第9話 畑と信頼のくじ引き


その朝、くじ引きの列は、なかなか整わなかった。


前日の会議で決まった新たな制度は、すでに各家に伝えられていた。

嘆く者、怒る者、黙って受け入れる者。

反応はばらばらだった。


細く割られた薪が家の数だけ用意され、その末端に、そっと刻みが入れられている。

当たりは三本──

つまり三つの家が、その日、アーデルに食料を差し出さねばならない。


乳製品でも、にくでも、ジャガイモでもよい。

だが、そのどれもが貴重だった。

この寒さと飢えのなかで、当たりくじはすなわち「供出の義務」──つまり“罰”だった。


共用倉は朝早くから掃き清められ、家々が持ち寄った皿が整然と並べられている。

釜ではすでに“貢献麦”が焼かれ、不揃ふぞろいな色のものは弾かれ、均一な焼き色のものだけが山となって積まれていた。


その日もっとも貢献度の高かった畑は、アーデルが魔法で耕す。

それが“正義”だと、昨日きのうは皆で合意したはずだった。


だが──


その朝、共用倉でレオンとアーデルが待っていても、村人の足はなかなか向かなかった。


くじを引く者が三人。

つまり三つの家が“当たり”を引く。

だが、その当たりは──飢えた家にとって、ただの“罰”だった。


だからこそ、村人たちは本能的に悟っていた。

「当たりは三本。

ならば、それが誰かに渡ったあとで引いた方が安全だ」と。


先に引けば、三つの当たりすべてがまだ残っているかもしれない。

だが、当たりが出きってしまえば、残るのは“空くじ”だけ──つまり、安全なくじ。


だから、人々は言い訳を探し始めた。


「昨日の作業で腰を痛めてな……少し後にさせてくれ」

「子どもが熱を出していて、いまは手が離せない」

「どうぞどうぞ、お先に……」


不自然な譲り合いが、朝の冷たい空気に漂っていた。


なかには、頭のシラミを取るしぐさをする者もいた。

木靴に小石が入ったと、わざとしゃがみ込んだ者もいた。

そのどれもが、偶然ではなかった。


当たりくじが“報酬”であるならば、人は前に出る。

だが、それが“罰”に見えるとき、人は静かに後退する。


「いつ引いても公平だよ」とアーデルが言っても、

「順番は関係ない」とレオンが主張しても──それは“正論”でしかなかった。


人の心は、数字に従わない。


早く引けば当たるかもしれない。

遅く引けば、当たりが消えているかもしれない。

だが、それでも人は、“できるだけ遅くに”けたがる。


それは、確率ではなく、「当たりが出た」という“現実の出来事”を、

なにより強く信じてしまう、人間の感覚のわなだった。


「罰は、できれば誰かが先に引いてくれるのがいい」


誰も口に出さなかったが、皆がそう思っていた。

──「できれば、罰は誰かが先に引いてくれたほうがいい」と。


声にするには卑怯ひきょうすぎるその感情が、村の朝に沈黙という名の煙のように立ちこめていた。

制度への明確な反発はない。だが、それは信頼ではなく、ただの諦念だった。


くじの前で立ち尽くすアーデルとレオンの前に、足を止める者は少ない。

村人たちは、わざとらしく靴を直したり、子どもの看病を理由に離れたりと、言い訳を探して時間を稼いでいた。

誰もが心の奥で、「当たりくじが誰かに渡ったあとの“安全なくじ”を引きたい」と願っていた。


そんな空気のなか、アーデルが一歩、前に出た。

肩をすくめ、声のトーンを少しだけ下げる。語るように、語りかけるように。


「……怖いのは、わかるよ」


その声に、数人がちらりと顔を上げた。

責めるでもなく、説得でもない。静かな共感がにじんでいた。


「このくじは、“当たったらそん”なんだもん。

だから、できるだけ後ろで引きたいって思うのは、当然だよね」


周囲に、言い訳を手放せないままの表情が並ぶ。

アーデルは、それを責める気はなかった。むしろ、理解したいとさえ思っていた。


「でも、本当は──順番は関係ないの」


そこで彼女は一度、ことばを切り、周囲をゆっくりと見渡す。


「人数分のくじがあって、全員が一回ずつ引くって、ちゃんと決まってる。

くじをよく混ぜたその瞬間に、もう“当たり”の位置は決まってるの。

だから、誰がどこで引いたって、最初の時点では、全員が同じ確率なんだよ」


言いながらも、彼女はそれが“理屈”に過ぎないことを自覚していた。

それでも、伝えたかった。知識と、感情のあいだに横たわる断絶を、少しでも埋めたかった。


「順番は、誰が“その結果”を引き受けるかってだけ。

先でも後でも、引く前の段階では……公平なの」


だが──その説明は、すぐさま遮られた。


「違うだろ」


最前列の男が、肩をそびやかして声をあげた。

それを皮切りに、せきを切ったように次々と声が飛ぶ。


「当たりが全部出たら、残りは全部はずれなんだ。

安全になったら引くさ」


「早くご馳走ちそう食いたいからって、適当なこと言うなよ」


「街道を先に歩けば盗賊が出る。後から行けば盗賊だって帰ってるさ。

そんなこともわからないのか?」


どの声にも、怒りや敵意というより、焦りと不安がんでいた。

彼らは制度を否定しているのではない。

「損を引かされるかもしれない」という恐怖が、理屈をかき消していた。


言葉ではなく、感情が場を支配していた。

アーデルの声は、あくまで理路を説いていたが、群集の耳は現実の“損得”にしか向いていなかった。


彼女の言葉は、空に向けて投げられたように、音もなく吸い込まれていった。


(あーわかる!確率って勘違いしやすいよねー。『3つのドア。ヤギ2匹、車1台。

あなたがドアを1つ選んだら、司会者は必ずヤギのドアを1つ開けます。あなたはドアを選び直しますか? 』

いくら聞いても理解できなかったなー。選び直したほうが得なんて、確率難しすぎ!)


