第5話 魔法のパン

ある晩のことだった。

日がすっかり落ち、村の屋根々々が月影の中に沈み込んでいる頃。

村長むらおさは納屋の脇に腰を下ろし、顔を上げて夜空を仰いだ。

雲ひとつない澄んだ空に、まるく輝く月が浮かんでいた。

その光をじっと見つめながら、彼は誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。


「……そろそろ、助祭様が来る月になってきたな」


それは、村における“演技”の幕開けの合図だった。

翌朝。村寄所の前に村人が集まる中、村長が低い声で告げた。


「そろそろ“整え”にかかるとしよう」


それはただの一言。しかし、村の空気はぴたりと変わった。

村の精霊信仰は、誰に言われるでもなく隠され、教会の姿勢に合わせた「整え」が始まる。

従わなければ──

村の墓地に眠ることも、子どもたちに洗礼を受けさせることもできない。

救済の祈りは拒まれ、異端の嫌疑がかかれば、修道院も城塞都市の市場も、物流の網も断たれる。

さらに領主や修道院から農地や水利を剥奪されることすらある。


村の人々はもう知っていた。

教会の意向に従うことだけが、この地で生きていく唯一の術なのだと。


それはもはや信仰ではない。

生き延びるための、沈黙と服従の作法だった。

村人たちは、黙々と作業を始めた。


最初に動いたのは若い娘たちだった。彼女たちは礼拝小屋の土床に水を撒き、ほうきで丁寧に掃き始めた。

木の梁に引っかかっていた藁の束や干し花、小石に結ばれた赤い糸。そうした精霊への供物を、誰ともなくそっと外し、見えぬところに持ち去った。


祭壇代わりの台に敷かれた布も新しいものに替えられ、窓枠は麻布で拭き清められていく。

だが、そこにあった「祈り」は見えない形で、慎重に隠されていくのだった。


畑の四隅では、小さな子どもたちが石の下に置かれていた麦の穂をそっと拾い集めていた。

それが「風のもの」への挨拶であることは、誰もが知っている。けれど今日は、それを忘れるふりをする日だった。


アーデルは村の片隅で、その作業を手伝っていた。

いつもと同じ村人たちのはずなのに、なぜか誰もが無言で、神妙に、目を伏せている。


「ねえ、これって……何をしてるの?」


そばにいたヨハンが、小声で耳打ちした。


「精霊様の話は、助祭様の前ではダメなんだよ」


「どうして? 同じ神様なのに?」


「違うよ。精霊様は精霊様で、神様は神様なの。混ぜちゃいけないんだよ」


アーデルはきょとんとしながらも、何か“触れてはならない空気”があることだけは理解した。



村の”整え”の数日後の朝、街へ続く道の見張りをしていた少年が息を切らして走ってきた。


「助祭様が来たよ!」


村人たちはすぐさま麻の上衣を整え、礼拝小屋前に整列した。粗末だが清められた姿。

村長と年長の男たちは帽子を取り、深く頭を垂れて礼拝小屋の前に並んだ。


そして──朝日に照らされた小道の向こうから、一人の若者が歩いてきた。


助祭レオヴィヌス。歳は30代中頃

杖を持たず、ゆるやかな足取り。

修道服の袖口から覗く指先は細く、だが鍛えられていた。

深く被ったフードの影から現れた顔は微笑み、怒りも恐れもない。

旅の疲れさえもどこか静かに受け入れた者だけが持つ、澄んだ透明感があった。


(意外に若いんだ。なんかキリっとしてるけど優しそう。モテるんだろうなー)


礼拝小屋の前で足を止めると、穏やかな光が差し込むなか、彼は一礼して皆を見回した。

レオヴィヌスはアーデルと目が合い、少しだけ微笑んだ。


「はじめて見る子ですね。レオヴィヌス・デ・トゥレミスです。よろしくお願いします。

トゥレミス市、聖エルセリア参事会教会の助祭です」


その響きは、柔らかく、儀礼的で、少し誇らしげでもあった。


名乗りを聞いた瞬間、アーデルはふと、違和感を覚えた。

(「デ・トゥレミス」? 名字……だよね?)


思えばこの村では、誰も名字を名乗らない。

鍛冶屋のオット、羊飼いのペーター、薬草のマルタ。

みんな仕事か家か、あだ名のようなもので呼び合っているだけだった。

(……もしかして、そもそも“名字”がないの?)


アーデルの頭の中で、現代の「姓・名」の常識がぐらりと揺れた。


(でも、助祭様にはちゃんとある。しかも都市の名がついてるなんて……!)


