのために、“理屈ではない動機”が必要なのだと、彼女はようやく気づいていた。
レオンはしばらく目を細めていたが、やがて笑みを浮かべた。
「確かに……俺も、お前が一晩で耕した畑を見て、神の”奇跡”かと思ったよ。おっと、アンドレには内緒な」
村の中では、すっかり禁忌の言葉として定着していた。
「お前があまりに平然と使うから、恩寵なんだか日常なんだか、正直混乱してる」
それは照れ隠しにも似た賛辞だった。
だが、彼の言葉には本気も含まれていた。
魔法の光景は──特別なのだ。
それを、制度の“演出”に組み込むのは、合理でもあり、希望でもある。
「そうだな……行けるんじゃないか? それで行こう」
レオンの瞳には、はっきりとした明るさが戻っていた。
迷いの中で立ち止まっていた男と、言葉の届かぬ世界に挑もうとしていた少女が、
今、同じ一点に立っていた。
こうして、レオンとアーデルはくじを引かせた。
*
最初の動きは鈍かった。
そもそもこの村で、「公平」を担保する道具として“くじ”が使われたことはない。
疑念と猜疑心。未知の道具を初めて触れるネコのようだった。
だが今日だけ、くじを疑わないという約束で、「魔法耕起権のくじ」が得られる──その情報が広がった瞬間、空気が変わった。
沈黙がざわめきに変わり、足が前へと動き出す。
「断る理由がない」。
誰かがそう呟いた時には、すでに列ができていた。
皆が次々と誓った。ある者は教会に。ある者は精霊に誓った。こうして、全員がくじを認めていった。
運命の魔法耕起権、くじの棒を全員が持ち、平らな石の上に立てる。一目してわかる長さだ。
当たったのは、村の端に住む中年男だった。
一瞬きょとんとしたが、すぐに両手を挙げて喜び、周囲から歓声が上がった。
皆が悔しさを押し殺しながら、それでも称賛を惜しまなかった。
耕起する畑が決まると同時に、アーデルはすぐ魔法耕起を開始した。
これは、供出くじを引かせるための“前座”ではない。
──“未来の全ての畑”を、先に見せる。それが目的だった。
(くぅー魔法使うとお腹空くなー。お腹いっぱいなのに骨ばってお腹空くってどういうこと? 干し肉くらいなら食べられそう。太っちゃうー。その前にこのホネホネ、なんとかしないとね)
これまで村人たちは、収奪されるばかりの重税と、その対価なき労役に疲弊していた。
だがいま、彼らの目の前で──
数十倍の速さで、硬い土が細かく、等間隔に、軽やかに掘り起こされていく。
畑に駆け寄って見る者、手を合わせる者、黙って見入る者など
その光景は“恩寵”のようだった。
ただ珍しいだけの魔法ではない。
日常に役立ち、飯の種になる。
木のクワの代わりに、天から降りてきたような道具──いや、それはもう労働の奇跡だった。
見ていた者たちは、一人また一人と供出くじの列に加わった。
先を争うようにくじを引き、「供出義務」は瞬時にして「供出権」へと姿を変えた。
不思議な光景だった。
当たりくじに歓声が上がり、外れた者が肩を落とす。
──共用倉の前で揉めていた時は、「供出食料」は忌避すべき犠牲だった。
皮肉にも、それは寄人会議が議論を先送りし、“畑の順番”を決め損ねたことで生まれた隙間だった。
偶然とも、必然ともいえるその亀裂に、アーデルは魔法という“楔”を打ち込んだ。
そして今、くじ制度は──
“設計された制度”ではなく、“感情で納得された現実”として、初めて動き出していた。
アーデルが二枚目の畑を耕している間、レオンは広場の隅で静かに段取りを整えていた。
供出権を得た三人は、それぞれ家に戻り、ほどなくして食料を持ってきた。運び手は家族や隣人だった。誰もがどこか誇らしげだった。
チーズ。干し肉。ジャガイモ。そしてパン。
(やったー。パンだ!)
