クマと花束

しろいなみ

クマと花束

 クマみたいだったお父さんが、遂に本当のクマになった。

 正月休みに久々に帰省すると、一頭の巨大なクマが実家の居間で炬燵に入り、鋭利な爪で器用に蜜柑の皮を向きながら正月の特番を観ていた。テーブルの上には蜜柑と共に砂ずりと割り箸、柿の種、くしゃくしゃのティッシュ、テレビのリモコン、飲みかけの缶ビールが置かれている。

 私のお父さんは元々クマのような見た目をしていたが、正真正銘の人間だったはずだ。身長が二メートル近くある上に筋肉質で、口元がもじゃもじゃの髭で覆われていたから、私がまだ幼い頃、「由衣ちゃんのお父さん、クマみたい!」と同級生たちによく言われた。

 お父さんは見た目に反して温厚な性格で子供好きだったので、子供たちに指を指されて笑われたり、怖がられたり、泣かれたりしても嫌な顔一つせず、それどころか腰を屈めて子供たちの背丈に合わせ、いつも笑顔で接していた。その上、休日の朝には近所の河原や公園へ行ってゴミ拾いをしたりしていたので、子供たちだけでなく近所のママやお年寄りからも慕われていた。

「由衣ちゃんはいいなぁ。あんなに優しいお父さんがいて。」

 そんなことを言われる度に私は嬉しくなり、「いいでしょ!」と言ってお父さんを周囲に自慢したものだ。

 クマみたいだったお父さんが「本当のクマ」へと変わり始めたのは、いつ頃からだっただろう。

 思春期の頃の私は父子家庭だということに妙な引け目を感じていて、お父さんと碌に話もしなかった。残業続きで忙しい中、毎日ご飯を作ってくれて、その上お弁当まで用意してくれていたのに、お父さんにお弁当を作ってもらっていることが恥ずかしくて、学校へ持って行かなかった時期もある。

「おい、弁当は。」

 玄関へ向かう足を止め、振り返りもせずに私は答える。

「あー……今日はいらない。部活の子たちと食堂で食べるから。」

 お父さんは怒りもせずに低い声で「そうか。」とだけ言い、それ以上は何も言わなかった。

 部活で遅くに帰ると、テーブルの上からお弁当は消えていて、代わりに冷蔵庫の中にその日の晩ご飯が用意してあった。お父さんが用意してくれた野菜炒めを一人で食べながら、わけもわからず涙がぽろぽろとこぼれたことを今でも覚えている。

 あの時、私がもっとちゃんとお父さんと話をしていたら、お父さんはずっと人間のままでいられただろうか。

 高校卒業後、私は実家から離れた東京の大学へ通い始めた。お父さんが鬱になったと聞いたのは、それから数か月後のことだ。

 田舎から上京してきて不安だらけだった私が、少しずつ大学生活に慣れてきた頃、実家の近くに住んでいたおばさんから突然電話がかかってきた。「おばさん」と言っても近所に住んでいたというだけで、親戚などではない。

 おばさんは愛想がよく世話好きな人で、お父さんととても仲が良かった。私が生まれてすぐにお父さんと離婚して家を出て行った母親の代わりに、私の面倒をよく見てくれていたらしい。

「もしもし、おばさん?どうしたの?急に。」

「ああ、由衣ちゃん。学校の方はどう?上手くやってる?」

「うん。そこそこ上手くやってるよ。それで、どうしたの?」

「由衣ちゃん、学校で忙しいところ悪いんだけどねぇ、急いで帰って来てほしいの。お父さんがね、病院に搬送されたのよ。」

「えっ!?病院!?お父さん、倒れたりでもしたんですか!?」

 奇妙な沈黙の後、おばさんは言いづらそうに、言葉を絞り出すようにして言った。

「……由衣ちゃん。落ち着いて聞いてほしいんだけど、あなたのお父さんね、死のうとしたのよ。」


 おばさんの悪い冗談だと思った。そうでなければ、きっと何かの間違いだ。私のお父さんは虫一匹殺すのさえ躊躇うような人で、自殺なんかしたりするはずがない。

 けれど、おばさんはそんな冗談を言う人ではないし、よくよく考えてみれば、私はここ数年間まともにお父さんと会話してこなかったのだ。お父さんが何に悩んでいて、どれだけ追い詰められていたかなんて、わかるはずがない。わかろうとさえしてこなかった。