彼女は思わず目を丸くして、元気よく応えた。


「は、はい。アーデルです。よろしくお願いします」


少し緊張しながら、続ける。


「この村に拾ってもらって、お父──ヴァルトさんとミーナさんの娘にしてもらいました。よろしくおねがいします」


そして――


「助祭様、姓が街の名前と同じなんて……!すごい。有名な方なんですね!」


(どや!こういう気付きこそ大事だよ!名字で名家かどうかわかったりするもんね)


その場に居合わせた村人たちが、ふっと口元を抑える。

誰かが喉の奥で小さく咳払いをし、別の誰かが急いで下を向いた。


レオヴィヌスは一瞬だけ瞬きをし、それから穏やかに微笑んだ。


「いえ、“トゥレミスに属するレオヴィヌス”という意味なのです。“デ”は、“~出身の”という印なんですよ」


アーデルは、顔から火が出る思いで俯いた。


「す、すみません……」


(うわ……やらかした!前世の名字感覚は通用しないんだ!名字があるから名家か何かと思ってた……)


レオヴィヌスはその様子を見て、何も言わずに、ほんの少しだけ笑った。

どこか、「理解した上で受け入れる者」の眼差しだった。

その笑みに、アーデルの肩から少しだけ力が抜けた。


──そして、空気が変わる。

祈祷の時が訪れたのだった。


タレン語の祈祷文がレオヴィヌスの口から唱えられた。


「ドミネ、ルーメン イン テネブリス…」


「セリーマ……」


村人たちは声を揃えて応えた。それが、この日の“始まり”だった。

セリーマの応答が静まり返った瞬間、レオヴィヌスは袋からドライフルーツをひとつ口に含んだ。


「見ろよ。魔法の秘薬”フルクタリウム”だぜ」

ヨハンがアーデルの横で囁いた。


(ドライフルーツだ。やっぱり、魔法使いは甘いものを食べるんだ!じゃあ、甘い物は権利じゃなくて義務なの? いいなー。仕事で甘い物食べたい)


レオヴィヌスはそのまま、礼拝小屋の戸口にある台へと歩み寄った。


小さな陶器の皿に、乾いた草の束と白い粉末が盛られている。

彼はその上に掌をかざし、目を伏せて静かに祈った。



天の主よ──

我らが誓いを受け入れたまえ

この地の塵に清めの火を落とし、秩序の重環の中に、名もなき者たちをも抱きたまえ。

かつて、旅する者に燃える枝を示したように、今、我らにも、ひとしずくの炎を──



火打石も火種もないのに、ふわり、と一筋の煙が立ち上った。

それは甘く、鋭く、どこか樹皮のような香りを含んでいた。


アーデルは目を瞬かせた。


「すごい……」


(交代で火の番するってことは、火付けは大変なんだよね。それが魔法でできるなんて……)


感激するアーデルの横で、ヨハンがニヤリと笑った。


「前に聞いたことあるんだ。『火が起きることを“赦す”』んだってよ。俺は石を赦してないから、やり方は色々さ」


(派手じゃないけど、やっぱり魔法ってあるんだ!

果物ひとつで“魔法”が使えるなんて……ヨハンは食べなくても使えたよね?

さっきの言葉が呪文? 祈りの言葉かと思ったけど、ヨハンは呪文を唱えずに使えた……

もしかして、何かの手順? 出しやすさとか……?)


煙はまっすぐ空へ伸び、村人たちは深く、静かに息を吸った。


「セリーマ……」


再び重なる声。それは先ほどよりも深く、澄んだ音だった。


その煙が消えた後、広場には奇妙な静寂が生まれた──まるで、**今ここにいること自体が赦された**かのように。


説教は短く穏やかだった。主の秩序、日々の労働、互いを助けること。耳慣れた言葉が繰り返される。

だが、儀礼が終わると、レオヴィヌスは村長とヴァルト夫妻を横に呼んだ。


「この少女について。名をアーデルと聞きましたが、神の秩序のうちにある子でしょうか」


ヴァルトが何かを言いかけたが、先に村長が応えた。


「お察しかと想いますが、この子は森に現れたバルバロイの子です。ですが村の皆と共に真面目に働くよい子です。すでにヴァルトの家で親子として暮らしております。村の子は皆、主の御前に立ちます。この子も然り」


レオヴィヌスはゆっくりと頷き、微笑みさえ浮かべた。


「わかりました。では、次の春の“成人洗礼”に加えましょう。司祭様には既に段取りを伝えてあります」


「ヨハン、“成人洗礼”って何?」


アーデルは小声でヨハンに聞いた。


「簡単に言や、“信徒になる”ってことだよ。春の儀式で、冬の赤ちゃんとまとめて祝福されるんだ」


(え、そういうものなの? まぁ、みんな信徒だし、この世界なら当たり前なのか。クリスマス楽しいしね)


「へぇ。そうなんだ」


アーデルは少し戸惑ったが、自然に受け止めた。


その後、レオヴィヌスは各家庭に入り、懺悔の聞き取りや助言を行った。

アーデルも呼ばれ、病や罪について問われたが、何も覚えていないと伝えると、ただ優しく祈ってくれただけだった。


彼女も、ここぞとばかりにわからないことを聞こうとした。

レオヴィヌスも「なんでも聞いていい」と言ったが、混乱したアーデルにそれは難しかった。

それでも、どうしても気になっていたことだけは──勇気を出して口にした。


「あの……教会と、修道院って、どう違うんですか?」


レオヴィヌスは少し驚いたように眉を上げ、それから穏やかに答えた。


「教会──つまり、教区教会とは、信徒の日々に寄り添う場所です。祈り、洗礼、結婚、葬送……人生の節目を神に捧げる場ですね。修道院は、神に仕える者たちが共に暮らし、祈りと労働をもって神意に応える場です」


アーデルはなるほど、とうなずいた。

だが、それだけでは納得がいかなかった。


少しだけ混乱しながら、彼女は思った。


(冠婚葬祭が教会で、実務が修道院……? パン釜も井戸も修道院の設備なら……じゃあ、年貢って“公共料金”? 国が仕事をしてない? 王様なにしてんの?)


