アルク 第5章|親睦と日常と、焼き鳥の煙

梅田のビジネス街──

ビルの隙間から射す午後の日差しが、コンクリートの床に斜めの線を描いていた。


玖珂 彩夢は、紙袋を手に歩いていた。

中身は、きっちりと包まれた和菓子の詰め合わせ。

要件は簡単だ。呪詛士アジトでの“バッティング”について、アルクに正式な謝罪へ向かっている。


(静とは通話で一通り話したし、向こうも大ごとにはしないって言ってくれてるけど……)


今日この場に来ることになった決定打は、母──玖珂 陽子からのひと言だった。


『あなた副当主なんでしょ。だったら、お詫びには直接行きなさい。お菓子も忘れずに』


魔力を持たないにもかかわらず、母は御三家に嫁ぎ、3人の子を育てあげた。

家同士の付き合いも、彼女が最も円滑にこなしている。

……父がどんなに強くても、長男がどれだけ律儀でも、母には敵わない。


(まったく……魔力密度ゼロで、御三家全部相手に立ち回れるとか、どう考えてもおかしいでしょ)


彩夢は小さくため息を吐いた。


(まあ、私たち家族が誰も母に逆らえない理由は、たったひとつ──)


『魔力を持たずに、私たち兄弟を育て、御三家の板挟みをすべて捌いてきたから』


ビルの角を曲がると、アルク株式会社のロゴが見えてきた。

小規模なビルの一角。けれど、静が築いたその会社には、確かな気配と熱量がある。


彩夢は、少し表情を引き締めて歩みを速めた。


(さて……ちゃんと謝って、できれば飲み会の話はパスさせてほしいところだけど──)