アーデルは、一つひとつの言葉を丁寧に選びながら、ゆっくりと語りかけた。

もはやそれは、単なる説明ではなかった。

数の理を説くのではなく、心に届く言葉を探している──そんな切実な“説得”だった。


「……盗賊と、このくじは、違うんだよ」


その言葉に、わずかにざわめきが走る。

アーデルは構わず、続けた。


「誰かが先に引いたあとで、自分が無事だったら……それって、たしかに“得した”気分になるよね。

でも、それは“確率”で判断してるんじゃなくて、“結果”を見てそう感じてるだけなの。

ほんとはね、数字って、感情とちがってずっと静かで……でも、正しいんだよ」


彼女の声は、ぐだった。

だがその静けさが、かえって人々のざわついた心には届きづらいものになっていた。


「……この制度は、みんなで平等に、負担を分け合うためのものなんだ。

だから、順番で争い始めたら──本当に大切な“公平さ”が壊れちゃう」


一瞬、場に沈黙が落ちた。

けれど、その静寂は長くは続かなかった。


「“カクリツ”ってなんだよ?」


低く、不機嫌な声がひとつ上がる。

続いて別の男が、鼻で笑うように言い放った。


「数字はお前らだけのもんだろ。あとは……徴税代官か? 

俺たちみてぇな百姓には、関係ねぇ話だ」


その言葉に、数人が同調するようにうなずいた。

アーデルの理路整然とした語りは、彼らにとっては“上からの押し付け”にしか聞こえなかったのかもしれない。

彼女が差し出す論理と平等は、彼らの不安と猜疑心さいぎしんにとって、あまりにも冷たく、遠いものだった。


アーデルは、一瞬だけ口を閉ざす。

数字が正しいことはわかっている。

だが、それが人の心を動かすとは限らない──その事実が、目の前にはっきりと横たわっていた。


(そこからかー。どうやって説明したらいいの。

たぶん……盗賊とこのくじは違うはず……うまく言えないけど違う)


アーデルの説明は、感情的には理解されなかった。

だが、数学的には、彼女の言葉は端的に正しかった。



村人たちは皆、「最初に引いた者は損をする」「後の者は安全だ」と口々に言った。

その理屈は、街道を通る順番にたとえれば、直感的にわかりやすい。

一人目ひとりめは、まだ盗賊が潜んでいる道を行かねばならず、もし盗賊が現れれば、あとに続く者は「もう出ないだろう」と安心して歩ける。


だが──盗賊と、くじは違う。


盗賊は、一度現れれば、その危険は消える。

つまり、「状況そのもの」が変わるのだ。

しかし、くじは違う。

たとえ当たりが出ても、「くじの総数」と「引く人数」は変わらない。

このくじは、たとえるなら「全員同時に盗賊に向かっていく」のだ。

誰かが必ず盗賊に捕まり、残りは走り抜ける。

全員が、必ず一本ずつ引く。

だから、当たりが先に出ようと後に残ろうと──それは単に「誰がどの順番で、どの結果を引き当てたか」というだけで、確率の公平さは崩れない。

アーデルは、「それでも、誰が引いても同じ」と信じていた。

だが──村人たちが信じたのは、「実際に当たりが出た瞬間」だった。

彼らにとって、“目の前で起きた出来事”こそが真実であり、

“数の上では同じ”という言葉は、ただの言い訳にしか聞こえなかった。


そして──このすれ違いこそが、新たな制度が疑われる最大の理由だった。


(今のくじは、やってることは全員同時引きと同じ結果のはずなんだよね。

いっせーので全部つかんで……そう、途中で結果が見えるから損した気分になるんだよ……そうだよ)


アーデルは、体の奥から何かがこみ上げてくるのを感じた。

それは怒りでも悲しみでもなく、もっと原始的で、もっと衝動的な熱だった。


言葉より先に、それは口をついて飛び出した。

思考の手綱が追いつくよりも早く、彼女の声は空気を切り裂いた。


「そうだよ……!だったら──」


その瞬間、アーデルの瞳に火がともった。

魔法使いとしての自負、合理をつかさどる者としての誇り、そして何より、状況を打開したいという必死さが、一つに重なっていた。


「くじ棒に印をつけるんじゃなくて、長さを変えようよ!

短い棒を三本、それ以外は長くする。全部、よく混ぜて配って……

みんなは比べないで黙って持ってて、最後に、一斉に比べるの!」


彼女の手が宙を切り、言葉がたたみかける。


「これなら、誰が先でも後でも関係ない。

引くときにビクビクしなくて済むし、“公平さ”が崩れないよ!」


その提案には、たしかに光があった。

合理的で、透明で、誰もが直感的に理解できる──はずだった。


(くーっ、我ながら天才すぎる!

最強の魔法使いにして、最強の算術魔法使いだよ、わたし

転生してきた甲斐かい、あったってもんだよ!)


アーデルの内心は歓喜で満ちていた。

だがその高揚は、次の瞬間、氷のような現実にたたとされる。


「だったら、はずれが多いうちに選ばせろよ」

「最後は選べないんだから、損ってことだろ?」

「くじを引く順番を決めるくじも必要だな」


反応は、早かった。

そして、予想を裏切らず“斜め”だった。


アーデルの目の前で、村人たちは再び“順番”にこだわり始めた。

彼らにとって「公平」とは、ルールの合理性ではなく、「自分が損をしない」こととほぼ同義だった。


(……はぁ。くじの順番を決めるためのくじ? その順番をまた決めるくじ? それ、くじの無限連鎖だよ……)


彼女は心の中で崩れ落ちる。

苦笑さえ浮かぶ前に、冷たい現実が容赦なく押し寄せてきた。


(この村、ジャンケンあるのかな……? 