彼女はその時、まだ“国家”という概念がこの世界では重層的で、分散していることを知らなかった。

この世界では“皇帝権”もまた、幾重もの制度の一角にすぎず、名においては最高でも、力においては最も遠い存在であることを。


レオヴィヌスの穏やかな説明にすっかり惚れ、アーデルは後ろをついていって近くで耳を傾けた。


最後に、レオヴィヌスは寄合所に向かい、村長立ち会いのもと、羊皮紙の束を開いた。

近月の埋葬について、淡々と確認が始まる。


「最近、亡くなられた方は?」


羊皮紙が擦れ、次の紙がめくられる。

場に沈黙が落ちる。


誰も答えようとしなかったが、アーデルがぽつりと声を漏らした。


「私の……」


「──この子の両親が……森で亡くなっておりましてな!」

村長が、声を張って言葉を被せた。

その眼には、微かな狼狽が走る。


村が公式に森に墓穴を掘り、弔ったという事実は、表に出すにはあまりに重い。


信徒でない者の埋葬は教会規範に反し、教会の墓穴を使えば使用料、儀式、納骨台帳費がかかる。

ましてや相手は“バルバロイ”。正式な洗礼の痕跡もない。


村長の中には、いくつもの思いが交錯していた。


アーデルの実の親を、せめて人として葬ってやりたい。

だが、それが村を危うくするなら──。


精霊に委ねて送れば、魂も報われるだろう。

それは祈りであり、打算であり、ある種の知恵でもあった。


村長は言葉に詰まったが、それでも苦心して続けた。


「──そのまま、土をかけておきました。あれは、いわゆる“埋葬”ではございません。旅の方が亡くなられたときなどに、野に晒されぬよう、風よけとして土をかけることがあります。儀式もなく、ただ……荒らされぬようにと」


静かに、慎重に、そしてどこか祈るように語った。

室内には、羊皮紙がめくられる音だけが響いた。


レオヴィヌスは、その説明を黙って聞いていた。

僅かに目を伏せ、羊皮紙から目を上げたとき、そこには静かな──どこか祈るような、受容の光が宿っていた。


「……そうですか。皆さん、よいことをされましたね」


それは咎めでも、許しでもない。

ただ、村という生き物を理解しようとする者の、静かな同意だった。


アーデルはまだ、何が起こったのか分からないまま、ただ、村長の声の震えと、誰もが目を合わせない沈黙だけが、妙に胸に残った。


レオヴィヌスは一瞬だけ沈黙し、やがてゆっくりと微笑んだ。


「……アーデルは“成人洗礼”が済めば、この土地で眠ることができましょう」


その言葉に、村人たちは深く息を吐いた。ほっとした表情が、少しずつ周囲に広がっていった。

アーデルはその様子を見ながら、まだよくわからないまま、頷いた。


彼は着任時からリヴィナ村の精霊信仰に気がついていた。

しかし心から村に向き合えば、彼らもいつかわかってくれると信じていた。


「……危ねぇとこだったんだぞ……」


ヨハンはアーデルに耳打ちした。


(え、ダメなの? だってバルバロイなんだから信徒じゃないでしょ? 関係ないんじゃないの? 誰か説明……しないで。怖い……)


レオヴィヌスは羊皮紙の束を閉じ、教会税の支払い状況を村長と確認し、穏やかに広場を後にした。

その背を見送りながら、村人たちはようやく、ふだんの声を取り戻していった。


アーデルはいまひとつ実感がわかないまま、村長や両親に謝罪した。

両親は笑って流し、村長からは「助祭様には聞かれたことだけ答えなさい」とたしなめられた。

村人は「まぁバルバロイはこんなもんだ。少しずつ慣れていくさ」と半ばあきらめ混じりに笑っていた。


レオヴィヌスが広場を去ったあと、村は少しずつ日常の顔を取り戻しはじめた。


アーデルは一人、礼拝小屋の裏手で立ち止まり、足元の枝を拾った。

細く乾いたそれに手をかざし、ゆっくりと問いかける。


「ほらー枝よ、許すから燃えていいよ」


声に出してみても、意味は曖昧なままだった。


(……火が点くことを、“許す”? どうやって許すの? 誰が? 何を?)


枝は燃えなかった。

ただ、風に揺れて、彼女の手のひらに影を落としただけだった。


(……自分が許可を出す? 火が、燃えたがっているから……それを許可するの?)


