雛鳥はいつか羽ばたく
幸まる
決別の日
五月も終わりが近付いた頃。
領主館には、寄宿学校に入っていた領主長男エドワードが帰って来た。
一歳年上の長女クラウディアは、昨年卒業して領主館に戻っていた。
彼女は両親と幼い弟妹と共に、まだ春の気配を残す前庭で、成人した弟を迎えたのだった。
「お嬢様、エドワード様がお見えです」
「エドワードが? いいわ、通してちょうだい」
私室で専属侍女と共に本棚の整理をしていたクラウディアは、部屋の入り口近くから侍女に声を掛けられて首を傾げた。
前庭で出迎えた時に、挨拶は済ませた。
エドワードは旅装を解いたら、両親の下へあらためて修学報告に行ったはずだ。
ならばその後、すぐにこちらへ来たということだろうか。
侍女に案内されて部屋に入って来たエドワードは、
姉の部屋は、荷物を整理して一部梱包しているところだった。
「話は聞きました。一体どういうつもりなんですか!?」
顔を合わせた途端、エドワードが険しい口調でそう言うので、クラウディアは驚いて瞬いた。
「どういうつもりって?」
「婚姻のことです。辺境領地の後妻に入るですって!?」
エドワードは、この部屋に来る前に両親に修学報告をしに行き、その時、クラウディアの婚姻が決まったことを告げられた。
相手は、この領地とは王都を挟んで反対側の辺境領主であり、クラウディアの倍は年上の紳士だ。
そして、
「ああ、そのこと」
何のことはないという雰囲気で微笑と共に返された一言は、エドワードの胸を逆撫でする。
それで知らず、更に強い口調になった。
「何を呑気に! 姉さんならもっと良い相手がいくらでもいるでしょう!?」
「そんな風に言わないで。私が望んだのよ」
「望んだ?」
エドワードは強く拳を握った。
「…………姉さんはいつもそうだ」
「エドワード?」
「いつもいつも、私を避けてばかり。本当に欲しい物には決して手を伸ばさず、何も言わずに離れていく」
「ちょっと待ってちょうだい。何の話?」
突然放たれた内容に困惑して、クラウディアは笑みを消した。
エドワードは、いつでも微笑を絶やさない姉が表情を変えたのを見て、挑むように一歩近付いた。
「子供の頃からそうでした。菓子を選ぶのも、本を選ぶのも一歩引いて私に先を譲る。私が専属教師を付けて学び始めたら、その時間は必ず外に出ていた」
子供の頃、好きな物を選んで良いと言われると、クラウディアは必ずエドワードに先に選ばせた。
一つ上の姉はいつも優しく、先を行き、導いてくれる。
エドワードは賢い自慢の姉だと思っていた。
だが、何か変だと思い始めたのは、エドワードに教師が付いて本格的に勉学の時間を持つようになった頃だ。
まだ幼く、図書室で一緒に勉強していた頃は、飲み込みが早くて周りから褒められていた姉。
それなのに、突然一緒に勉強しなくなった。
エドワードが学ぶ時間、クラウディアは祖母と共に庭園で過ごす。
不思議に思って教師に聞けば、これから先の学びは帝王学にも通ずるもので、領主後継の男子に必要なものであるという。
つまりは、
今まであんなに楽しそうに勉強していたのに、姉はそれで良いのだろうか。
エドワードは、そう疑問に思ってクラウディアに尋ねてみたが、姉は「私はいいの」といつも通り微笑んだだけだった。
「学校生活だってそうです。私が入学する前までは、何でも意欲的に挑戦してたはず。それなのに、私が入学した途端に何もかも止めましたよね」
「そんなこと……」
「ちゃんと知ってます!」
エドワードは吐き捨てるように言う。
入学した時、上級生から「あのクラウディアの弟か」と言われた。
聞けば、エドワードの入学前の一年、クラウディアは最下級生ながら、多くの活動に参加して成果を残し、その存在感を確かなものにしていた。
母譲りの美貌や、人当たり柔らかで社交的な性格も手伝って、多くの生徒や教師達が彼女に好意を示していたのだ。
それなのに、エドワードが入学した途端に表立った活動をしなくなった。
まるで、エドワードよりも目立ってはいけないと思っているように。
直接問い質せば、「成人に向けて、貴婦人らしい振る舞いを身につけるべきだと思うから」と、姉は微笑んで見せた。
その時エドワードは、まただ、と思った。
エドワードはギリと奥歯を噛んだ。
