第5話「びしょ濡れの約束」
教会の窓に、冷たい雨が叩きつけていた。
ざあざあと濁流のように流れる音が、世界をすべて洗い流してしまうかのようだった。
ネフェリアは書類に羽ペンを走らせる。記入ミスも気にすることなく、チラリと窓の外を見やる。
「……ほんと、豪雨ですねぇ」
ネフェリアは窓の外を見上げながら、誰に届くわけでもなく呟いた。教会の食堂には、彼女一人だけだった。
―――
ことは、朝にさかのぼる。その日の朝も、ユージオが料理を食していた。
クロワッサンとバターとジャム、コーヒー。手際よく並べられた朝食は、ネフェリアにとってもはや日常となりつつあった。
「パンにいい香りがしますね」
シスター服姿でテーブルについたネフェリアは、いつものようにうれしそうに笑って言った。
「大したもんじゃねぇけどな。」
そう言いいながら、ユージオは、ネフェリアのコーヒーに砂糖とミルクを入れていた。
二人は窓際の席に並んで座り、あたたかな朝食を前に静かに手を合わせた。
「「いただきます」」
コーヒーを啜る音と、パンのザクザク音が部屋をにぎわせる。
「神父様の料理、毎日でも飽きませんね。ほんと」
「そりゃどうも。だったら、お前が作れるようになってくれれば一番いいんだけどな」
「それは……その……」
苦笑いして誤魔化すネフェリア。炭のオムレツの記憶が、まだお互いの記憶に新しかった。
そんな穏やかなひとときに突然――
教会の扉が激しく叩かれた。
「神父様っ、神父様いらっしゃいますかっ!」
荒く扉の叩く音と同時に、大きな声でこちらを呼ぶ声が一階の礼拝堂から聞こえてきた。その様子から、ただならぬことだけはわかった。
一階に降りて、扉を開けると、中年の農夫が立っていた。
「どうした」
ユージオの声音は冷静だったが、相手はそうはいかなった。
「畑に、魔物が……!作物を食い荒らして、息子が‥‥ッ、怪我したんだ!」
顔は汗と涙でぐしゃぐしゃになり、その目は明らかに恐怖と焦りに揺れていた。
「この村には神父様以外、戦える人いねぇんだ!頼む!」
「わかった、すぐに向かう。案内してくれ」
農夫の方を掴み、はっきりとした声で答える。
「は、はい!ついてきてください!」
すると、農夫の顔に安心感が現れた。
「神父様。私は…‥」
「お前は、留守番だ」
十字架を模したハンマーを懐にしまいながら、ユージオは答えた。
「ですが‥‥」
「安心しろ。夜には帰って来る」
そう言って、ユージオはネフェリアの頭に手を乗せた。不意に撫でられた手はあたたかくて、どこまでも優しくて、だからこそ――反論できなかった。
「……気をつけて、くださいね」
「安心しろ。死ぬわけにはいかねぇんだ」
そう言い残し、ユージオは教会を出て、農夫についていった。
雨が降り出したのは、それから数時間後のことである。
―――
そうして、現在。雨はどんどん強くなり、時折雷鳴まで混じる始末だった。
「傘……持っていませんでしたよね、確か」
心配を声に出してしまい、余計にその心が強くなってしまう。
「今日は、帰ってこないでしょうね」
この雨だ。きっと、どこかの村人の家に間借りするかして、明日雨がやんでから帰って来るのだろう。
だから――今日は、あの料理はない。
「なに、やってるんでしょうね‥‥私。」
そう、頭ではわかっていた。
けれど、机の上には二つ分のスープ皿を並べていた。スプーンとフォークも一つずつ。ナプキンも、いつもの位置。
「ただの、口約束じゃないですか」
机に突っ伏しながら、自問自答にも近い、独り言をつぶやく。そう、だたの口約束。なんの拘束力も無くて、無理して守る絶対性もない。だが、どうにもあの人の言葉を信用し、期待している自分がいた。
「毎日って言ったくせに‥‥」
自分でも、なんでこんなに期待していたのか、わからなかった。それでも、不満の一つくらいは言いたかった。
そう思っていた時。
―――ギィィィ……
教会の扉がゆっくりと開く音が、廊下に響いた。
「えっ‥‥」
一瞬、呆けた声を上げた後、ネフェリアは、急いで階段を駆け降り、一階の祭壇の前まで移動する。
そこには、ずぶ濡れのユージオがいた。
髪からは水が滴り、服は肌に張り付いている。にもかかわらず、ユージオはいつも通りの無表情で、無言で靴を脱いでいた。
「あーくっそ、気持ち悪ぃ」
「……神父様、なにしてるんですか。ずぶ濡れじゃないですか!」
祭服を脱ぎ、タオルで全身を吹きながら悪態をついているユージオに、ネフェリアが駆け寄る。
「なにって、飯、作りに帰ってきたんだよ」
「え?」
ネフェリアが驚いていると、ユージオは無言のままキッチンへと歩いていく。
「ちょ、ちょっと待ってください! 風邪引きますよ! まずは着替えを――」
「もう身体拭いたから、後でいい。腹減ったろ」
そう言って、ユージオはずぶ濡れのまま火を起こし、鍋を取り出した。
ネフェリアはそれを見て、口元を手で覆い、じっと見つめていた。静かに、熱いものが胸の奥に広がる。
「……神父様」
背中に声をかけると、ユージオは振り返らず、淡々と答えた。
「約束したからな。毎日、作るって」
「……っ」
ネフェリアはもう、それ以上何も言えなかった。
ただ、キッチンで湯気が立ちのぼる中、雨音と、鍋の煮える音だけが、教会に静かに響いていた――。
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