「燃えたいんでしょー。神が許可しまーす」

声に皮肉が混じっていた。自分でもわかるくらいだ。


アーデルは勘違いをしていた。

ヨハンが言ったのは「赦し」であり、アーデルが理解したのは「許し」だった。


「早く燃えなさーい。三、二、一、……はいダメでしたー、さようならー」


アーデルは、枝を見つめた。

肩がすとんと落ちていた。

風が吹くたびに、服のすき間から熱が逃げていくようだった。


「……お願い、ちょっとでいいから、こっちを向いてよ……」


声は細く、それでも怒りにも、嘆きにも変わろうとしていた。


「魔法って……私のこと、見捨ててるの……?」


その問いは、返事を期待してのものではなかった。

だけど、言わずにいられなかった。


魔法の謎は、さらに深まるばかりだった。




* パン


夕暮れ。

空は、いつのまにか鉛のように重く垂れこめていた。

アーデルが家に戻るころには、ぽつ、ぽつと水の音が地面に弾け、やがて雨は、厚く積もった茅の上に、柔らかく染み込むように降り続いていた。


外も中も、地面は同じ土だった。

雨に濡れた靴のまま、アーデルは踏み込む。家の中の空気は、外よりもわずかに温かく、火の匂いが漂っていた。

土の中央に置かれた煮炊き鍋から、白い湯気がまっすぐに立ち上っていた。


「おかえり。冷えただろう」


父の声は優しく、母は火床の火を見守りながら、木の皿を三つ、丁寧に並べていた。

アーデルは頷き、いつものようにその輪の中に腰を下ろす。

家の中は、ほんのりとした温もりに包まれていた。

外の雨音と、鍋のぐつぐつという音が、心の奥までじんわりと染み込んでくる。


母が木皿のひとつに、ちぎったパンを三切れ置いた。

けれど、父も母もそれに手を伸ばさず、ゆっくりスープをすするだけだった。


ミーナはふと手を止めると、作業中に肩に掛けていたくたびれた毛布きれを外し、黙ってアーデルの肩にかけた。

濡れていたのに気づいていたのだ。

言葉はなかったが、その指先には、火よりも温かなものがあった。


「パンはいらないから、アーデルが食べなさい」

そう囁くように言ってから、ミーナはまた火を見つめた。


「そうだな。今日は頑張ったろう」

父も言って、アーデルの頭をそっと撫でる。


濡れた体を拭く、まともなタオルなんてこの家にはない。

けれど──

ここには火があり、湯気があり、二人の手がある。

それだけで、十分だった。


外も中も、同じ土の地面でつながっている。

わずかな傾斜があるおかげで、かろうじて雨水だけは流れ込まない。

いつものパンは、今日も酸っぱくて、固かった。

けれど、アーデルは幸せ――


(……おかしい)


パンをちぎる手が、ふと止まった。

違和感。

はっきりとした形はない。ただ、心の奥に張りついた影のように、そこにあった。

今、それがぼんやりと輪郭を持ちはじめていた。


(なぜ、二人はいつもパンを譲るんだ?)


パン釜に集まった人たちは、皆、パンを楽しみにしていた。

村に滞在してみれば、食べ物の話といえば麦ばかり。ライ麦、オーツ麦、小麦。

家庭ごとのパン生地の工夫や、焼き加減の違い。

初めての日に森へ案内してくれたトーマの夢だって、「白いパンを食べること」だった。

パン釜の前では、前半分が“生地”の話で、後ろ半分が“焼き上がり”の話になる。

パンは、みんなにとっての楽しみだった。


(最近……二人がパンを食べてるところ、見てない。先に食べたとか、起きたばかりだからとか、今日はいいとか――理由をつけて)


ミーナは、アーデルの食べる手がふいに止まったことに気づいた。

木皿の端で、ちぎられたパンが冷めかけている。


「アーデル、どうしたの? いっぱい食べなさい」


その声は、いつものように優しかった。

だがそのやわらかさが、今はひどく痛かった。

アーデルの胸の奥を、冷たい何かがゆっくりと撫でていった。


(なぜ……?)