 その日の残りの授業なんて、頭の中から完全に消えていた。私は全速力で駅まで走り、電車に飛び乗った。

 心臓がバクバクと異様に大きく波立っている。ドアの前に立って流れゆく東京の街並みを見ていると、どうしてか涙が出てきた。

 電話でおばさんが言っていたことを思い返す。今朝、収穫した野菜を分ける為におばさんが私の実家を訪ねたらしい。平日だからお父さんは仕事へ行っているだろうけど、私が生まれる前から家族のように懇意にしているおばさんには、お父さんが家の合鍵を渡していた。

 家のドアは施錠してあったが、おばさんが合鍵を使って中へ入り、野菜を冷蔵庫へ入れておこうと台所の方へ向かおうとした時、居間で倒れているお父さんを見つけたそうだ。

 天井には金具が打ちつけられており、そこから首を吊る為のロープの残骸が垂れ下がっていた。どうやら、お父さんの体重に耐え切れずにロープが千切れてしまい、そのお陰で一命を取り留めたようだ。


 病院のベッドで眠るお父さんの顔は日に焼けて茶色く、口元は長い髭で覆われている。その姿はまるで太古の原始人のようだ。清潔な白い掛布団からはごつごつとした岩のような足の裏が覗いている。

 実家で暮らしていた時、お父さんの鼾があまりにも煩いので私は睡眠不足に悩まされていたが、か細い寝息を立てながら病院のベッドで眠るお父さんを見ていると、お父さんが本当に死んでしまったかのように思われて、止まったはずの涙が何度も繰り返し溢れ出た。

 私は本当にばかだ。

 翌朝、お父さんは目を覚ました。

 

 それからすぐに会社を辞めたお父さんは、おばさん達の農作業を手伝ったりして過ごすようになった。

 元々口数はそれほど多くない人だったが、病院に搬送され、会社を辞めてからは更に言葉を発することが少なくなったように思うと、おばさんはこぼしていた。

 授業があるので私はすぐに東京へ帰らなければならなかったが、死のうとしたお父さんに何と声を掛けていいかわからなかった。唯一、病院でこんな話をした。

「……大学はどうなんだ。」

「……うん。やっと慣れてきたかなって感じ。」

「飯はちゃんと食ってるのか。」

「うん。ちゃんと自炊もしてるよ。」

「……そうか。まあ、何かあったらいつでも連絡しなさい。」

「……うん。ありがと。」


 お父さんが死のうとした理由は、はっきりとはわからない。それはきっとおばさんも知らない。お父さんしか知らないことだ。

 おばさんの話では、数年前から仕事の愚痴や「辞めたい」という言葉をよくこぼしていたらしい。高校を卒業してからずっと同じ会社で働いていたお父さんは、何年か前に部署を異動したので、もしかしたらそこで何か辛いことがあったのかもしれない。

 だけど、優しくて真面目で、他人から頼まれ事をしたらほとんど引き受けてしまうお父さんのことだから、部署を異動する前から心を少しずつ擦り減らしていたのだろう。

 いつもニコニコしているから、お父さんが内側に抱えている痛みに誰も気付かない。唯一気付けたのが、娘の私であったはずなのに。

 

 休日はいつも外へ出て、ゴミ拾いをしたり、小学生たちに草野球を教えたりなんかもしていたお父さんだが、会社を辞めてからはおばさんの農作業を手伝う以外はほとんど家から出なくなった。