あれも本当は公平なはずだけど、たぶん“勝ち方を知ってるやつが強い”って言われるんだろうな……)


アーデルは、ゆっくりと目を伏せた。

熱の余韻だけが、体の奥にまだ残っている。

だが、その熱が届く先には、誰もいなかった。


「……言葉は、届かないんだね……」


そうつぶやく声は、かすかに震えていた。


「数字も、理屈も、気持ちも──全部、届かない……」


その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

ただ、自分の中で、何かをみしめるように、アーデルは静かに呟いた。


彼女の中で、確かなものはあった。

だが、それが“人を動かす”ということとは、別の話だった。



認知バイアス――

現代人ですら、この宿痾しゅくあから逃れることは難しい。


信じたいものだけを拾い上げ、反証を拒む。

理屈より、心が先に判断を下す。


古来より、こうして判断が速かった者だけが、生き残ってきた。

それは、数十万年かけて遺伝子に刻まれた「生存戦略」にほかならなかった。


鉄器すら貴重なこの時代。

電気もなければ、自然権も、義務教育もないこの世界。

それでも──

本能的な「生存戦略」では損をするほど、この世界は、すでに未来に進みすぎていた。



「……家に帰る。終わったら呼んで」


そう呟く声は、もはや蚊の鳴くようだった。

議論を重ねるごとに募る疲弊が、鉛のように彼女の全身にのしかかる。

返事を待たず、アーデルはきびすを返し、その場を去った。


背中では、レオンの困惑した声と、再び沸き起こる村人たちの不平不満の騒ぎが、遠い潮騒しおさいのように響いていた。

彼らの声の一つ一つが、何を言っても理解してもらえないという、底なしの焦燥感となって、彼女の心を深く、深く支配する。


知っている知識が、正しいと信じる理屈が、なぜ、これほどまでに通じないのか。

理不尽な壁に頭を打ち付けているような、途方もない孤独感が、アーデルの全身を包み込んでいた。


アーデルは知らなかった──群集とは、理屈だけでは動かない生き物であることを。

正しさなど、感情の熱でいとも簡単に溶けてしまうことを。


そして彼女はすぐに知ることになる。

群衆が、感情で動く生き物であることを。


*


火床の上で、昨日の残りのスープがくつくつと音を立てていた。

灰にうずめた火は、小さな命のように脈打っている。


「あら、もうくじは決まったの?」

ミーナは帰ってきたアーデルに話しかけたが、不貞腐ふてくされた顔のまま、アーデルはベッドに腰を下ろした。

湿った薪の匂いに包まれながら、木椀もくわんを抱えて長く息をつく。


「もう最悪。みんな、くじを疑ってやってくれないの。『最初がいい』『最後にしろ』ばっかり。数字では公平なんだよ? なのに全然信じてくれない」


その声には怒りよりも、困惑の色が濃かった。

理屈は通っている。けれど、人が動かない。

自分が精一杯補強したはずの制度が、信頼されなかったという現実に、アーデルはわずかに肩を落とした。


ミーナは鍋をかき混ぜながら、ふと目線を落とす。

湯気の向こうで沈思するその顔には、信仰に生きる者のためらいが滲んでいた。


「そうね……アーデルが先に魔法を使ってみせたら、信じてくれるかもしれないわよ? 

恩寵おんちょうを見せてから信じてもらうっていうのも……ありじゃない?」


それは、本来の教義では危うい思想だった。

「信じれば、神の恩寵が与えられる」。

その順序を逆にすれば、信仰ではなく取引になってしまう。

だがミーナは知らない。助祭が月に一度巡回するだけの村で、彼女はただ祈り続けていた。

──それは、祈りというよりも、胸の奥に沈んだ何かへの弔いのようでもあった。

何かを──誰かを──救えなかったこと。その記憶だけが、彼女の祈りを支えていた。

その重さを背負いながら、神にすがることだけが、ミーナの道だった。


アーデルは首をかしげた。


「え、それって、くじを引く前に……ってこと?」


(……つまり、駄々をこねる子に、先にあめをあげるってこと? 

約束守らせるために先に破る前例作ったら、余計に“飴待ち”が増えるだけだよ……

みんな甘いの大好きになっちゃう)


アーデルの前世──常に母の監視のもと、甘味を厳しく制限されて育った。

それが過剰であったことは理解していたし、自由を求める思いもあった。

だが「人は自由であるべきだ」という意志と、「人は制限されるべきだ」という母の教えが、彼女の中で矛盾しながら共存していた。

いま彼女は、その矛盾を抱えたまま原則論にしがみつき、思考を硬直させている。

自分が何に縛られているのか、それすらまだ気づけていなかった。


ミーナは少しだけ、首を傾けた。

かすかに湯気を揺らしながら、彼女は静かに言葉を継いだ。


「……わたし、教えに詳しいわけじゃないの。いつも誰かに聞くだけ」


自嘲するでもなく、ただ事実を口にするような調子だった。

だが、その声には、確かな実感がこもっていた。


「でも、ね。信じるって、何もないところで目をつむることでしょう? それって、すごく怖いのよ」


ふっと、火のはぜる音が聞こえた。

その瞬間だけ、部屋の空気が少しだけ重たくなる。


「だったら、手を伸ばしてくれる人がいたら、目をつむれる気がするの」


ミーナの目は、湯気の向こうにいるアーデルをまっすぐ見つめていた。

そのまなざしに、押しつけがましさはなかった。

ただ、静かであたたかい、真心の輪郭だけがそこにあった。


「アーデルが、最初のその手になってあげたら……って、思ったの」


言葉はそこまでだった。

だが、その余韻は、簡単には消えなかった。


(なんてこと……人ってこんなに優しくなれるの。

こんな死と隣り合わせの世界で……信仰の力なの? それとも、おかあさん自身の優しさ?)