パンを噛むたび、嬉しかった。

与えられるたび、愛されていると思っていた。

けれど今、背中に冷たい雨粒が滑り落ちるように――

彼女は、あるひとつの嫌な考えにたどり着いた。


「どうした?」


ヴァルトも、木皿を手にしたまま、スープを飲むのをやめた。

まるで何かが壊れる音を感じ取ったかのように、娘を見つめた。


アーデルは堪えきれず、ぽろりと頬に一筋、涙をこぼした。

それは感情というよりも、理解の証だった。

子どものふりをしていれば届かなかった、真実に触れた証。


「私なんだね……」


小さな声だった。

しかしその震えは、鍋の湯気よりも真っすぐに、ふたりの胸に届いた。


「何がだ?」


ヴァルトが目を丸くした。

驚きというよりも、恐れていた瞬間が来た、という顔だった。


「私が来てから……二人はパンを食べるのを我慢してるんだね。私が来る前は、ちゃんと食べてたんだよね?」


アーデルの声は震えながらも、まっすぐだった。

痛みや罪悪感ではなく、「気づいたことを言わずにいられない」

そんな、真理のような口調だった。


ミーナははっと目を伏せた。

ヴァルトは、何も言えず、うつむいた。


「二人とも……私を引き取ったから、足りなくなったんだ……」


沈黙が訪れた。

それは言葉のかわりに心が満ちる時間だった。

火の音だけが、小さく、小さく、火床の奥でくぐもっていた。


ミーナは悲しそうに微笑んだ。

その微笑みにこめられていたのは、否定でも肯定でもなく、ただ「それでもよかった」と伝える、母の肯定だった。


ヴァルトは、何も言わずに頭を掻いた。

火は相変わらず弱く、けれど、ゆっくりと揺れていた。

その火が、今夜だけは、アーデルの心のように揺れ動いていた。


「こんなのおかしいよ。二人とも食べてよ……。そんなに痩せていたら、体が持たないじゃない……」


アーデルの声は、怒りとも悲しみともつかない揺れを孕んでいた。

その目に浮かぶ涙は、もはや子どものわがままではなかった。


ヴァルトは、バツの悪そうな顔をして小さく頷いた。

うつむいたその額に、いつからか刻まれていた深い皺が浮かぶ。

ただの農夫の顔が、その瞬間だけ、言葉を失った父親の顔になっていた。


「ひどいよ……なんで嘘つくの……」


その言葉は責めではなかった。

まるで、失われた“ほんとう”を探すように、空をさまよう問いだった。


「……」


ミーナもまた、すぐには言葉を返さなかった。

火がぱち、と音を立てた。

その揺らぎを、長く長く見つめてから、ようやく唇が開いた。


「ごめんなさい、アーデル……。でもね……これは“嘘”じゃないの」


声は静かだった。悲しみに満ちていたが、それ以上に、確信に満ちていた。


「私たちはね……あなたが元気でいてくれるだけで、神さまに感謝したくなるの。だからこのパンも、ただ“あげる”んじゃないの。あなたが生きてくれていることに、心からの祈りを込めて渡しているのよ」