 心配した人たちが時折家を訪ねてきたようだが、どこかやつれた笑みを浮かべながら「大丈夫です。」とだけ言ってすぐに家の中に引っ込んでしまう。

 おばさんが様子を見る為に家の中に入ると、真っ暗な部屋の中で何もない所をぼんやりと眺めていたこともあったらしい。あの時は血の気が引いたとおばさんは言っていた。

 在学中も、私は月に一度は二時間半ほどかけて実家へ帰り、お父さんの様子を見に行った。時間の流れと共にお父さんは少しずつ元気を取り戻していったが、それと比例するかのように眠っている時間が多くなった。一日十時間以上、まるで夢の中に閉じ籠るかのように、或いは冬眠中のクマのようにいつまでも眠り続けている。

 

 最初に違和感を感じたのは、私が大学三年生の時。お父さんが会社を辞めてからおよそ二年後のことだった。

 実家へ帰ってお父さんと一緒に晩ご飯を食べていた時、ビールを飲むお父さんが一瞬、クマに見えた。

 目をごしごしと擦ってからもう一度お父さんを見ると、当然のことながらそこに居るのはクマなどではない。たしかに見た目はクマっぽいが、紛れもなく私のお父さんである。

 しかし、お父さんの腕や顔をよく見てみると、以前にも増して毛深くなったような気がするのは、気のせいだろうか。心なしか、肌の色も焦げ茶色っぽくなっているような気がする。

 翌日、私はおばさんに聞いてみた。

「お父さん、なんか最近クマみたいになったと思わない?」

「えぇ?前からクマみたいだったじゃない。」

「前よりも更にクマみたいになってるんだよ。腕とかも毛むくじゃらで、なんか、人間離れしているというか……」

「ふふっ。まあ、あんなに大きくて髭ももじゃもじゃだからねぇ。たしかに人間離れはしているかもしれないけど、まさか本当にクマになるわけじゃあるまいし。」

 おばさんはそう言って笑っていたが、それからおよそ二カ月後、おばさんから電話がかかってきた。

「もしもし由衣ちゃん?あのね、由衣ちゃんのお父さん、最近ちょっと変なのよ。」

「変って、何がですか?」

「クマみたいになってきてるのよ。見た目が。」

 おばさんは毎日のようにお父さんと顔を会わせているから、お父さんの外見の変化に気付きにくかったのかもしれない。

 おばさんからの電話を受けて私がお父さんに会いに行くと、家には歴史の教科書に描かれていた猿人──ならぬ「熊人」が居て、まるで私のお父さんみたいに、テレビを観ながら毛むくじゃらの手でビールを飲んでいた。

 いや、これは「熊人」などではない。お父さんだ。文系の私は人体の仕組みなど全くと言っていいほどわからないが、どういうわけか、お父さんが徐々に熊化しているということだけはわかる。

「……お、お父さん?だよね……?」

 ビールを飲んでいた「熊人」がのっそりと振り返って私を見る。

「ん?何言ってるんだ。お前もビール飲むか?」

 そう言って「熊人」は私に缶ビールを勧めてきた。

 私が恐る恐るそれを受け取ると、お父さんはテレビのバラエティ番組に視線を戻した。

「……あ、ありがとう……」

「おう。」

 実を言うと私は、お酒はチューハイや梅酒くらいしか飲めない。


 

 それから一年、また一年と月日は流れ、大学を卒業した私は商社に就職した。

 取引先の会社で働く二つ年上の裕翔さんにご飯に誘われ、同じアーティストのファンだとわかって話が盛り上がり、三回目のデートで告白されて交際することになった。

 裕翔さんはとても優しくて、時折もどかしくなるほどに真面目で、かと思えばふざけて笑わせてくれたりもして、どれだけ一緒にいても全く飽きない。いつも私の話に真剣に耳を傾けてくれるので、私は裕翔さんになら何でも話すことができた。唯一、父のことを除けば。

 裕翔さんとの交際期間が長くなるほど、お父さんのことをどう話すべきかと私は頭を悩ませた。今年私は二十六歳、裕翔さんは二十八歳で、彼から結婚の話を持ち掛けられてもいる。それに、一度私の父に会いたいとも言われているが、その話が出る度に私は曖昧に笑って強引に話題を切り替えるしかなかった。