アーデルは、耕しながら目だけを動かし、届けられた籠を一瞥した。
(昨日のチーズと干し肉だけより、だいぶいい……パン無しじゃ、くどくて食べきれなかったもん)
パンが加わったのは、昨日の「残すほど満腹になるが、胃が重くなる」というアーデル自身の感想を踏まえて、レオンが気を利かせた結果だった。
「見物やお祈りは、ほどほどにして。私は魔法、みんなは仕事。分担しよ」
アーデルがそう言うと、畑の周りにたまっていた人々はそれぞれ仕事に戻り、畑に静けさが戻っていた。
(……よかった。このまま“見世物”になったら、労力の無駄遣いだよ)
ほっと息をついたアーデルは、干し肉を一口かじった。
その噛み応えとともに、さきほどレオンと交わした会話が脳裏に浮かぶ。
ジャガイモ。
レオンの話では、それを持っている農家は少ないらしい。
時季も外れてきているし、まだこの作物は村に十分広まっていない。
栽培法も手探り。切って干して芽出しして、試行錯誤の連続だという。
意外だったのは、それを導入したのが修道院だということだった。
種を配り、育て方を教え、芽の出し方を工夫し……
まるで小さな農業試験場のように、実験と教育を同時にやっていたという。
搾取者の象徴だと思っていた修道院に、そんな面があったとは。
アーデルの中で、揺らぎが生まれた。
「権力、支配、搾取、か。でも、やることはやってるのか」
次の瞬間、舌に渋みが残った。
それは肉のせいか、思考のせいか。
「……結局、育てさせて、年貢で回収する。カツカツまで取るじゃん。私欲、丸見えだよ」
口に出してみると、その言葉は思ったより軽かった。
怒りというより、愚痴に近い。
雨の畑では、神を殴りたいと本気で考えていた。
けれど今は──どこか他人事のように、尻を叩いてやりたいと思うだけだった。
アーデルはふと、ミーナの祈る姿を思い出した。
彼女は教義に詳しいわけではない。
それでも、あの祈りはまっすぐで、子どものように、そして……どこか強かった。
あれは教会の教えに従っていたのだろうか。
それとも──人を信じる力の現れだったのだろうか。
彼女の中で、知識と現実がずれる音がした。
教会の腐敗、火あぶり、宗教戦争……
前世の曖昧な記憶で感じていた“中世”が、ここではまるで違う顔をしていた。
この村には複数の権力がある。
領主、修道院、教会、城塞都市トゥレミス。
年貢と労役を取り立てる勢力たちが、寄り集まり、重なり合って存在している。
だが彼らは一枚岩ではなく、たがいに重なり、時にずれていた。
アーデルはそれを、肌で理解し始めていた。
遠く、畑の端で誰かが祈っている。
精霊か、教会か。それすら区別がつかない。
けれど確かに、何かを願うその姿は、信じることの原点のようにも見えた。
アンドレ。
“試みる者”と疑い、見張ると言った彼は、今の自分をどう見ているのだろう。
教会遠征軍で異端と戦ったレオンは──
今もアラビア数字の練習を続けているのだろうか。
マティアス。
あの老祈祷師は、教会の目を逃れながら、いつまで精霊信仰を守れるのだろう。
アーデルの魔法は、そんな問いかけにも答えず、ただ静かに動き続けていた。
手のひらをかざすたび、地面が割れ、耕されていく。
音も煙もない。ただ土が整えられていくだけの、淡々とした作業。
「……あーあ、干し肉かじりながら畑を耕すなんて、前世じゃ絶対あり得なかったよ。行儀悪いし、見られたくないし……。いや、もう慣れてきたのが一番怖いかも」
だが、そう言いつつ、手は止まらない。
畑は耕され、地はめくられ、未来の食糧が生まれる下地ができていく。
彼女はふと、空を見上げた。
鉛色だった雲のすき間から、かすかに光が差していた。
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