その言葉は、理屈ではなかった。

ただの宗教でもなかった。

ミーナの中に灯る、誰にも見えない“贈与”の信仰だった。


アーデルは涙を拭いながら、ぽつりと呟いた。


「……嘘だよ。嘘ついて生かそうとしている……。そんなの全然嬉しくないよ……神さまより……私を欺かないでよ……」


その一言は、子どもが道徳を学ぶ過程の素朴な反論ではない。

“真実と共に生きたい”という、少女のまなざしの誓いだった。


「アーデル……俺たちは……」


ヴァルトが口を開いた。

しかし言葉はすぐには出てこない。

喉の奥で何かが詰まって、時間だけがゆっくりと流れた。


その沈黙の中にあったのは、言葉では言い尽くせない無数の“すれ違い”だった。

保とうとした幸福。

守ろうとした祈り。

奪いたくなかった沈黙。

そのすべてが、言葉にできない形で、胸の奥に渦巻いていた。


やがて、ぽつりと呟くように言った。


「……そうだな。明日、村長に頼んで、共有の麦を少し分けてもらおう。……そうして、家族でパンを食べよう」


それは一種の決意だった。

少しだけ制度にすがり、少しだけ助けを求めて、その代わりに――嘘をやめるという、小さな勇気の表明。


ヴァルトはそう言って、アーデルの肩を軽く叩いた。

力はなかったが、その手にはぬくもりがあった。


その言葉に、胸の奥が、ふっと温かくなる。

パンが“家族の食事”として戻ってくる──その想像だけで、少し救われたような気がした。


けれど、次の瞬間、アーデルの心に別の影が射した。

温かさのすぐ裏側に、冷たい輪郭が潜んでいた。


「……それができてたら、最初からそうしてたよね。なぜ今までしなかったの?」


静かに、重みをもって問うた。

それは責めではない。ただ、どうしてもわからなかったのだ。


火床だけが、ぱち、ぱち、と音を立ててくすぶっていた。

火は言葉を持たず、それでも何かを語っているようだった。


「……釘の値段が上がってたからな。買えなくなる前に、収穫した麦を釘に回した。高く売れはしたが、釘はもっと高かった」


ヴァルトの言葉は、言い訳でも説明でもなかった。

それは“現実”そのものだった。


アーデルはすぐに気づいた。

ヴァルトがこれからしようとしているのは、“パンを分けてもらう”ことではない。

借金をつくることなのだと。

そしてその“穴”は、家族の労働で埋めるしかない。


「村から麦を借りる。それを仕事で返せばいい。修道院の奉仕が増えたところだ。……他の奴らより、ちょっと頑張ればいいだけさ」


ヴァルトは気軽に言おうとしていた。

けれど、声には疲れが混じっていた。


「そうよ。薬草もいっぱい取れるから、心配しなくていいのよ」


ミーナも言った。

明るい声だった。

だが、明るさの中に、どこか諦めがあった。


「そうだな。もうすぐ都市で大市がある。薬草や家具は、きっと麦と交換できる」


それは希望ではなかった。

希望のように語るしかない“対価”の話だった。


アーデルは、うつむいたまま、ぽつりと声を落とす。


「……年貢が増えたの? どこから? なんで税がこんなに増えていくの……。みんな休まず頑張ってるのに。小さな子どもまで働いてるのに……」


その言葉には、怒りよりも、ただ“納得できない”という気持ちがあった。

世界が理不尽であるという事実が、心に降るように積もっていった。


ミーナは、そんなアーデルの頭を、そっと撫でた。

その手には、どんな言葉よりも優しい重みがあった。


「家だって、畑だって、もともとは神さまのものなの。それを、私たちが借りて使わせてもらってるだけ。借りたものは、返さなきゃならない。……それが、この世の決まり」


一拍、間が空いた。


「返せなければ……来世でも働くの。魂でね……」


静かに、淡々と語られた言葉だった。

でも、それは間違いなく、“本気”だった。


アーデルは黙った。

いや、黙るしかなかった。

ミーナの信仰は、やさしさそのものでありながら、同時にこの世界を縛っている鎖だった。


(……死んでも神さまは、借金取りに来るのか)


呆れたような、恐れたような、乾いた感情が胸を撫でた。

けれどアーデルは、声に出してその怒りをぶつけることはしなかった。


ミーナの優しさを、彼女はよく知っていた。

どれほど傷ついても、どれほど疲れても、ミーナは“与えること”をやめなかった。

その行為が、信仰と分かちがたく結びついていることも。


だからこそ、アーデルは知っていた。


──この怒りは、ミーナに向けるものではない。

──この理不尽は、ミーナが作ったものではない。


けれど、世界は、こういうふうにできていた。


彼女は、初めてそれを“理解するしかない”という重さと共に、この家の片隅で、土の地面に座っていた。


火はまだ、ぱち、と音を立てていた。

まるでそれが、すべての答えの代わりであるかのように。


「……私は馬鹿だ。お母さんが夜中まで糸を紡いでたこと……不思議に思ってなかった……なんで教えてくれないの……」


アーデルの声は震えていた。

それは悲しみというより、悔しさのにじんだ怒りだった。

何も知らなかった自分への怒り。

何も言わなかったふたりへの怒り。

そして、この優しい家にすら嘘があったことへの、どうしようもない痛み。


ミーナは、やさしく笑って応えた。


「私はね、アーデルがいてくれるだけで、力が湧いてくるの。好きでやってるから、いいのよ」


その言葉はたしかに本心だった。

けれどアーデルには、それが余計に苦しかった。

“好きでやってる”のなら、なぜ夜中まで? なぜ一人で? 


「今回は悪い時が重なったな。年貢に、街道整備、橋の修繕、修道院の修繕、奉仕の畑……これじゃあ、うちの畑の維持も難しい。とくに今年の要求はこれまで以上だ」


寡黙なヴァルトが、珍しくぽつりぽつりと語りつづけた。

言葉は少ないが、それだけに重かった。

よほど追い詰められているのだと、アーデルにもわかった。


(……畑仕事の前に、“奉仕の畑”? 忙しいときに、なんで権力者の畑を優先しなきゃいけないの? せめて、暇な時にやらせてよ……)