彼女の言葉は、アーデルの胸にすとんと落ちてきた。

これまで、前世の合理性や母親の教えに縛られ、「正しいこと」と「そうあるべきこと」ばかりを考えていた自分に気づかされた。

ミーナの言葉は、理屈ではない、人の心の奥底にある不安と、それに寄り添う優しさを教えてくれた。


(……たしかに、信じるって怖いことだ。

私がやろうとしてるのは、みんなに恐怖を強いることだったの?)


アーデルは、自分がどれほど冷徹に、そして傲慢ごうまんに物事を進めようとしていたのかを理解した。

数字の公平性だけを振りかざし、村人たちの感情や不安に全く寄り添っていなかった。彼らが不信感を抱くのは当然だったのだ。


「……そっか。信じるって、怖いの、か」


アーデルは小さく呟いた。ミーナの言葉が、凝り固まった思考の殻を破り、新しい視点を与えてくれた。


「甘さじゃなくて、優しさか……。確かにそうだね……」


アーデルの脳裏に、母の厳しい監視の目がよぎった。甘味を制限され、常に規律を重んじるよう教え込まれた日々。

それは、彼女にとって「甘さ」を排除し、「正しさ」を追求することと同義だった。

しかし、ミーナの言葉は、その「甘さ」と「優しさ」の間に明確な境界線を引いた。


母様かあさまが排除したのは「甘さ」だった。それは、時に人を堕落させるものだから。

でも、ミーナが教えてくれたのは「優しさ」……。人が不安な時に手を差し伸べる、寄り添う心。それは「甘さ」とは違う)


アーデルは、自身の内側で長らく混同していた二つの概念が、分離されようとするのを感じた。

その瞬間、彼女の思考のモヤは晴れ、視界がひらけた。


(そっか、先に優しさか。確かにその通りだよ。けど、魔法じゃないんだから無限に使えるわけじゃないし……。いや魔法だけど、ハラヘリ魔法なんだよ)


アーデルは先の騒動を思い返した。くじの順番ひとつで、村全体がざわつく。 それは、秩序のない不安が、人々を声高にさせていた。


(誰かの畑を適当に選んで耕したら、また狂乱のうたげが始まるだろうな。みんな、すぐに疑うし。貢献麦が……あれ?)