彼の深い空色の瞳の圧が増すと、領主である父の強い眼力に近付き、クラウディアは思わず薄い唇を引き結んだ。
「姉さんにとって、私はそんなに不甲斐ないように見えますか。何もかも譲ってやらないといけない程、常に下がって引き立ててやらないといけない程に、ずっと出来の悪い弟だと思っていたんですか! 側にいれば私が領主後継として見劣りするから、領地から遠く離れようとしているんですか! この領地を愛しているのに!?」
まくし立てながら、強く握ったエドワードの拳が震えた。
「姉さんは私の前では決して欲しいものに本気で手を伸ばさないんだ!」
クラウディアは心底驚いて、大きく目を見開いた。
目の前で息荒く言葉を吐いた弟を見つめる。
一つ違いのエドワードとは、第四子のアントニーと末っ子のエミーリエがそうであるように、幼い頃は一緒に仲良く過ごして、たくさん遊んだ。
気心の知れた、近しい弟。
成長と共に深く関わることは少なくなったが、それでも姉弟の中では一番密な関係だと思っていた。
その弟が、今、その心中にあったものを吐き、本気で向き合ってきた。
クラウディアは何度か口を開いて閉じ、そしてゆっくりと息を吐き出した。
力なく首を振る。
「……そんな風に思っていたのね、エドワード」
姉が何を言うかと構えたままでいるエドワードに、クラウディアは微かに微笑んだ。
「私はあなたのことを、不甲斐ないとも、私よりも劣るとも思ったことはないわ。ただ、ずっと羨ましいと思っていたの」
「……羨ましい?」
「そうよ。領主になれる未来があるあなたが羨ましかった。……私はね、領主になりたいと思っていたの」
エドワードが驚いた顔をする。
クラウディアの言葉は思いも寄らないものだったのだろう。
そんな弟を見て、クラウディアは笑みを深めた。
幼い頃から母よりも父に憧れていた。
大好きなこの領主館の主であり、領地の人々を守り導く無二の役割を担う父。
父のようになりたくて勉学に励んだが、聡明なクラウディアはすぐに現実を知る。
この国では、女性が領主になることを認められていない。
ショックだった。
女に生まれたというだけで、クラウディアには継ぐ権利を最初から与えられない。
だからエドワードは、クラウディアにとって羨ましくも妬ましい、遠い存在だったのだ。
後継になるべく生まれた弟。
クラウディアがどう努力しても手に入れることの出来ないものを、最初から持っている。
「羨ましくて……妬ましかったわ。だからあなたを見ないようにしていたの。側にいれば嫉妬してしまう。こんな気持ちが沸く自分が嫌だったから、出来るだけ離れていたかった」
「そんな……」
姉の口から出た言葉は、エドワードに少なからず衝撃を与えた。
姉が“妬む”というような感情を抱くとは、露ほども想像したことがない。
しかもそれが、自分に向けてられていたなんて。
表情を歪ませた弟を見て、クラウディアは恥じるように目線を落とした。
一度だけ、その妬ましさから解放されたのは、寄宿学校に一年先に入学した時だ。
その時は、己に出来ることを全て試してみたくて、多くのことに挑戦した。
そして、一年後にエドワードが入学して来て、我に返ったのだ。
言葉の出なかったエドワードは、ハッとして首を振った。
「でも! でも、だからといって、こんな婚姻は結ぶべきじゃない! 姉さんはいくらだって選べるんだから、ちゃんと幸せになれる相手を選ぶべきでしょう!」
「……こんな姉でも、そんな風に思ってくれるの?」
「当たり前です!」
言い切ったエドワードに迷いはない。
わだかまりは確かにあったが、それでも姉はやはり自分にとって“良い存在”で、大事な者だ。
視線を上げたクラウディアは、エドワードと同じ色の瞳を嬉しそうに細めた。
「ありがとう、エドワード。でも、本当にこの婚姻は私が望んだものなの。投げやりに決めたことではないのよ」
「……どういうことです?」
「去年の式典で出会ったの。素敵な方だと思って、半年間お手紙で遣り取りをしてきたわ」
「それだけで!」
「同じ夢を追うの」
食いつくようなエドワードに向けて、クラウディアは晴れやかに微笑んだ。
「見つけたの。今度こそ、諦めたくないの」
去年十一月。
新成人を祝うお披露目式典で、参列する各領地の人々の中に、彼はいた。
