風車

与野高校文芸部

風車

 目覚まし時計が激しい音を出しながら、私のすぐ傍で振動している。これが一体どういう仕組みで動いているのか、私には全く解らない。ぼやける視界で時計を叩く。

 自分の部屋から階段を降り、リビングに出ると、閉ざされたカーテンの間隙から一筋の光が漏れていた。手を掛け、真っ二つに広げると、庭の草々が陽光で照らされ、微風に吹かれて気儘に踊っている。ふと、電気を点けるのを忘れていることに気づき、足早にスイッチを押す。途端に部屋が白色の光に包まれ、輪郭が曖昧だった家具たちが姿を現した。次にテレビをつけ、トースターで朝食のパンを焼く。慣れた手つきでそれらの機械を正常に起動させることが出来るが、製品自体がどう作られているのか、誰が開発したのか、気にも留めず、知りもしない。先人たちの努力の結晶が風となり、私はそれを受け止め回っている、かざぐるまのようだと思った。

 「「昨夜未明、XX町で殺傷事件が発生───」」

 テレビの中のアナウンサーが深刻そうに読み上げている。朝食を咀嚼しながら頭の中で今日の予定を立てていると、ふとニュース番組の左上の時間が目に入った。遅刻してしまう。早く支度をしなければ。バッグに荷物を詰め込み、玄関の扉に手を掛けた。

 駅のホームに出ると、いつもの時間に来るはずの電車が見当たらない。頭上の発車標に目をやると、到着予定時刻はとっくに過ぎている。改札を戻り構内へ入ると、一つの看板が置かれており、辺りに人混みができている。どうやら人身事故らしい。約一時間の遅延。私は振替輸送を活用し、学校に向かった。

 通常より遅れての到着だったため、教室には多くのクラスメイトの姿があった。周りを見渡すと、梶原がいつものように大声を出して笑っている。彼は相当面白いときに足をバタつかせて笑う癖がある。一緒に喋っているのは鴛田のようで、梶原よりは落ち着いた人物であり、淡々と話すのが特徴的だ。何か梶原がボケをかましたのか、鴛田が腹を抱えて笑っている。加えて、梶原のように足をバタつかせている。驚いた。ある程度付き合いを続けていると、人の癖も伝染するのか、と不思議な気持ちになった。

 私は誰に影響されているのだろうか。その時、チャイムが鳴った。一限の授業は美術だ。 続々と生徒が教室から出て、廊下に入道雲のような集合を成して歩いている。横の窓硝子から射す陽光がそれらを照らし、空が二つあるかのような錯覚に陥る。私たちと時間が、ゆっくりと流れていった。

 古ぼけた画材が放つ独特の匂いが鼻を刺す。入った瞬間、そこが美術室だとすぐに分かる。

 隅に置かれたイーゼルを持ち出し、画用紙をカルトンで固定する。それぞれが好きなものを油絵で描くのが最近の授業の内容だ。私は海外の街並みを描いている。蛍光色のタイルの上に、乱立する色彩豊かな家々。光の加減を表現するのが難しい。昨日は夜遅くまで起きていたせいか、眠い。ぼやける視界の中で、参考にしている画像に目をやる。遠くの方に、小さな家があることに気づいた。その家には煙突があり、先から仄暗い煙が伸びていた。(最近、行ってないなぁ…)心の中で呟いた。ふと耳を澄ますと、画用紙に筆を滑らせる音だけが空間を占めている。私も、描かなければ。筆を握る手の力が不意に弱まる。辺りを包み込む暖気が、まるで毛布に包まっているかのような心地を感じさせる。目の前の景色は霞み、頭が鉛のように重く、果てしなく広い海に沈む感覚がする。そのまま、微睡みの底へ落ちてしまった。

 私の目を覚ましたのは、チャイムの音だった。授業の半分以上の時間、私は夢の中だった。

 寝惚眼を擦り、意識を回復させるために一度、立ち上がった。辺りを見渡すと皆それぞれが、全くといって良いほどテーマの異なる絵を描いていた。使う色から幅が広く、自分にはない世界が、無限に広がっていた。私は無意識に他の生徒の絵を次から次へと眺めていた。その時、ある絵が目に留まった。

 猫の絵。灰色の毛に身を包み、小さな足を曲げて座っている。此方を見つめる眼光は妙に鋭く、光の加減が異常に上手い。くりくりとして丸みを帯びた、可愛らしい目のはずなのに、人間の目のような意識を持つ、生々しい感触が伝わってくる。両目、というより双眸。生物としての厳かな雰囲気が全面に押し出されている。それだけが独立して見えるくらい。いつの間にか、私の視界はその絵のみで満たされており、意識と身体が吸い込まれていった。その絵の前に立ち、思わず言葉を放つ。

 「上手いね…綺麗な猫。生きてるかと思った。特に、目が。」

 急に声を掛けられた生徒は肩を少し震わせ、後ろを振り向く。その後、驚いた顔は柔らかな笑顔に変わり、

「ありがとう。小学生の時、絵を描いてたら先生に目が上手って言われてから、それだけ沢山描くようになったんだよね」

 と照れながら笑った。

 なるほど、と思った。この瑞々しく魅力的な目は、昔の褒められた経験が糧となり、何度も描かれて生まれた結晶そのものだったのだ。感動すると同時に、微かな違和感を覚えた。この目が浮き立つあまり、絵全体の印象がない。よく見れば、この猫が座っている空間は銀灰色で塗られており、やけに殺風景だ。猫の後ろに聳え立つ壁。まるで独房のように。背景に、感情が無い。過去が、今を縛っているかのような。もし猫の目も同じように平坦なものだったら、それらは調和し、一つの絵として見ることが出来たかもしれない。けれど、この目だけが、乖離している。あの時、彼を褒めた先生の言葉が、今も呪いのように彼自身の奥底で深く根を巡らしているのだと。風に、カーテンが靡いた。


 陽に照らされた木々が柔らかい風に吹かれ、小さく靡いている。夏の暖気に身体全体を包み込まれ、汗が滲み出るのを肌で感じた。濡れた髪を額の左右に分け、目の前に居る故人の世話をする。手桶の中の透き通った水を掬い取る。柄杓を水に入れたとき、波紋が桶の端まで広がった。持ち上げると、柄杓から漏れた水が滴り、地面を湿らせた。丁寧に、大きな墓石の頭から掛ける。水がその表面を流れ、太陽光に反射して輝いた。相変わらず蝉の声が五月蠅い。目線を落として、辺りに繁茂している雑草を引き抜いていく。根が土の奥底まで伸びていて、想像よりも困難なものだった。下した腰を再び持ち上げて、父親が線香に火を点けているところを見た。先端から淡い光が漏れ出し、崩れ始めた場所から煙が上がった。独特な匂いが鼻を刺す。何度も嗅いだことのある匂い。何本か束ねられたその線香を貰い、そのまま香炉に差し出す。前に入れた色褪せてボロボロになった線香に火が移り、炭となって消えた。香炉の中に煙が充満し、空高く伸びた。あの時の煙突から出たのと同じ。手を合わせ、心の中で会話する。

(お元気ですか。私はもう高校三年生になりました。環境が変化し、また新しい自分に出会えることに喜びと小さな不安を感じています。私はこれから、どうなるのでしょうか。上手くやっていけるでしょうか。これからも、どうか、見守っていてください。)

その時だった。景色が一瞬、眩ゆい光に包まれ、私は思わず目を瞑った。耳の奥で、小さな声がする。私は耳を傾けた。

(貴方はきっと大丈夫です。貴方は誰も見捨てない、優しい心を持っています。それをどうか忘れないで、日々を過ごしてください。)

 はっ、と目を開けると、そこは変わらず、墓石の目の前だった。

 (誰も見捨てない、優しい心…)

 頭の中で、その言葉を反芻した。


 ある日の夕方。駅のプラットフォームで帰りの電車を待っていると、ホームの最前列で、リュックを前に背負い、脚が小刻みに震えている男の人がいた。彼は、点字ブロックの上に立っていた。

 「「まもなく、列車が到着致します」」

 電車が、激しい汽笛を鳴らしながら近づいて来る。地面が微かに揺れているのを感じた。家に帰ったら何をしようか、ぼんやりと頭で考えていたその時だった。

 突然、あの男の人が線路へと身を投げ出した。現実離れした光景に私は一瞬固まった。そして直ぐ、反射的に身体が傾いた。同時に、あの日の言葉を思い出した。辺りのものの動きがスローモーションになる。彼の横を目掛けて線路に着地する。意外と高さがあったのか、膝に衝撃が響いた。彼の手を掴み、不意に横を向いた時、目の前には大きな電車の姿があった。

 刹那。鈍い音が響き、視界は狭窄して暗闇に包まれた。


 ……


 「「昨日の夕方、XX駅で飛び降りたとみられる二人の……」」

 テレビでまた事故のニュースが報道されている。僕はリモコンを弄り、チャンネルを変えた。平和な旅番組が流れ、リポーターがやる気満々に喋っている。

 ふと、外の庭に目をやった。掃き出し窓から見える、向日葵たち。

 そのうちの二本の茎が、沈むように、そして短い音を立てて折れてしまった。

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