 けれど、父のことを隠したまま裕翔さんと結婚するわけにもいかない。

 年末年始の長期休暇を利用して、私は久々に実家へ帰省した。

 父には裕翔さんのことはまだ何も話していない。帰省客で混雑した列車の中で、父にどう切り出そうものかと私は思考を巡らせていた。



「ただいまー。」

 玄関の戸を開けて家の中に入ると、なんだか少し獣臭いにおいがした。けれどそれは決して嫌な臭いではなくて、私にとってはどこか懐かしい、胸に沁み入る温かなにおいだ。居間の方から微かに明りとテレビの音が漏れていたので覗いてみると、一頭の巨大なクマが炬燵に入り、鋭利な爪で器用に蜜柑の皮を向きながら正月の特番を観ていた。

 お父さんは私に気が付くと、振り返って言った。

「おう。おかえり。」

「ただいま。」

「寒かっただろう。炬燵、入るか?」

「うん。入る。あ、これ貰っていい?」

 私はコートも脱がずに炬燵へ入ると、テーブルの上の缶ビールを指差して言った。

「おう。飲め飲め。」

 ビールは今でも苦手だが、なんとなく、お父さんと乾杯したい気分になったのだ。

「乾杯。」

 お父さんが言う。熊の両手で挟むようにして缶ビールを持ち上げながら。

「乾杯。」

 私たちは初めて一緒にビールを飲んだ。

 やっぱりビールは苦くて好きになれない。裕翔さんはビールが大好きだから、もしかしたらお父さんとは気が合うのかもしれないな。

 お父さんに裕翔さんのことを切り出していいものかと逡巡しながら、沈黙がどこか気不味く感じられて、私は別のことを考えながら話すという我ながら器用なことを行った。

「もうすっかりクマだね。」

「おう。立派なクマだろう。」

「うん。もう熊人(くまんちゅ)を卒業して、完璧なクマになったわけだ。」

「ははは。まだ『完璧』とは言い難いな。なんせ、こうして由衣と人の言葉で話をしているわけだからな。人間の言葉を話すクマなどいないだろう。」

「まあ、そりゃあね……」

 再び訪れる沈黙。裕翔さんのことを切り出そうかと思ったが、口は勝手に別のことを話していた。

「そういえば今日、おばさんは?」

 私が聞くと、お父さんは少し悲しげな表情を浮かべた。

「ああ……おばさんはな、俺の見た目が完全にクマになった頃にびっくりし過ぎて腰を抜かしてしまってな……結構痛むらしいんだ。今でも家の前に野菜を届けてくれたりはするんだが、またおばさんが腰を抜かしたら気の毒だから、最近は顔を会わせる機会もほとんどなくなってしまった。」

 いつも笑いながら冗談を言い合っていたお父さんとおばさんの姿を思い返すと胸が痛むが、こればっかりは仕方のないことなのかもしれない。私だって、巨大なクマが家に居たらお父さんだとわかっていても腰を抜かしてしまう可能性は大いに有り得る。

「……それでな、このままこの家で暮らしていくのは難しいから、俺は山へ行くことにした。」

「や、山?」

 思いも寄らない言葉に、裕翔さんのことをどう切り出そうかと悩んでいた思考は完全に停止した。

「山へ行くって……いつまで?」

「……恐らく、最期の時までになるだろうな。俺は自分に残された時間を、山でクマとして生きていくことにしたんだ。」

 すぐには言葉が出なかった。

 クマみたいだったお父さんが、遂に本当のクマになる時が来たんだ。

 それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、私にはわからなかった。




 年が明けてから三日が経った。私とお父さんは、人気のない朝早くの暗いうちから家を出て、家の近くにある小さな神社へ初詣に行った。

 お賽銭を入れて、お父さんと二人──いや、一人と一頭で、並んで手を合わせる。

 顔を上げてちらりと隣を見ると、お父さんはまだ目を閉じて何かを真剣に願っていた。

 私は神様や幽霊の類は信じない性質だが、お父さんがクマになるなんて不思議なことがあったのだから、神様や幽霊だって本当にいるのかもしれない。

 私はもう一度手を合わせた。

 お父さんが、クマとして幸せに生きていけますように。

 