「そう言えばさ。貢献麦って、夕方に配るんだよね」


アーデルはふと、思い出したように口を開いた。

湯気の向こうに浮かぶミーナの背中に、問いかけるように言葉を投げる。


「なんで、ご褒美が“後”なの?」


それは他意のない質問のように聞こえたが、彼女の中ではすでに、制度全体への違和感が小さく渦を巻きはじめていた。


ミーナは、鍋をかき混ぜながら振り返ることなく答えた。


「労働奉仕が終わるのが夕方だからじゃないの?」


言葉の調子は柔らかかったが、その理由には、とくに深い意味があるわけではなかった。

ただ、皆がそうしているから──それだけのこと。


アーデルは一瞬、黙り込んだ。

目を細める。

なにか、引っかかる。


「……そうか。でも、この制度……最初の一歩から、つまずいてない?」


声に出したとたん、疑念が確信に変わった。

目の奥がえ、指先に熱が戻る。


今日きょうの朝は、どの畑を魔法耕起するんだろ」


翌日の魔法耕起権を夕方に決めるのだから、既に今、最初の耕起対象が決まっていなければならない。

だが、それがなかった。

誰も、対象を決めていない──その事実に、アーデルはようやく気づいた。


彼女は木椀を机に置いた。

こつんと、木が鳴った。

立ち上がると同時に、湯気の中にスープの香りだけが取り残された。


「先に食べてて。昨日からずっとお腹いっぱいなの。気にしないで」


振り返らずにそう言うと、アーデルはそのまま玄関に向かって歩き出した。

頭の中は、すでに外の共用倉に向かっていた。

レオンの顔。くじの列。村人たちの視線。どれもが脳裏に重なりながら、彼女の歩みをせき立てる。


けれど、家を出るその直前、ふと足を止めた。


扉の前で、肩越しにミーナの方を振り返る。

その横顔は、朝の光に少しだけ照らされていた。


「お母さん、ありがとう」


その言葉は、不意にこぼれ落ちたものだった。

理屈ではなく、計算でもなく、ただ感謝だけが残っていた。

それは、彼女自身が「優しさ」というものをようやく言葉にできた瞬間でもあった。


そして──アーデルは扉を開けた。

冷たい朝の空気が、頬をでるように流れ込んでくる。


その空気を胸いっぱいに吸い込みながら、彼女は歩き出す。


頭の中では、ミーナの言葉と、未整理の問題たちがいまだ渦を巻いていた。

制度の綻び、信頼の欠落、人心の複雑さ。

何をどうすれば、解けるのか──それは、まだはっきりとはわからない。


足取りは決して軽くはなかった。

けれど、それでも彼女は、確かに前へと進んでいた。


ただし、それが「優しさ」なのか、「甘さ」なのか。

その違いは、まだ──わからなかった。


*


共用倉の前では、依然としてくじの順番をめぐる言い争いが続いていた。

言葉がぶつかり合い、空気は濁り、まるで何かがはじける寸前の水面のように張り詰めていた。


「いいから早くくじ引かせろよ。時間の無駄だ」

「その通りだ。俺が引く」

「レオン、くじじゃなくて精霊様に聞いてもらえよ。マティアスを呼んでくれ!」


誰かがそう言った瞬間、板戸がぎしりと音を立てた。

倉の前で押し合いになるたびに、厚い木の戸がきしみ、かすかに揺れた。

そのたびに罵声が飛び、怒鳴り声が重なり合う。


レオンはろう板を抱えたまま、混乱の中心にいた。

彼の表情には苛立いらだちよりも、むしろ疲労の色が濃かった。

制度は整ったはずだった。公平に、効率的に──

だが、蓋を開ければ、群衆は制度ではなく、疑念と焦燥に突き動かされていた。


そのとき──


「待って!」


澄んだ声が広場に響いた。

アーデルが両手を高く掲げると、その姿が朝の光の中に浮かび上がった。

一瞬だけ、騒ぎがむ。空気が凍ったように、ぴたりと静まりかえった。


「みんなー、いい方法思いついたから、ちょっとだけ待ってて。……もしかして、すごいこと起きるかも」


その言葉に、ざわめきが変質した。

怒りでも要求でもなく、「提案」だった。

唐突さにもかかわらず、アーデルの声には、たえな確信と勢いがあった。

広場にいた者たちは、ほんのわずかに眉をひそめながらも、自然とその声に耳を傾けていた。


「ちょっと、レオンいい? 打ち合わせ」


アーデルは軽く肩をすくめて見せ、肩越しに笑みを向けた。


「ゴメンねみんな、すぐ終わるから……ほんの少しだけ、待ってて」


その場を和ませるような口調だったが、目は真剣だった。

彼女はその隙を逃さず、レオンの袖をそっと引いた。

ためらいなく彼を引き寄せると、共用倉の裏へと歩き出した。


裏手に回りこむと、喧騒けんそうが木の壁一枚越しに遠ざかり、代わりに小さな風の音が耳に入ってくる。

アーデルは念のため周囲に視線を走らせ、誰の目もないことを確かめると、声を落として言った。


「ねえ……今日は、どこの畑を耕すつもりだったの?」


何気ない一言のようでいて、その実、制度の根幹にかかわる問いだった。


レオンは答えず、しばらく黙っていた。

耳の奥ではまだ村人たちの声がくぐもって聞こえてくる。

だが、彼はそれを切り離すように目をらし、そして──目を泳がせた。


ようやく小さく口を開き、地面に視線を落とす。


「……やっちまった」


その声は、苦さを含んでいた。

言い訳の余地はなかった。

続けざまに、レオンは額に手を当て、天を仰ぐ。


「くじと貢献麦のことだけで、他が完全に抜けてた」


声に悔いと自己嫌悪がにじむ。

静かに、ぽつりと吐き出すように続けた。


「昨日、あれだけ会議してたのに……“最初の畑”の話、誰もしてなかったなんて……。はあ……参ったな……」


その姿は、肩書きも制度も関係ない、ただの一人ひとりの人間だった。

人々の不満を受け止めようとしながらも、その波にまれかけていた男。

群衆の中で迷子まいごになりそうだったレオンは、今ようやく、現実の足元に目を落としはじめていた。


その沈黙の隙間に、アーデルの声がそっと差し込まれた。


「じゃあ、どこでもいいから、レオンが決めてよ」


言葉だけ見れば軽い投げかけだった。

けれどその奥には、「もう誰かが決めなきゃいけない」という焦りと諦念が滲んでいた。


レオンは顔をしかめ、吐き捨てるように返す。


「この状態で? そんなことできるわけないだろ。公平じゃないって、確実に騒がれる」


小さく舌打ちしたあと、彼は空を見上げた。

雲の切れ間もなく、空は一面の鉛色だった。

その重たさが、今の村の空気そのものに思えた。


深く息を吸い、言葉を探すようにぽつりとこぼす。


「……もう、みんな“得したい”のか、“損したくない”のか、それすら曖昧になってる。考えてるのは、自分が外れたときに“怒れる理由”を用意しておくこと。それだけだよ」


語尾には、皮肉というより、深い疲れがにじんでいた。

公平を求める声が、実は“不満を表明する免罪符”を求めていた──そんな本音を、彼は見透かしていた。


そのまましばらく口を閉ざし、肩を落としたまま地面を見つめていた。

やがて、思い出したように呟く。


「……村長むらおさに選んでもらうって案も考えたけど──無理だよ。貢献麦の配分ですら、あの人は引き受けたがらなかった。畑の優先順位なんて決めさせたら……たぶん、晩まで揉める。どっちが得だ損だで、誰かが拗ねる」