だが、それが許されないことを、彼女はもう知っていた。






アルク社内、受付前のスペース。

岳と坂本が並んで自販機横のベンチに座り、缶コーヒー片手に談笑していた。


「いや〜、あの選手、現役のとき観てたとか、正直うらやましいっすよ」

坂本が嬉しそうに笑う。


岳は缶を軽く傾けながら、少し照れたように答える。


「今じゃ動画サイトで誰でも知ってる人気選手ですけど……ファン感の時に写真撮ってもらったんですよ。当時は無名に近かったのに、腰低くていい人でしたね」


「さすが、年長者の特権ってやつですね!」

坂本が肘で軽く突く。


岳は苦笑しながら手を上げる。


「いやいや、ほんとならもうヨボヨボですよ。ハハハ」


その声に、後ろから入ってきた女性が足を止めた。


「……あー、やっぱり。あなたが、魔術医療センターから届いてた“封印型”の」


玖珂彩夢がそう口にした瞬間、岳と坂本は顔を上げた。


「魔力密度・黒……魔眼が通じなかったっていう話、聞いてます」


「えっ……あ、えっと、玖珂さん……」

岳が立ち上がろうとするのを手で制し、彩夢は微笑んだ。


「気にしないで。挨拶の前に話しかけちゃってごめんなさい。ちょっと気になってただけ」






社長室の扉が開くと、整然とした空間の中に淡いアロマの香りが漂っていた。

窓際に背を向けて立っていた静が、ゆっくりと振り返る。


「……来たのね、彩夢」


「ええ。ご挨拶が遅れてごめんなさい」


彩夢は一歩進み、丁寧に頭を下げた。


「母から、正式に“筋を通してこい”と命じられて……だから、これは私の意志と、家の意志でもあるの」


「……あなたのことだから、そうだろうと思ってた」


静はわずかに笑みを浮かべ、彩夢を応接ソファに促す。


ふたりが座り、コーヒーがサイドテーブルに置かれると、しばしの沈黙が落ちる。

やがて、静が切り出す。


「──修司のことは、まだ怒ってるわよ。あれは“うちの社員”に魔眼を向けたんだから」


「私だって……怒ってる。でも、だからこそちゃんと向き合うしかないのよ。あいつが誰より御三家に縛られてること、知ってるから」


「……陽子さんの育て方って、ほんと見事よね。あなたも律も、根はちゃんとしてる」


「ありがとう。でも……それでも“家”の責任は消えないわ」


彩夢は、鞄から小さな紙袋を取り出し、テーブルにそっと置いた。

高級感のある和菓子の包みには、筆で書かれた菓子屋の屋号。


「菓子折りだけで許されるとは思ってない。でも……うちの母が、“これは持って行きなさい”って」


静は袋を手に取り、ふっと鼻を鳴らした。


「……陽子さんらしいわ。こういうところ、抜け目ないのよね」


「うちでは……誰も母に逆らえないから」


静は、懐かしむように目を細めた。


「……昔と変わらないね。ほんとに、強い人だわ。魔力がなくても」


「むしろ、魔力がないからこそ、強くならざるを得なかったのかもね」


静はしばし天井を見上げたのち、言葉を続ける。



静かに扉が閉じられると、社長室には再び静けさが戻る。

応接スペースのソファに並んで座るふたり。

淡い光の差す室内で、時間だけがゆっくりと流れていく。


静は、手元のカップを持ち上げながら彩夢に目を向けた。


「彩夢、来週末の夜って空いてる?」


「え? ええ……今のところ特に予定はないけど」


静はふっと口元を緩めて、さらりと続けた。


「うち、たま~にやるのよ。社員同士の親睦会。忘年会以外は年に一度あるかないかのレアイベントなんだけどね」


「へぇ……なんだか、意外」


「でしょ?でも、今回はちょっと特別にやろうかなって。九条君の初現場が無事終わったお祝いも兼ねて」


「……それに、私も来るってこと?」


「もちろん。ちゃんと正面から謝りに来てくれた副当主様を、そのまま帰すほど冷たい会社じゃないのよ、うちは」


「……ふふ、確かに。あなたらしいわ」


静は軽く指を立てて笑う。


「うちの社員も、あなたのこと嫌ってはいないと思う。坂本なんか、現場であなたが頭下げたときちょっと驚いてたし」


「……それ、嫌味?」


「違うわよ。むしろ、“彩夢”としてのあんたを、あの場でちゃんと見たってこと」


彩夢は少し視線を落とし、ほんの少しだけ息を吐いた。


「わかった。出るわ、その飲み会。……静の誘いを断るなんて、なかなかできることじゃないしね」


「うん、ありがとう。いい“交流”になるといいな」







週末の夜。

アルク株式会社の面々が向かったのは、会社から歩いて5分ほどの小さな焼き鳥屋だった。

こぢんまりとした木造の店舗に、赤提灯がぽつんと灯る。


「ここ、うちの社員が昔よく来てたお店なの。焼き鳥がね、ほんっとに美味しいのよ」


田村佳乃が楽しげに案内をする。

予約済みの奥座敷へ通されると、木のぬくもりと炭火の香りが心地よく鼻をくすぐる。


メンバーが揃い、テーブルに座ると、店員が飲み物の注文を取りに来る。


「私はビールで~」

「俺はジンジャーで」

「カルーアミルク、甘めでお願いします」

「……地酒、あります?あ、じゃあ“雪月花”ってやつください。久々だなこれ」


「えっ、“雪月花”? 渋っ……っていうか、普通知らないでしょ」

彩夢が驚いたように岳を見る。


岳はほんの少し照れながら、グラスを両手で包むようにして言った。


「若い頃にね、職場の先輩が勧めてくれたんだ。これで日本酒の美味さを知った」

「……中身、本当におじさんなんだね。なんか、不思議な感じ」

彩夢は、くすりと微笑んだ。


全員の飲み物が揃ったところで、佳乃が立ち上がる。


「じゃあ、乾杯の音頭、いただきます!」


目配せひとつで静も笑顔になる。


「今日は、九条君の初任務お疲れさま会! そして……年末以外でこうして集まるのはレア中のレアだから!

 しっかり飲んで、しっかり食べて、明日は全員爆睡すること! いい? じゃあ──」


「「「かんぱーい!!」」」


グラスがぶつかり合い、夜の始まりを告げる。





炭火の香りとともに、盛り合わせの串が運ばれてくる。

皮、ねぎま、つくね、砂肝……どれも香ばしくて、食欲をそそる。


「これがね、ここの名物“特製つくね”よ。タレの加減が絶妙なの。はい、九条君、最初の1本いっときなさい」

と佳乃が、まるで長年の同僚のように串を手渡す。


岳は、軽く会釈して受け取り、噛みしめた。


「……ん、うまいですね……タレ、甘すぎないのがいい」

「でしょ?ちゃんとわかるところが“若者っぽくない”のよ、アンタ」

佳乃が満足げに笑った。


彩夢がカルーアミルクをくるくる回しながら、それを見て口を挟む。


「っていうか、岳って飲み方も落ち着いてるし……ほんとに中身おじさんって感じ。ねぇ、静?」

「うん、見た目が若いぶん、ギャップで余計に“歳を感じる”のよねぇ」

静はさらっと日本酒を口に含みながら言う。


その隣で、すみかが勢いよくジョッキを煽っていた。


「っぷはーっ!……すみませーん、ハイボールもう一杯くださーい!」

「……お前、早いな」

坂本がじっと見ながら呟く。


「だって、社長がペース早いんだもん!合わせたらこっちも自然と……あ、じゃあ“とり皮”もらいまーす♪」


「……わかる。静さんって、飲みの場になるとペース早いよね」

佳乃が軽く笑いながら、静に目を向ける。

「昔のことだけどさ、最初の頃の飲み会、潰れたやつらを次々にタクシーに投げ込んでたの、静だったのよね」


「え、マジで……」

岳が少し目を丸くする。


「そうよ。で、私はその横で潰れた旦那を支えてたっていうね」

佳乃は苦笑しながらグラスを掲げた。

「ま、今はうちの旦那も強くなったけど。私も強いけど、静には負けるわね」


静はくすっと笑った。


「最近は潰れる側がいなくなったから、ちょっと寂しいわね~」

「静さんがそれ言う?」

坂本がぼそりと突っ込みを入れる。


「ん? 坂本君、飲んでなくない?」

「……下戸なんですよ。ウーロンで十分です」

「……やっぱり仕事できる人って、こういうとこ堅実だよね~」

すみかが頷きながら、またジョッキを傾ける。


会話は弾み、串は次々と空になっていく。


「……こうしてると、ほんとにチームって感じがしてくるわね」

彩夢がふと呟くように言う。

「御三家の仕事って、いつも緊張ばかりだから。たまには、こういうのも悪くない」


「でしょ~?」とすみかが言う。

「焼き鳥とお酒って、世界を救うから!」


「……それは言いすぎじゃない?」

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