 それから、私たちは神社の裏手にある山の中へと入っていった。お父さんはさすがクマなだけあって殆ど整備されていない山道をすいすいと進んでいくが、娘の私は日頃の運動不足が祟って、少し歩いただけで息が上がってしまった。

 お父さんは少し先で立ち止まると、振り返って私に言った。

「見送りはここまででいい。」

「え?ここでいいの?」

「ああ。この先は先輩たちもよく出てくるようだし、道も整備されていないからな。」

 お父さんがにっと笑って、近くにある木製の看板を指し示した。そこには薄れた赤い文字で「クマ出没注意!」と書かれていた。

 ……なんだか少し、しんみりとする。

 結局お父さんに、裕翔さんのことを言えなかった。

 私が何も言えずにいると、お父さんは私の方までやって来て、毛むくじゃらの手で優しくぽんぽんと私の頭をたたいた。

「どうした。何も悲しいことなんかない。由衣がピンチの時には、いつでも山を下りていくさ。」

 堪えていた涙が溢れ出した。

 私、まだ何一つ親孝行できていない。

「お父さん……ありがとう。それから、高校生くらいの時、口利かなくてごめんなさい……」

 お父さんは笑ったが、その目には薄っすらと涙が滲んでいるように見えた。

「おう。あの時はちょっと寂しかったぞ。でもまあ、あの期間があったからこうして今の由衣がいるんだもんな。」

 涙が溢れて止まらない。お父さんはもうすぐ行ってしまうのに、言葉がうまくまとまらない。

「お父さん……あのね……」

「おう。なんだ?」

「私、結婚したいと思ってる人がいるの……」

「……なんだと?」

 お父さんは少しの間渋い顔をしていたが、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。

「まあ、由衣の選んだ人なら大丈夫だろうな。おめでとう、由衣。誰よりも幸せになれよ。」

「うん、ありがとう。お父さんも、世界一幸せなクマになってね。」

「おう。当たり前だ。」

 山道を下りながら、いつまでも涙が溢れ出て止まりそうになかった。

 少し進んだところで後ろを振り返ると、私を見ているお父さんと目が合った。お父さんは片手を上げると、大きく手を振った。私は手を振り返した。




 それからおよそ一年半。私は愛する人と結婚した。

 鮮やかなステンドグラスがきらめく荘厳なチャペルで、幼い頃から憧れ続けた純白のウエディングドレスを身に纏い、今日という特別な日を迎えられたことが奇跡のようだと感じる。唯一の心残りは、ヴァージンロードをお父さんと歩けなかったことだ。

 澄み渡る快晴の空の下、招待客たちに向けて私はブーケを投げ放つ。湧き起こる歓声。花束へと伸びる無数の手。その時、招待客たちの笑顔の向こうに、シンボルツリーの影からひっそりとこちらの様子を伺っている父の姿を見た。

「……お父さん。」

「え?お父さん?」

 自然とこぼれた小さな呟きに、隣に居る裕翔さんだけが反応を示す。裕翔さんはきょろきょろと視線を巡らせて私の父を探していたが、見つけられずに不思議そうな顔をした。

「お父さん、来てたの?」

 裕翔さんの言葉さえ、ほとんど頭に入っては来なかった。私はお父さんへと向かってウエディングドレスをたくし上げて駆け出した。

「お父さん!」

 お父さんがシンボルツリーの影から姿を現すと、招待客の歓声は一瞬にして悲鳴へと変わった。

「きゃあぁっ!クマ!クマが出た!」

「どうしてこんな所に!?」

「誰か!警察に通報して!いや、猟友会か!?」

 瞬く間にその場から招待客がいなくなり、残ったのは私と父、それから裕翔さんのみとなった。

「お父さん、来てくれたんだね。」

 私がそう言うと父は頷き、背中をもぞもぞと探るとどこからか招待状を取り出した。少し前に私が用意して、父と最後に言葉を交わしたあの場所にそっと置いてきたものだ。

 あれから一年半も経っているから、もしかしたら父は招待状の文字を読めなくなっているのではないか、それ以前に、父が招待状を見つけられるのかどうか不安に思っていたが、無事に見つけられたみたいでよかった。