レオンの言葉には、制度ではなく“人”に対する深い諦めがあった。

公平とは、決め方の問題ではなく、納得の問題。

そして人は──納得したくないときには、どんな理屈にも背を向ける。


アーデルは、そんな彼の横顔を静かに見つめながら、ふと考えを口にした。


「ならさ、このくじで決めさせたらどう?」


その言葉に、レオンが眉をひそめる。

だが、アーデルの声は真剣だった。


「『くじを信じて使う』って、ちゃんと口にした人だけに引いてもらうの。

“信じる”のが、先でしょ?」


それは命令ではなかった。

かといって、理屈だけでもなかった。

揺らぎながら、それでも自分の足で立とうとする者の提案だった。


「……くじで、何を決めるって?」


レオンの問いかけに、アーデルは一歩、地面を踏みしめた。

その動きには、言葉以上の確信が込められていた。


「魔法耕起権──“最初の畑”を決めるんだよ」


言いながら、彼女は視線を倉の中に向けた。

記憶のなかにある、昨日の試し用のくじ。そこにはまだ短い棒が数本、残っているはずだった。


「それをそのまま使えばいい。全員で引いて、いちばん短いくじを引いた人の畑を、私が耕す」


それは、一見すると小さな提案だった。

けれどその実、制度全体に風穴を開ける“きっかけ”になりうる──そう、アーデルは感じていた。


風が少し吹き、共用倉の裏に乾いた草の音が広がった。


レオンは足を止め、数秒、アーデルの顔をまっすぐ見た。

算術と理性で人々を説き伏せてきたアーデルが、あっさり譲歩案を出すとは。

彼はその変化に驚愕した。いったい何が彼女を変えたのだろう。短時間での変貌は、レオンに率直な驚きを与えた。


だが――アーデルは、本質的に変わったわけではなかった。

アーデルは、譲歩したのではなく、譲歩ができたのだ。

くじ制度も、供出も、そして耕起順も──その全てが未だ完全に整いきっていなかった。

完成されたルールは、一度確立されれば、誰も容易には動かせない。しかし、この日、この朝、その設計はまだ途上にあった。

アーデルが柔軟な対応を見せられたのは、彼女自身の内なる優しさだけではない。

ルールの未整備という偶然が、彼女に融通を利かせる余地を与えたに過ぎなかった。

もし耕起の順番がすでに決まっていたなら、契約は一方的な強制に、供出は命令に変わっていたかもしれない。

甘さと優しさの境界線は、彼女の意思ではなく、未完成な構造が生み出した隙間によって定められたのだ。


アーデルはまだ気づいていなかった。

今日のこの柔軟な対応が、未整備という偶然の産物に支えられていたことを。

この制度が完全に整ったとき――何かを崩す術を、彼女は持ち続けていられるだろうか。

彼女が崩さねばならなくなった時、村人は譲歩できるのだろうか。


「……なるほど。先に“報酬”を見せるんだな」


レオンが呟いた声には、戸惑いを越えた納得の響きがあった。

考えが線となってつながり、霧が晴れたような感覚が、彼の表情に生気を取り戻していく。


「体験してもらえば、あとは慣れか……うん。いい。すごくいいぞ、これ」


それまで沈んでいた声に、わずかな熱が戻っていた。

レオンは片手で蝋板を握り直すと、前かがみになって勢いよく立ち上がる。

思考が行動に変わる、その瞬間だった。


「よし、これで行こう。あとは俺がやる。まかせてくれ!」


そう言って、今にも走り出そうとしたその背に──

アーデルがふいに声をかけた。


「ちょっと待って」


その声音には、興奮に流されない冷静さがあった。

レオンの勢いを責めるでも止めるでもなく、ただ“確認”のために、立ち止まることを求める声だった。


「その前に、順番をはっきりさせようよ。……“どっちが先”かで、印象はぜんぜん変わるから」


アーデルの視線は、抜け目なく段取りを追っていた。

焦りはなかった。彼女にとって制度とは“感情を巻き込む技術”でもある。


「畑権? それとも、供出食料?」


レオンは足を止め、振り返った。

一瞬だけ思案の色を浮かべて──それから、わずかに苦笑を漏らした。


「……うーん、そうきたか」


肩をすくめながらも、明らかにその提案の意図を理解していた。

そして、口元に皮肉混じりの笑みを浮かべる。


「じゃあ、“嫌なことは先に”だな。つまり、供出からだ」


アーデルは軽く頷いた。

思惑が一致したことへの安堵と、自分の判断が共有されたことへの静かな満足が、その所作ににじんでいた。


「なるほど。先に供出くじを引かないと、次の畑権のくじは引けない。約束、供出くじ、そして畑権くじ……それで決まりだね」


レオンは腕を組み、しばらく考えるように空を仰いだ。

そして、ゆっくりとうなずき、口角を上げる。


「それに、畑のくじは今日だけの特例だ。明日からは“努力で手に入れる”ものになる。──畑権を“買う”」


その言葉に込められたのは、制度への希望だった。

一度“試す”。その成功体験があれば、人は変わる。

それが本当の運用へつながる。そう信じられるだけの根拠が、ようやく見えてきた。


「つまりこれは、制度の“お試し”なんだ」


レオンの瞳には、かつて軍にいた頃のような、命令ではなく意思で動く者の光が戻っていた。

立ち止まり、悩み、迷っていた彼が──いま、再び歩き出そうとしていた。


「最初は嫌々でもいい。流れに乗ってしまえば、きっと慣れる」


レオンの声には、状況を見極めた者特有の静かな熱が宿っていた。

制度の初動はいつも重たい。だが、人は慣れる――その確信が、彼を少しだけ前向きにしていた。


「だから、供出を先にして正解だ。これは……うまくいくかもしれないな」


その言葉には、希望というよりも、“やれる根拠”が宿っていた。

完璧ではなくても、少なくとも進めるための論理が、そこにはあった。


アーデルは黙って頷いた。

彼の言う通りだと思った。くじそのものを信じさせるのではなく、まず“体験”を積ませること。

それが今日の本当の目的なのだと、自分でも改めて理解した。


「……つまり、今日のくじは“練習”ってことだね。踏み出して慣れてもらう、そのためのくじ。……うん、たぶんそれだね。それで行こう」


それはもう、説得でも報告でもなかった。

制度を預かる者としての、自分自身への言い聞かせだった。


レオンは深く頷き、ようやく気持ちの整理がついたように、倉の表へと足を向けた。

だが、数歩進んだところで、ふと何かを思い出したように足を止める。


「そうだアーデル。腹減ってるかもしれないけど、悪いが、くじで当たった畑、すぐに耕してやってくれないか」


背中越しに振り返った彼の声は、少し申し訳なさそうで、けれど現実的だった。


アーデルはけろりとした表情で首を傾げた。


「昨日、無理して食べたから全然お腹空いてないけど。……なんで?」


レオンは肩を軽くすくめて答える。


「アーデルが“約束を守ろうとしてる”って、村に見せるためだ。耕起が始まれば、感激してみんな仕事にすっ飛んでいくさ。初動が命だ」


言いながら、自分でもその言葉の確かさに頷いていた。

最初のひと掘りは、単なる作業ではない。それは“未来の現実”を示すためのデモンストレーションなのだ。


アーデルはニヤリと笑い、いたずらっぽく言った。


「……頭いいね、レオン。でもね、みんなの前でやると見物で手が止まるから、適当に追い払っておいて」


それは決して冗談ではなく、現場を見てきた者としてのリアルな懸念だった。

“感動”は容易に“見世物”へと転じる。

そうなれば、秩序の導入ではなく、ただの混乱になる。


「わかってる。最初だけ見せれば、十分だ」


レオンもまた、冷静に応じた。

見せすぎず、隠しすぎず。制度の導入に必要なのは、そういう“塩梅”だ。


彼はそのまま倉の表へと歩き出そうとした。

だが、その背に──またしてもアーデルの声がかかった。


「ちょっと待って……」


その呼び止めは、先ほどまでのような確認ではなかった。

もっと、感覚的で、けれど直感に従ったものだった。


アーデルの表情に浮かぶのは、何かを思い出しかけている人間の顔。

言葉に変わる前の思考が、まだ形にならないまま、彼女の中で渦を巻いていた。

「ちょっと待って……」


アーデルの声は、空気を切るように鋭かったが、不穏ではなかった。

ただ、何かが心に触れたときの、あの独特の震え――

彼女はその正体を確かめるように、ゆっくり思考に沈んでいった。


(……待って。あの時……狂乱の宴を止める時。放水で偶然、虹ができて……)


思い出す。あの朝の光の中で、誰もが言葉を失い、そして……祈った。


(メチャクチャ驚いて、みんな、祈ってた)


アーデルは、自分の中にあった“当たり前”が崩れていくのを感じた。

魔法耕起なんて、ただのトラクターの代わり。そう思っていた。

だが──


(もしかして……私が思ってる以上に、“魔法”って……感動を与えるものなの?)


それは、異世界に転生してから初めて抱く“異邦人ではない”視点だった。

魔法が日常になるほどに忘れていた、「初めて見た誰か」の目。


そうして、アーデルの中で一つの提案が形になった。

これは制度の話ではない。

もっと原始的で、しかし確実に人を動かす“順番”の問題だ。


「まず……先に魔法耕起権のくじをする。すぐに耕す」


彼女の声は穏やかだったが、その言葉には明確な意図があった。


「それを見せながら供出くじをやる。……これって、どう思う?」


レオンは眉をわずかに上げた。

その意図を即座に理解したわけではなかった。けれど、彼女の真剣な目を見て、耳を傾ける。


「つまり、約束、畑権くじ、魔法耕起、供出くじ。……この順番になるかな」


少しの沈黙ののち、レオンはふむ、と顎に手をやりながら言った。


「……つまり、魔法耕起の演出をして、“ほらすごいだろ。アーデルを応援してみんなで支えよう”って気持ちになって、供出くじをしてもらうのか」


アーデルは顔をしかめ、わずかに声を荒らげた。


「な、なんか微妙な言い方だけど、それかな」


語気は強くないが、言葉の芯は強かった。


「少しでも気持ちよく供出してもらえたら、それでもっと頑張れるんじゃない? これはただ、くじの順番を工夫してるだけだよ」


語気は強くないが、言葉の芯は強かった。

くじ制度は、心を動かさなければ動かない。

そのために、“理屈ではない動機”が必要なのだと、彼女はようやく気づいていた。


レオンはしばらく目を細めていたが、やがて笑みを浮かべた。


「確かに……俺も、お前が一晩で耕した畑を見て、神の”奇跡”かと思ったよ。おっと、アンドレには内緒な」


村の中では、すっかり禁忌の言葉として定着していた。


「お前があまりに平然と使うから、恩寵なんだか日常なんだか、正直混乱してる」


それは照れ隠しにも似た賛辞だった。

だが、彼の言葉には本気も含まれていた。


魔法の光景は──特別なのだ。

それを、制度の“演出”に組み込むのは、合理でもあり、希望でもある。


「そうだな……行けるんじゃないか? それで行こう」


レオンの瞳には、はっきりとした明るさが戻っていた。

迷いの中で立ち止まっていた男と、言葉の届かぬ世界に挑もうとしていた少女が、

今、同じ一点に立っていた。


こうして、レオンとアーデルはくじを引かせた。


*


最初の動きは鈍かった。

そもそもこの村で、「公平」を担保する道具として“くじ”が使われたことはない。

疑念と猜疑心。未知の道具を初めて触れるネコのようだった。


だが今日だけ、くじを疑わないという約束で、「魔法耕起権のくじ」が得られる──その情報が広がった瞬間、空気が変わった。

沈黙がざわめきに変わり、足が前へと動き出す。

「断る理由がない」。

誰かがそう呟いた時には、すでに列ができていた。


皆が次々と誓った。ある者は教会に。ある者は精霊に誓った。こうして、全員がくじを認めていった。


運命の魔法耕起権、くじの棒を全員が持ち、平らな石の上に立てる。一目してわかる長さだ。

当たったのは、村の端に住む中年男だった。

一瞬きょとんとしたが、すぐに両手を挙げて喜び、周囲から歓声が上がった。

皆が悔しさを押し殺しながら、それでも称賛を惜しまなかった。


耕起する畑が決まると同時に、アーデルはすぐ魔法耕起を開始した。

これは、供出くじを引かせるための“前座”ではない。

──“未来の全ての畑”を、先に見せる。それが目的だった。


(くぅー魔法使うとお腹空くなー。お腹いっぱいなのに骨ばってお腹空くってどういうこと? 干し肉くらいなら食べられそう。太っちゃうー。その前にこのホネホネ、なんとかしないとね)