心の中で噴き出した声は、まだ幼さを残していた。

けれどそれは、制度の理不尽を初めて内側から穿つ“否”の感情だった。


「アーデル、心配するな。これは……頑張るチャンスなんだよ。他の奴らより頑張れば、村に貢献したことになる。そうすれば、村への借りは返せる」


ヴァルトの声は静かだったが、まるで“生き残る方法”を語るようだった。

この世界では、頑張るしかない。

それが美徳であり、条件であり、呪いでもあった。


アーデルの胸は、悔しさでいっぱいだった。


理解は、できる。

でも――納得は、できない。


「……疫病で三割も減ったんだよ。百人で百五十人分の仕事をしてるのに、それ以上の仕事なんて……できるわけないじゃん……お父さん……」


言葉の終わりが涙で濁る。

訴えではなく、ほとんど懇願だった。


だが、返ってくる言葉はなかった。

ヴァルトは黙ったまま。

ミーナも、ただ静かに見つめていた。


外では、雨が降っていた。

火床の火が、ぱち、ぱちとくぐもった音を立てていた。


家の中にあった温かさが、少しずつ薄れていくように思えた。


アーデルは、黙って立ち上がった。

食べかけのパンを、そっと木皿に戻す。

酸っぱくて、硬くて、いつもならそれが美味しかった。


でも今日は、味がしなかった。


壁際のフードを手に取る。

それを肩にかける手が、少し震えていた。


「……畑、見てくる。残りで悪いけど……二人で、このパン食べて」


その言葉には、願いと怒りと絶望と――

全部が少しずつ、混ざっていた。


本当は、二人が食べないことをアーデルは知っていた。

知っていて、言った。


言うしかなかった。

“今の自分”にできる、ただ一つの行動だった。


ミーナが、呼び止めようと口を開きかけた。

でも、声にならなかった。


ヴァルトもまた、何も言えなかった。

ただ、去っていくアーデルの背を、見送るだけだった。


火はまだ、赤く、静かに、揺れていた。

その炎が、心の奥で何かを焼いているように思えた。


*畑


外は、雨だった。


冷たく、強く、春とも夏ともつかぬ空気が、地を斜めに叩きつけていた。

空は鉛のように重く、雲は裂けるように垂れ下がっていた。

大地は飽和し、靴底を呑みこもうとしていた。


木靴がぬかるみに沈むたび、ぶわりと立ち上る匂い。

濡れた土、潰れた草、雨に打たれた生きものの体臭。

靴の中はすぐに泥水で満ち、裸足で歩いているような感覚になった。

寒さではない、奪われていく感覚――足元から、じわじわと。


村の外れ。誰のものとも知れぬ畑。

かつては耕されていたはずの、広い地面。


そこは、草と水に覆われ、すでに畑とは呼べぬものになっていた。

足元には、水を吸った草が絡みつき、すでに何本かの木が芽を出している。

人の手が離れれば、自然がすぐに奪い返す。

それが「所有」というものの、限界だった。


「領主の畑を……木のクワで耕すの……」


アーデルの声は、もう言葉というより空気の裂け目だった。

三圃制で一年間休まされた畑は、一年でこんなにも変わる。

放置されていたはずの地面にすら、人の命令が戻ってくる。


「その前に……修道院の畑を耕すの…………なんでだよ……」


雨粒が頬を打ち、髪を叩き、額を冷やす。

それでも、アーデルは顔を上げた。

天を見ていた。そこに誰もいないと知っていながら。


「魂も、税で縛られてるんだ……」


そう口にしたとき、世界が、ほんのわずかだが、違って見えた気がした。


彼女は、自分の手を見た。

泥にまみれ、水に濡れ、冷えきったその手。

労働する手。与えられたことのない手。

それが、自分のすべてだった。


「この世界に……自分の物はないの……」


声は風にかき消された。

だが、言葉は確かにそこにあった。


アーデルは、初めて、世界を呪った。

他人のせいではない。誰かひとりのせいでもない。

仕組みそのものに、根源的な怒りが芽生えた。


権力は、幾重にも折り重なっていた。

家族を包み、村を囲み、畑を囲み、魂までも、つなぎとめる。


「……みんな騙されてる。気づいてても、口にできない。誰もが……誰かの奴隷なんだ……」


その言葉を吐いたとき、アーデルは自分が何を意味しているのか、まだ完全には知らなかった。

けれど、その輪郭だけははっきりしていた。


“農奴”という言葉が浮かぶ。

かつて授業で聞いた、ただの単語。

あのときは、遠い世界の物語だった。


今、ようやくわかる。


この重層構造――領主、教会、都市、制度、帳簿、奉仕、信仰、祈り。

それらすべてが、自分たちの上に何重にも重なり、呼吸さえも押し潰すようにのしかかっている。


幾世代にもわたって搾取され続けてきた、名もなき人々。

そのなかに、自分もいた。

ヨハンも、イルゼも、ミーナも、ヴァルトもいた。


そして、誰もが口を閉ざしていた。


アーデルは、世界の理不尽を――憎んだ。


「なぜ自由に生きられないの……」


雨は、なおも降り続いていた。

地を叩き、足元を奪い、空を沈めていく。


「なんで、自由に……甘いもの、食べられないの……」


全てを聖職者や貴族が独占する世界を呪った。


けれどその呪いの奥で、

“いつか、誰にも怒られずに、甘いクレープを分け合える場所があったなら”