その内容に強く興味を引かれて話をすれば、熱を持って語られる夢は、よりクラウディアの心を掴んだ。
それだけでなく、話し方や気遣いに好感を覚え、初対面であるというのに長く会話を続けていた。
領地を大切に思い、領民の為の学校を作る。
彼の強い想いは、式典を終えて領地に帰ってもクラウディアの心を離さなかった。
その心を知ったかのように、後日彼から手紙が届いたのだ。
季節の挨拶に、当たり障りのない日常のこと。
しかし、その人となりを窺わせる文字や文章はとても心地の良いもので、二人の遣り取りは絶えず続いていった。
そして、この春、正式に求婚された。
「求婚を喜んで受けたわ。私は領主夫人となって、彼と共に平民にも門戸を開くこの国初の領立学校創立を目指すの。そしていつか、幼年の子供らを導く教師になる」
強い決意と共に笑顔を見せるクラウディアは輝いているが、エドワードは唖然とした。
姉の口にする未来図は、まさに夢のようで、およそ実現することは難しいと思われたからだ。
「でも、それは……」
「ええ、分かっているわ。これを叶えるのは相当困難でしょう。それでも、もう諦めないと決めたの」
女では領主になれないと知り、ショックだったが、だからといって自分から何かを働きかけたわけでもない。
それで、ずっと心に重石を抱えることになった。
「領主になりたい」と自己主張さえしなかった自分は、そこで自ら諦めたのだ。
諦めた時点で、願いが叶うことは決してないというのに。
「自分の可能性を信じて生きると、決めたのよエドワード」
長い間があった。
はぁと大きく息を吐いて、エドワードが軽く首を振った。
力の入っていた両拳は緩んでいる。
「……よく父さんが許しましたね」
「大反対されたわよ。でも、お母様が許して下さったの」
「母さんが?」
「ええ。求婚を受けるのは夢の為だけじゃなくて、彼を好きになったからだと伝えたから」
クラウディアの頰にほんのりと赤みが差すと、エドワードは顔をしかめて反らした。
「……結局、我が家系の男子は女子に敵わないのですよ!」
「まあ!……でも、確かにそうかも」
クスクスとクラウディアが笑う。
空かした窓から入ってきた風が、額に掛かる金髪を揺らした。
風と共に流れて聞こえてきた明るい笑い声は、幼い弟妹のものだろうか。
ああやって共に過ごした子供の頃をふと思い出し、エドワードは顔を上げる。
クラウディアと目が合った。
しっかりと結い上げられたクラウディアの長い髪は、成人の証。
目を合わせたエドワードもまた、いつの間にかクラウディアよりも頭ひとつ背が高く、精悍なその顔つきからも、少年の雰囲気は消えている。
共に過ごした子供時代は去り、二人は大人になった。
そしてこれからは、本当に違う場所で生きていく。
分かっていたことではあるが、改めてそれを自覚した。
ひとつ息を吐いて、エドワードは一礼した。
「邪魔をしました。……ああ、そうだ。姉さん、跳ねっ返りを呆れられて、離縁されないようにして下さいよ」
「なんですって?」
「何と言っても、姉さんは人の背中にダンゴムシを入れるような“お転婆姫”ですからね」
憎々しげにそう言って睨み、エドワードは踵を返した。
「いつ出戻りになっても良いように、父さんと……私が領地を守っておきますよ」
目と口を大きく開いたクラウディアは、そのまま彼が部屋を出ていくのを見守ってから、吹き出す。
“お転婆姫”は、子供の頃祖母と庭園で土いじりをしていた頃に、庭師達から呼ばれていたヒミツの愛称だ。
おそらくは、両親も知らない。
それを知っているのは、離れて過ごそうとしてもクラウディアがエドワードを気にしてきたように、エドワードもまた、クラウディアのことを気にしてきた証拠なのだろう。
笑いを収めたクラウディアは、ゆっくりと胸に両手を置き、大きく息を吸い込む。
「私、頑張るわ」
この領地は、父母と共にエドワードをはじめとする愛する家族が守っていくだろう。
離れていても、大好きな人々はずっとクラウディアを見守ってくれる。
その確信を胸に、クラウディアはこの冬に嫁いでいく。
《 終 》
雛鳥はいつか羽ばたく 幸まる @karamitu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます