歪な私だから
与野高校文芸部
歪な私だから
静寂を切り裂くような悲鳴が聞こえる。その直後、足元で鈍い金属音がした。手の、ずっしりとした重さがなくなる。下に目を向けると目に入るのは、鋭く尖った金属製の物――包丁だ。
私は、一体何を…………。
怒号、私に傷をつけようと向かってくる拳、陰気な噂話。幼い頃の記憶は、そんなものだった。家では痣が増え、学校では聞きたくもない陰口。幼いながらに孤独を植え付けられていた。
私が九歳の頃、妹が生まれた。あの子は私が知らない愛で、すくすくと育っていった。……許せなかった。どうして私は、未だに愛を知らないのに……あの子ばっかり、愛するの……?
私が中学二年生の時、すべてが狂った。小学生にもなっていない妹の
「あら、牛乳が無いわ!」
という母の声と、バタバタと家を駆ける足音。どうやら、料理に使う材料が足りないらしい。家のドアを閉める音が聞こえて、部屋を出る。急いでいるようで、華は置いていったようだ。キッチンに行き冷蔵庫を覗き込む。どうにか腹を満たせるものを探す。野菜室にあった人参を手に取り、ゆすごうと思い蛇口に手を掛ける。視界になにか映そうと視線を動かす。一人分にしては多く、三人分にしては少ない量の料理たち。いつもどおりの光景だと、もはや安心を覚えた。まな板の上に置きっぱなしにされている包丁と目があった。水を止めて、人参を持って、早く部屋に行かなければいけない。脳は私に訴えかけていた。なのに、包丁から目が離せなかった。金属光沢を見つめながら、黒い感情に飲まれかける。それがいけないことだと、分かっている。分かっているのに、私の中の悪魔が静まってくれない。人参をシンクに置き、震える手で包丁を手に取る。初めて触れる包丁はずっしりと重い。柄を握り直し、歌を歌いながら遊んでいる華に近づく。小さい背中はまるで大きなキャンパスだ。そのキャンパスに向けて、腕を振りかぶる。
―――刹那、キャーという甲高い声が聞こえた。その声に驚いて持っていた重みを手放してしまった。足元で高い金属音が鳴る。ヒステリックな声が鼓膜を支配する。母が帰ってきたのかと、私の冷静な部分が判断した。
「華ちゃん……! 大丈夫……? 怪我はない……?」
華の返事を待つそぶりを見せずに、こちらをキッと睨みつける。
「この人殺し!」
足元に転がる刃物を目で捉えた。私は一体、何をしようとした……? いたたまれなくなり、その場から逃げ出した。私の背中に、華の純粋な笑い声が刺さった。
そんな昔話を思い出しながら、自分の席に座っていた。昔話というほど昔の話ではなく、約一年前の話だが。
「
隣の席の子が話しかけてきた。手からじわじわとした痛みを感じ手を開いてみると、いつの間にか堅く握っていたようで、爪の後がくっきりと残っていた。椅子に座りながら下を向いてる私を、のぞき込むようにして話しかけにくるこの子は、伊藤りりか。この子の隣には常に人がいるくらいの人気者だ。友達の数がまだ足りないのか、中学三年生になってから、頻繁に話しかけてくる。
「国語」
いつも通りそっぽを向いて答える。そしてりりかも、いつも通りふふ、と大人びた笑みを溢す。
「国語かー。私、昨日夜更かししちゃったから、眠いんだよねー」
わざわざ私と目を合わせてニコッと笑った後に、教室の後ろにあるロッカーへと歩いていった。
「邪魔」
机の間の狭い通路を、女子の集団が塞いでいた。その先にあるロッカーに用がある私は、その集団にハッキリと告げた。集団は私の言葉を聞いて、無言で顔をしかめながら道を開けた。ロッカーから荷物を取り出し、来た道をまた歩き出す。集団を抜けると、聞こえるように言葉を交わす彼女たち。
なにあれ……感じ悪。あんな言い方することなくない? 流石女王様。私達家臣は邪魔者とでも思っているのよ。そういえば最近、とんでもない噂があるらしいよ。あ、それ知ってる。確か――――
不快だと言ってるくせに、その声はとても楽しそうで、クスクスと笑い声が耳に入る。居心地が悪くなり、教室を離れた。