そんな願いが、ふと浮かんだ。


叶うとも思っていない。

けれど、それでも──あっていいと思った。


アーデルの瞳だけは、濁ることなく、まっすぐだった。

ゆっくりと、両の手を雨に向けてかざした。


「……天に在す我が全能の神よ……我が手に、畑を起こす力を授け給え……」


それは、声というより祈りの抜け殻だった。

風も、草も、空も、それを受け取る気配を見せなかった。


雨が、ふいに強くなる。

まるで、言葉そのものを押し戻すかのように。


アーデルは、泥に足をとられながら、雑草に覆われた畑へ両手をかざした。

その手は冷たく濡れていたが、まだ諦めていなかった。


「大地の恵みよ、目を覚まして!いまここに――フローラル・ハーベスト!!」


叫んだ。


確信などなかった。

ただ、自分の言葉に何かが宿ると信じたかった。

言葉が、火になり、風になり、土を動かす。

そう信じたかった。


……だが、何も起きなかった。


声は、雨に溶けた。

草はただ濡れ、泥はそのまま固く、空は鈍く閉ざされたままだった。


自分の声だけが、この広い空間に痛々しく響いていた。


「ほら土!耕されるのを許してあげるよ!許可するから、フワフワになってよ!」


その声はもう、呪文ではなかった。

まるで、駄々をこねる子どものようだった。

そのことに、自分自身で傷ついた。


「……畑の神でも、天地創造の神でもいい。……誰か、来てよ……」


雨だけが答えだった。

火も、光も、風も、雷鳴も――何も来なかった。


「……人を利用してばっかりじゃなくて、たまには……利用されてよ……」


それは、懇願のようであり、怨嗟のようでもあった。


草も風も、ただ静かに、アーデルを拒み続けているようだった。

拒んでさえいない。ただ、そこにあるだけだった。

自然は、彼女の言葉にすら関心を持っていない。


「どうして……私は、魔法少女になるんじゃなかったの……?」


その問いに、返答する神も、精霊もいなかった。

あるのは、静かな現実の重力だけ。


過酷な現実が、雨となって、冷たくアーデルの全身を伝い落ちていった。


「本当は……タレン語も、高貴な血も、砂糖も……いらないんでしょ……」


魔法に必要とされる“資格”たち。

古語の修辞。貴族の血。高価な触媒。

どれも、自分とは縁がなかった。

だからこそ、ただの飾りであってほしかった。


「男じゃなくても……」


アーデルは、体にまとわりつく“見えない鎖”を、ひとつひとつ確かめるように怒りをつのらせた。


皆が額に汗しても、子どもまで働いても、何も変わらないこの社会の構造。

不平等を“祝福”と名づけ、搾取を“奉仕”にすり替えるこの世界。

彼女は、村を、数字を、友人たちを、母の魂を縛る信仰を――呪った。


世界にすがることを、やめた。


神に祈ることも、やめた。


“声”はもはや届かないと知った今、アーデルの中で、別の力が、ひそかに芽吹き始めていた。


「こんな畑……トラクターがあれば、一瞬で終わるのに……」


その声には、もう祈りも希望もなかった。

あるのは、ただの自嘲と諦めの混じった“ため息”だった。


返事はない。

あるはずもない。


ただ、草と雨と風。

目の前には、濡れた緑と、どこまでも硬い地面だけ。


「……機械なら、バーッと耕せるのに!」


アーデルは両手を、前に押し出した。

それは怒りというより、言葉にならない感情の“身振り”だった。


その瞬間だった。


畑の端――草むらの下で、土がふわりと浮いた。

まるで、見えない刃が回転したように。

表土が持ち上がり、草の根が裂け、泥が弾ける。


「え……今、どうなった……?」


息を呑む。

眼の前の土が――生きている。

トラクターの刃が走ったように、線上に掘り起こされていた。


荒れ地に、空気をたっぷり含んだ茶色い土が、筋のように浮かび上がる。


「たしか……トラクターの刃って、こう、回転して……」


アーデルは両手を構え直す。

指を回転させる。

記憶の中の機械が、ゆっくりと回りはじめる。


金属の刃。ロータリーの軸。油に濡れた鉄。

粘土をえぐるあの重い、確かな“力”。


やがて、まるでモグラが地中を進むように、土が、動き始めた。


「そうだよ……イメージだよ。ほら、機械で耕すんだ……動画で見た。すごい力で混ぜてた、あの動き……思い出せ!」


両手を土に向け、トラクターの動きを頭の中で再構成する。

視覚。音。重量感。土の抵抗。

そのすべてが、“魔法の中核”に変わっていく。


「ばばばばばばばば!」


口が、記憶の音を模倣する。

それが引き金になったかのように――


地面が応えた。


草が裂け、土がめくれ、畝のように波打つ地面。

いくつもの鉄の刃が、地中で回転しているようだった。


アーデルの足が進むたび、荒れ果てていた地が、音を立てて“目覚め”ていく。


力強く、温かく、茶色く、肥えた地に。

彼女の想像が、現実を“修復”していく。


「あっはははは! チートだ、チートだよ!神様見てる? ざまあみろだよ!!」


歓喜が、雨に弾けた。

怒りが、笑いに変わる。


アーデルは両手を突き出したまま、起こしたての土の上を踏みしめていく。

足の裏が、現実を塗り替えていく音を感じていた。


「機械バンザイ! テクノロジー最高!まるで魔法だよ!産業革命だよ!あはははは!」


歓声は風に流れ、雨に溶けて、どこまでも響いた。

冷たく濡れていたはずの大地は、茶色く、あたたかく、ふくらんだ土へと変わっていく。

アーデルは、雨と土にまみれながら、歓喜の中を突き進んだ。

降り続く雨は、彼女の顔についた泥も、涙も、そのまま流し落としていった。



数刻後。


雨は、まだやまなかった。

空は重く、地は深く、世界は変わったようでいて、変わっていなかった。

ただ――その畑だけが、違っていた。


ヴァルトとミーナが、戻ってこないアーデルを案じて駆けつけたとき、そこに広がっていたのは、見違えるような光景だった。


畑はすべて、耕されていた。


どこまでも柔らかく、均一に、まるで掌で撫でられたような湿った土。


一片の草も、根の残滓すらなかった。


異様なほど、整っていた。

自然の手ではなく、木のクワでもなく、明確な力の働きによって起こされた変化。


アーデルは、ふと振り返った。


髪も、顔も、服も、泥まみれだった。

それでも、笑っていた。

あどけなさと、どこか遠くを見つめるような瞳で。


「お父さん、お母さん……これでパンが食べられるよ」


ヴァルトは目を見開き、ミーナは思わず息を呑んだ。

けれど言葉は、誰の口からも出なかった。


空からは、絶え間なく雨が降り続いていた。


土は柔らかく、雨は冷たかった。

その手に宿った力の意味を、アーデルはまだ知らない。

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