これまで村人たちは、収奪されるばかりの重税と、その対価なき労役に疲弊していた。

だがいま、彼らの目の前で──

数十倍の速さで、硬い土が細かく、等間隔に、軽やかに掘り起こされていく。

畑に駆け寄って見る者、手を合わせる者、黙って見入る者など


その光景は“恩寵”のようだった。


ただ珍しいだけの魔法ではない。

日常に役立ち、飯の種になる。

木のクワの代わりに、天から降りてきたような道具──いや、それはもう労働の奇跡だった。


見ていた者たちは、一人また一人と供出くじの列に加わった。

先を争うようにくじを引き、「供出義務」は瞬時にして「供出権」へと姿を変えた。


不思議な光景だった。

当たりくじに歓声が上がり、外れた者が肩を落とす。

──共用倉の前で揉めていた時は、「供出食料」は忌避すべき犠牲だった。

皮肉にも、それは寄人会議が議論を先送りし、“畑の順番”を決め損ねたことで生まれた隙間だった。

偶然とも、必然ともいえるその亀裂に、アーデルは魔法という“楔”を打ち込んだ。

そして今、くじ制度は──

“設計された制度”ではなく、“感情で納得された現実”として、初めて動き出していた。



アーデルが二枚目の畑を耕している間、レオンは広場の隅で静かに段取りを整えていた。

供出権を得た三人は、それぞれ家に戻り、ほどなくして食料を持ってきた。運び手は家族や隣人だった。誰もがどこか誇らしげだった。


チーズ。干し肉。ジャガイモ。そしてパン。


(やったー。パンだ!)


アーデルは、耕しながら目だけを動かし、届けられた籠を一瞥した。


(昨日のチーズと干し肉だけより、だいぶいい……パン無しじゃ、くどくて食べきれなかったもん)


パンが加わったのは、昨日の「残すほど満腹になるが、胃が重くなる」というアーデル自身の感想を踏まえて、レオンが気を利かせた結果だった。


「見物やお祈りは、ほどほどにして。私は魔法、みんなは仕事。分担しよ」


アーデルがそう言うと、畑の周りにたまっていた人々はそれぞれ仕事に戻り、畑に静けさが戻っていた。


(……よかった。このまま“見世物”になったら、労力の無駄遣いだよ)


ほっと息をついたアーデルは、干し肉を一口かじった。

その噛み応えとともに、さきほどレオンと交わした会話が脳裏に浮かぶ。


ジャガイモ。

レオンの話では、それを持っている農家は少ないらしい。

時季も外れてきているし、まだこの作物は村に十分広まっていない。

栽培法も手探り。切って干して芽出しして、試行錯誤の連続だという。


意外だったのは、それを導入したのが修道院だということだった。


種を配り、育て方を教え、芽の出し方を工夫し……

まるで小さな農業試験場のように、実験と教育を同時にやっていたという。

搾取者の象徴だと思っていた修道院に、そんな面があったとは。


アーデルの中で、揺らぎが生まれた。


「権力、支配、搾取、か。でも、やることはやってるのか」


次の瞬間、舌に渋みが残った。

それは肉のせいか、思考のせいか。


「……結局、育てさせて、年貢で回収する。カツカツまで取るじゃん。私欲、丸見えだよ」


口に出してみると、その言葉は思ったより軽かった。

怒りというより、愚痴に近い。


雨の畑では、神を殴りたいと本気で考えていた。

けれど今は──どこか他人事のように、尻を叩いてやりたいと思うだけだった。


アーデルはふと、ミーナの祈る姿を思い出した。

彼女は教義に詳しいわけではない。

それでも、あの祈りはまっすぐで、子どものように、そして……どこか強かった。

あれは教会の教えに従っていたのだろうか。

それとも──人を信じる力の現れだったのだろうか。


彼女の中で、知識と現実がずれる音がした。

教会の腐敗、火あぶり、宗教戦争……

前世の曖昧な記憶で感じていた“中世”が、ここではまるで違う顔をしていた。


この村には複数の権力がある。

領主、修道院、教会、城塞都市トゥレミス。

年貢と労役を取り立てる勢力たちが、寄り集まり、重なり合って存在している。

だが彼らは一枚岩ではなく、たがいに重なり、時にずれていた。


アーデルはそれを、肌で理解し始めていた。


遠く、畑の端で誰かが祈っている。

精霊か、教会か。それすら区別がつかない。

けれど確かに、何かを願うその姿は、信じることの原点のようにも見えた。


アンドレ。

“試みる者”と疑い、見張ると言った彼は、今の自分をどう見ているのだろう。

教会遠征軍で異端と戦ったレオンは──

今もアラビア数字の練習を続けているのだろうか。


マティアス。

あの老祈祷師は、教会の目を逃れながら、いつまで精霊信仰を守れるのだろう。


アーデルの魔法は、そんな問いかけにも答えず、ただ静かに動き続けていた。

手のひらをかざすたび、地面が割れ、耕されていく。

音も煙もない。ただ土が整えられていくだけの、淡々とした作業。


「……あーあ、干し肉かじりながら畑を耕すなんて、前世じゃ絶対あり得なかったよ。行儀悪いし、見られたくないし……。いや、もう慣れてきたのが一番怖いかも」


だが、そう言いつつ、手は止まらない。

畑は耕され、地はめくられ、未来の食糧が生まれる下地ができていく。


彼女はふと、空を見上げた。


鉛色だった雲のすき間から、かすかに光が差していた。

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