目的地もなく教室を抜け出してしまったため、目的地を決めなければならない。少なからずこの階には教室しか無い。友達がいない私には、この階に用はない。廊下で誰かと話しているりりかのことは、見えていないことにした。今は給食の後の昼休みの時間だ。潰さなければならない時間がたくさんある。図書室に行こう。今は余計な音を聞きたくない。一階にある図書室に向かうため、階段を降りようとした。
「西園寺さん、妹のこと包丁で殺そうとしたらしいよ」
「え、まじ」
「ほら、あの子ちょっとおかしいじゃん」
楽しそうに笑いながら階段を上ってくる二人組の女子。階段の上にいる私に気が付いたようで、続くはずだった会話を途切れさせた。何回も聞いた悪口だったはずだ。なのに、驚きで体が硬直してしまった。どうして彼女たちが、そのことを……? 二人はすれ違う時、ニヤニヤと笑いながら会話を再開した。
「嫌いでも殺しはしないわー」
――――違う。
そう思ったと同時に、二人のうちのどちらかの腕を反射的に掴んでしまった。女子が背中から階段に落ちていく様子が、スローモーションで目に映った。もう一人の子の強い悲鳴で、落としてしまったことを認識した。
「
どこからか血を流している彼女は、返事をしない。
感じ悪。おかしいよあの子。流石女王様。いつも一人で、友達いなさそう。よくあんなのと一緒にいられるね。向こうから来たんだってば。あなたみたいな子、最初からいらなかったのよ。
今まで散々言われた嘲笑混じりの陰口が、私の頭になだれ込み、内側から私の脳を壊していく。まともな思考が、できない。かろうじて残った脳が、逃げろと警報を鳴らしていた。階段を一気に駆け上がる。一人の少女の悲鳴を聞きつけてか、次第に階段付近は騒がしくなっていった。
階段を塞ぐ壁のように、机が並べられている。この階段は屋上に続いている。壁を抜けた先には、誰もやってこない安息の地があった。階段を駆け上がったことによって、運動不足の体は酸素を欲していたようだ。しゃがみこんで、呼吸を整える。頭の中で、ずっと誰かに責められている。
分からない。分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない。
「見つけた」
思考を巡らせていると頭上から声がした。この声を、知っている。りりかだ。
「ど、うして、ここに……?」
「さっき、ここに入って行くのが見えて。机を退かすのに手こずっちゃった」
さっきのを、見ていた……? りりかの顔を見れなくなる。……りりかに、軽蔑される。りりかが、離れていってしまう。息が、喉が、絞まっていくようで、苦しい……。その時、りりかが私の両耳を手で覆った。その不可解な行動に、驚いてりりかの顔を見上げた。私の心の奥底まで見透かしているような、真っ直ぐな目を見た。ゴミを見るような目でも、理解できないものを見るような目でもない、私だけの目。そうだ、私はこれが欲しかったんだ。華を殺そうとしたのも、本当は見て欲しかったから。嫌いだからじゃない。だからあの言葉を否定したくなったんだ。そんな思考が心にストンと落ちた。いつの間にか、私を責め立てていた言葉は聞こえなくなっていた。りりかはニコッと笑うと両手を離した。
「落ち着いた?」
「あ……うん。ありがとう……」
りりかは私の横に腰掛け、言葉を探している私を、優しい眼差しで待っていた。
「どうして……どうしてりりかは、私の傍に、いてくれるの?」
りりかは、悩むような声を出した後、何かを思いついたように回答した。
「うーん…………依音の事が、好きだから?」
その言葉に顔に熱が集まる。りりかは笑いながら、私の反応を見ている。
「ふふ、じょーだん」
「か、からかわないでよ」
きっと、私の不安な表情に気付いたのだろう。りりかの左手を私の右の頬に添える。
「何が不安なのか分からないけど、私は依音のこと、嫌いにならないよ」
瞳を覆うように涙の膜ができ、やがて弾けて粒になった。まだ慣れない眼差しから逃げるため、目をそらす。それからはお互い何も話さず、静寂が訪れる。二人の間に流れる静寂をもどかしく感じながら、この時間を終わらせる音を待っていた。