 父はまた背中をごそごそやると、どこに隠し持っていたのか、大きな鮭を取り出して私に差し出した。

 クマの手でどうやって巻いたのかはわからないが、その鮭は白いリボンでラッピングされている。

 お父さんは何も言わない。恐らく、もう人の言葉は話せなくなってしまったのだろう。クマとして山で生活し始めてから、まだ一年半程度しか経っていないのに。

 だけど、それはきっと悲しいことではなくて、お父さんが人の言葉を話す必要がなくなったというだけのことだ。

 たとえ言葉が話せなくても、心を通わせて互いの気持ちを汲み取ることはできるのだから。

 お父さんはどこか自慢げな様子で、両手で鮭を持って私に差し出しているが、鋭利な牙が除く口元からはじゅるりと涎を垂らしていた。

 きっと食べたい気持ちを必死に抑えながら、ここまで持って来てくれたのだろう。その姿を想像すると、愛おしい感情で胸がいっぱいになる。

「あはは。立派な鮭だ。ありがとう。でも、お父さん食べなよ。クマの仲間たちとさ。」

 私がそう言うと、お父さんは「でも……」とでも言うかのように、少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら私と鮭を交互に見た。

 そういえば私が子供の頃、お父さんは「一番美味しいところ」をいつも私に譲ってくれた。ショートケーキの苺とか、ラーメンの煮卵とか。「由衣、いっぱい食べろ。」と言って、本当はお父さんも食べたかったはずなのに。

「涎垂れてるよ。ほんとは食べたいんでしょ?」

 私が笑いながら言うと、お父さんは少し恥ずかしそうに毛むくじゃらの腕で口元を拭った。そして、「悪いなぁ。」とでも言うような表情で鮭を背中に仕舞った。

「あっ、あの……っ!お父さん!」

 それまで私とお父さんのやり取りを静かに見ていた裕翔さんが、意を決した様子で私の一歩前に進み出る。

「中山裕翔といいます!なかなかご挨拶ができず、申し訳ありません……!ゆ、由衣さんは……僕が絶対、幸せにしますので!なので……その、いつか三人でお酒でも飲みましょう!お父さんはビールが好きだと前に由衣から聞いていましたから……あっ、でも今は蜂蜜とかの方が……いいのか……?」

 裕翔さんには父がクマになった経緯を既に話していて、半信半疑ながらも真剣に耳を傾けてくれたが、正直なところ完全に信じてもらえているとは思っていなかった。

 だけど、今の裕翔さんを見て、私は更に彼のことが好きになった。

「……ぷっ。うふふっ。」

 堪え切れずに笑いが込み上げる。

 恥ずかしそうにしている裕翔さんに向けて、父は片手を上げた。どうやらハイタッチを求めているらしい。

「ハイタッチしてあげて。」

「えっ!?は、ハイタッチ!?」

 裕翔さんは恐る恐るといった様子で、そっと父の掌に自身の掌を重ねた。

「お、おお……初めてクマとハイタッチした……」

 その様子が可笑しくて、私たちは声を上げて笑った。

 その時、遠くの方で声が聞こえた。

「いたぞ!あそこだ!あそこにクマがいる!」

 招待客たちが警察官を連れて戻ってきたようだ。

「お父さん!早く逃げて!」

 お父さんは頷くと、チャペルの裏手にある森へと向かって物凄い速さで走っていった。

 どうかお父さんが仲間たちの元へ無事に帰り着けますように。

 裕翔さんが、そっと私の手を取る。

 お父さんの姿が見えなくなった後も、私たちはいつまでも、大きな背中を見つめていた。

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