家のドアを開けるとそこには、母の姿があった。きっと母にも今日あった出来事が共有されているのだろう。後ろ手にドアを閉めると、真っ先に飛んでくるのは拳だった。他人に気づかれやすい顔以外を狙って、痣が増える。最近は機嫌がよくて、殴られることもなかったのに。
「あんた、学校で問題を起こすなんて何考えているの!? あんたがやったことなのに、どうして私が謝らないといけないのよ!」
台風と同じように、過ぎ去るのを待つばかり。
意外にも私に対する興味は長くなく、体感一時間ほどで満足したのか、家を出ていった。家の玄関に取り残された私は、痛みを訴える体を引きずるようにして自分の部屋に戻った。
桜が注目を浴びる頃。長くも短く感じられる一年が終わろうとしていた。今、私は途方に暮れている。中学校を卒業し、受験を許されなかった私は、母親から家を追い出された。あの家に居続けてもおかしくなるだけなので、家を離れられることはいいことなのだが、これからを思うと気が遠くなる。一先ず、家からそこまで離れていない場所をあてもなく歩いていた。川の近くにある茂みに光を見つけた。近くまで寄って見に行くと、蛍がいた。先程は一つだけだった光は、近づくにつれ一つ、また一つと数を増やしていった。膝をつけて蛍を観察していると、後ろで足音がした。目を向けるとそこにはりりかが、笑いながらこちらへと歩みを進めていた。
「きれいだよね、蛍」
「あ……うん」
「どうして依音は、ここにいるのかな? 今まで来たことないよね?」
その質問は、答えづらい。こんな理由、言っていいのか分からない。でも、私が信じているりりかには、嘘をつきたくない。
「家を、追い出されちゃって。居場所がないの」
返答が予想外だったのか、りりかは驚いたような顔をした。その後、優しく微笑みかけながら
「なら、私と一緒に暮らさない?」
と、提案した。
十年後。
ダダダダダダダダダ。デーン。
「あー!! あとちょっとでチャンピオン取れたのにー!!」
ここは地元から離れた、都会にあるマンションだ。地元から離れた場所にある高校に通うため、高校生ながらに一人暮らしを始めようとしていたりりかの住居に居座っている。りりかの家は意外にも金持ちだったらしく、働いてもいない私を養えるどころか、定期的にプレゼントをくれる程だった。今や二人共社会人で、りりかは大手企業に就職し、家事全般をやっている。対して私は、無職でゲーム三昧。私の存在が、りりかの足枷になっていることは悟っている。だが、今更私はりりかと離れることは出来ないだろう。精神面でも生活面でも。
「はーあ。もう萎えた」
ゲーム機の電源を落とし、ベッドに身体を預けてネットの海に沈む。タイムラインを流し読みしていると、とある言葉に目が留まる。
『彼女の誕生日忘れてて、翌日急いで祝ったらキレられたんやが。一日くらいよくないか?』
『それはお前が悪いわ』
『大事な人に大事な日忘れられたら、そらキレるやろ』
「誕生日って、祝うものなんだ……」
一人きりの部屋に、私の呟きが反響する。誰かに誕生日を祝われたこともなければ、誰かの誕生日を祝ったこともない。ベッドから飛び起きて検索アプリを開き、『誕生日 何をする?』と検索をかけた。自分が誕生日にどう過ごすか、などの検索結果が出てきたが、残念ながら私が求めていたものでは無かったので、先程のワードに『誰かの』という言葉を追加して再度検索をかけた。今度は求めていたような検索結果だ。一緒に旅行に行く、誕生日プレゼントをあげる、家事を代わりにやる等々。そういえば、母が華の誕生日に旅行に行くんだ、と意気込んでいた事もあったっけ。机の上に置いてある水色のヘッドホンと目が合う。確かあれはりりかが…………私の誕生日にくれたものだ! 思い返すと、毎年同じ日に様々なプレゼントをくれていた。随分前から密かに、誕生日を祝ってくれていたのかもしれない。そのことに今更気づくと。私の中に焦りが生まれた。
その夜、りりかが帰ってきてから、まず誕生日がいつなのか聞いた。
「えーと…………あ、明日だね」
終わった……。今から用意するのはきっと間に合わない。かと言って何もしないのは流石に……。また検索アプリに戻ってきて、色々なサイトを漁った。通販は時間がかかるし、外で買うにしても何がいいのか分からない。色々考えていると、いつの間にか寝てしまった。
目覚めると朝日が昇っていないのか、まだあたりは暗闇に包まれていた。昨日の思考の続きをしようとすると、とある検索結果を思い出す。
『家事を代わりにやる』
今の自分にできそうなものだと思った。そして、これを機に私も、この家で役立つ人間になれるかもしれない、という希望もあった。善は急げだ。りりかが起きる前に朝食を作ってしまおう。冷蔵庫を覗き、何か無いか探す。相変わらず、大家族の冷蔵庫の中身のように、食材がたくさんある。スマホで朝食の作り方を調べ、見よう見まねで作り始めた。料理は初心者レベルなので、主食は食パンに頼る。同時作業でパンを焼いていたら、少し焦げて全体的に黒くなってしまった。そんな感じで、キッチンであたふたしていると、りりかが起きてきた。私を見るなり目を見開いて、嬉しそうにキッチンまでやってきた。
「どうしたの? こんな早く起きて」
「た、誕生日……だから…………」
「あー昨日の。気にしなくていいのに……。でも、ありがと」
嬉しそうに笑う顔を見て、ホッと胸を撫で下ろした。
初めてと言える料理は火加減を間違えていたのか所々黒くなっていた。それでもりりかは目を輝かせながら口いっぱいに頬張って、美味しいと大げさに言った。喜んでくれたなら良かったな。今日は一日、りりかがやっているような家事をやってみよう。
「掃除、洗濯、洗い物……あとは買い物くらいかな」
指を折りながら、完了した家事を数える。あとは夕食用の買い物だけで大丈夫そうだ。といっても、冷蔵庫にほとんど揃っているので、買うもの自体は少ないが。準備を整えて玄関に向かう。中々家から出ないため、私の靴を棚の奥の方へ仕舞ったみたいだ。靴を引っ張り出して玄関のドアを開ける。空を黒い雲が覆っている。天気予報、見ておくべきだったなあ。雨が降る前に帰ってくるためにも、少し駆け足でスーパーに向かった。
* * *
普通じゃない。それに気づいたのは、残酷にも幼い時だった。
生き物が好きだ。生き物が持っている活気がある瞳に惹かれていた。だから手元に置こうとしたのだ。虫、鳥、蛙に蜘蛛。残念ながら、動物園の生き物は他の人のものだから、捕ってはいけないそうだが、それ以外であれば生け捕りにして飼おうとした。当時の自分は、生き物をおもちゃと紐づけていたのだろう。死んでしまったら壊れたのと同義で、すぐに捨てていた。今考えると、自分でも恐ろしい。
私の両親はとにかく頭がいい。そのため、私も英才教育を受けていた。
「どうしてこんな問題も分からないの! あなたなら解けるでしょう!?」
……苦しい。首を絞めているような、酸素が頭に回らなくなるような感覚。私が悪い子だから、きっと苦しいんだ。
私は、両親から受け継いだ学習能力で、悪い子には首を絞めてお仕置きをする、と学習してしまった。
私の部屋がジャングルになりかけていた頃、愛犬のアムが虫を食べてしまった。アムは悪い子だ。悪い子には、お仕置きをしなければいけない。部屋の片隅でアムの首を絞めた。私が感じる苦しさと等しくなるようにゆっくりと力を入れていく。私が感じていた時間分、じっくりと。もういいだろうと手を離した時、アムは動かなくなっていた。やっぱり、アムは悪い子だ。これくらいで壊れてしまうなんて。もう一度首を、と手をかけた時、お母さんが部屋に入ってきた。
「アムー? どこにいるのー?」
どうやらアムを探しているようだ。
「お母さん! アムならここにいるよ! ……でも、壊れちゃった」
「あなた……。何をやっているの……? それ、死んでるんじゃ……!」
お母さんは、ドラマでよくある金切り声をあげながら、私を押しのけ、アムに近づいてきた。
「どうしてこんなことしたの! 死んじゃうって分からなかったの!?」
私の方が聞きたかった。どうして私はまた苦しいんだろう。どうして私はお仕置きされているのだろう。悪い子はアムなのに。
「おかしい子……! 化け物……!」
その時分かってしまった。私がおかしいということに。
普通じゃないと自覚をしたら、普通を演じることができた。普通を知り、真似すればいいだけだ。お母さんは私の変わり様に、あの時は、悪魔でも乗り移ったのだと結論付けた。人生に面白みを感じなくなって、ただ息をしているだけの時に、依音を見つけた。初めて人間にきれいだと思った瞬間だった。依音を篭絡したい。今度は殺さぬように。
依音の噂をよく耳にした。今度は妹を殺しかけたという噂だ。むしろ親近感さえ湧いてくるような噂には、正直胸が躍った。教室を出て行った依音を見つけて、早歩きで追いかける。階段近くで物が落ちたような音が聞こえた直後、女子生徒の悲鳴が響き渡る。
「美香! 美香! 大丈夫?! 誰か! 救急車呼んで!」
「見つけた」
顔を上げた依音の顔は面白いくらいにびっくりしていた。
「ど、うして、ここに……?」
「さっき、ここに入って行くのが見えて。机を退かすのに手こずっちゃった」
正しく答えると、依音の息が荒くなっていくのが見て取れた。なんとなく、耳を塞いでみた。そうすると驚きからか、依音の呼吸は次第に元に戻っていく。目があったので微笑みかけて言葉を紡いだ。
「落ち着いた?」
「あ……うん。ありがとう……」
依音の横に腰掛け、何か言いたげな依音の言葉を待った。
「どうして……どうしてりりかは、私の傍に、いてくれるの?」
「うーん…………依音の事が、好きだから?」
からかい交じりに言ってみた。すると依音の顔はリンゴのように真っ赤になっていく。その顔はずるいな。
「ふふ、じょーだん」
「か、からかわないでよ」
依音のジト目もかわいいなあ、と思いながら、依音の表情に気付いた。不安そうな顔をしている。私には何が不安なのかは分からないが、この顔で外を歩くのはよくない。ほんのり赤く染まった依音の頬に手を添える。
「何が不安なのか分からないけど、私は依音のこと、嫌いにならないよ」
その言葉を聞くと、依音の右目から一筋の涙が零れた。添えた手で少し拭うと、依音は照れたようにそっぽを向いた。こんな距離感で、私たちは静寂を楽しんだ。
依音と交流を深め、さらに仲良くなっていき、どんどん年月が経つ。もう中学も卒業である。おまけに、私は地元から離れた場所にある高校に通うため、もうすぐ一人暮らしが始まろうとしていた。会えなくなるかもしれないというのに、依音はのほほんとしている。最後まで妙な噂は絶えなかったが、最初のころに比べると、幾分か澄んだ瞳をしていた。卒業式が終わった日の夜、家の付近を散策していた。最後に、私が一番好きな虫が見える川を訪れると、まさかの依音がいた。近づいていくと、足音で気づいたのか、こちらを振り返った。間違いなく依音だ。
「きれいだよね、蛍」
「あ……うん」
闇の中、限られた命を主張するかの如く、力強く燃える光が好きだった。むしろ私にとっての蛍が、依音という存在だったのだ。この世の闇を一身に受けて尚、輝く存在だった。
「どうして依音は、ここにいるのかな? 今まで来たことないよね?」
そもそもこんな時間に外に出ていることが不思議だったが、それは思春期の子供には酷な質問だと思い、内容を変えて聞く。
「家を、追い出されちゃって。居場所がないの」
返ってきた言葉は予想していたものとは大分違っていた。もし、行く当てがないのなら……
「なら、私と一緒に暮らさない?」
名案だと、自分で自分のことを褒め称えた。
十年以上経ったある日、仕事から帰ると天使が玄関先で待っていた。そして誕生日について聞かれた。てっきり誕生日を祝うことを知らないと思っていたから、さりげなく依音の誕生日にプレゼントを渡したりしていたけれど……。これからは堂々と渡しても大丈夫そうだ。私の誕生日は……
「えーと…………あ、明日だね」
自分の誕生日が気づいたら明日になっていた、ということはあるあるだと思う。依音はそっか、と静かに呟いて物思いにふけっていた。この様子じゃ聞こえてないだろうけど、一応気にしなくていいよと一言添えておく。
次の日。いつも通りの時間に目が覚める。リビングの方から生活音が聞こえてきた。まだ依音は起きないはずだけど、誰だろう……? 目を擦りながらリビングに行くと、キッチンで依音が食パンとにらめっこをしていた。
「どうしたの? こんな早く起きて」
「た、誕生日……だから…………」
「あー昨日の。気にしなくていいのに……。でも、ありがと」
食卓に少し焦げた料理が並ぶ。どの料理もお金を稼げるレベルで美味しい。依音には大袈裟だと言われてしまったが。
朝から依音の料理を食べ、依音に見送ってもらうなんて贅沢をしてしまっている。きっと人生で最高の誕生日だ。いいことはまだ続くようで、今日は定時よりも早く帰れることになった。いつもは定時を過ぎても帰れなかったため、今日は依音と過ごす時間が増えて嬉しい。軽い足取りで家まで帰る。玄関のドアを開けると謎に人気を感じなかった。そんな訳が無い。頭によぎる嫌な予感を振り払ってリビングに行く。依音が見当たらない。部屋にも、お風呂場にも、トイレさえ確認した。家のどこにも依音がいない。簡単に外に出さないために隠しておいた依音の靴を探す。……ない。外に出た……? 何のために……? まさか、私から……。いや、そんなことはない……はずだ。どうして……。どうして……。依音は、悪い子……? 考えている間に、家の鍵がガチャと音を立てて開いた。誰かを確認もせずに、見えた白い手を引っ張り込んで壁に貼り付けた。予想通り依音だったようだ。手と同じように白い首に手をかけ、感情に任せて力を込める。顎と首の間にある隙間に親指がくい込んでいく。依音の口から、かろうじて言語となっている言葉が紡がれる。
「ヒュッ……。り、りか…………。りり、か……」
その時、依音の頬をなぞる一筋の涙が垂れてきた。涙を見て一瞬力が抜ける。それに合わせるように依音が私のことを突き飛ばした。マンションの廊下などさほど広くなく、すぐ背中に当たった。……やってしまった。勝手に勘違いして、勝手に離れないだろうと確信をして。殺し、かけた。首を絞めている訳では無いのに、どんどん苦しくなってくる。あれ、呼吸ってどうやってやるんだっけ? 息がどんどん荒くなっていくと、呼吸を整えた依音が私を強く抱き締めた。息がしやすくなった気がした。抱き締められながら呼吸を整えていると、依音が泣きながら叫んだ。
「私に言ってくれてもいいじゃん!! りりかの馬鹿!! どうして私のことは想ってくれるくせに、りりかの気持ちは教えてくれないの?!」
依音が、怒っている。両親とは違い、温かい気持ちになる怒りだった。
「ごめんね、依音。ごめんね……」
私たちは二人でひとしきり泣き喚いた。
「今からご飯作るから待ってて」
二人共落ち着いてきた頃に依音はそう言った。そして、落としたであろう買い物袋を持ってこの場を離れようとした。そんな依音の腕を掴んで
「私も手伝う」
と言った。
「でも、今日は私が……」
「今は、依音と離れたくないの。ダメ?」
依音の方が折れてくれて、二人で夕食を作ることになった。やっぱりまだ初心者感のある依音と一緒になんとか作り上げた。二人で食卓を囲んで私はこれまでの事を依音に打ち明けた。
「そういえば、スーパーでケーキも見つけたから買ったんだけど……。少し、崩れちゃった……」
しょんぼりしながら言った。私がそれでも食べようと言うと食卓に追加で並べてくれた。一通り食べ終わると、ショートケーキを二人で頬張った。確かに形は崩れていたが、それでも美味しいケーキだった。幸せそうに依音は言う。
「ふふ、形が崩れてても美味しいね!」
歪な私だから 与野高校文芸部 @yonokoubungeibu
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