【総集編】ディンギル創世記~暁のメソポタミア~

やまのてりうむ

第1部:黎明編

第1話:旅立ちの章

 紀元前三千年、古代メソポタミア。生命の源である大河ユーフラテスのほとりに、ルースという名の小さな村があった 。日干しレンガで作られた質素な家々が立ち並び、豊かな水の恵みを受けた畑がどこまでも広がる、穏やかな土地。この村で、十五歳になる少年ジド・クルガルは、農夫の息子としてごく平凡な毎日を送っていた 。


 無口だが働き者の父エンメル、優しい母ニンナ、そして元気いっぱいの妹リーラ 。家族と共に食卓を囲み、日中は父の農作業を手伝い、汗を流す。午後になれば、幼馴染みのイシムたちと村の広場で泥だらけになるまで棒倒しに夢中になる 。そんな、ささやかで温かい日常こそが、ジドの世界の全てだった。彼が心の底から守りたいと願う、かけがえのない宝物だった。


 だが、その平穏な日々に、不吉な影が静かに忍び寄っていた。


 ある日の午後、ジドは村の東の空に、細く黒い煙が立ち上っているのを目にする 。まるで大地から天へと伸びる蛇のようなその煙は、彼の胸に言いようのない不安のとげを残した 。その夜の村の寄り合いで、長老ウルバは近隣の村々が素性の知れぬ悪党どもに襲われているという不穏な噂を口にする 。ジドが見た黒煙の話に、長老の顔は険しさを増し、村人たちの間に緊張が走った 。


「もっと力が欲しい……大切な人を守れるだけの、本当の力が……!」


 その夜、寝床の中でジドは強く願った 。しかし、その力がどうすれば手に入るのか、十五歳の少年にはまだ知るよしもなかった。


 翌日、その不安はあまりにも残酷な形で現実となる。村の東側に広がる放牧地で農作業に励んでいたジドたちの耳に、遠くから甲高い悲鳴と、荒々しい男たちの雄叫おたけびが届いたのだ 。


「盗賊だ! 東の放牧地が襲われてる!」


 父エンメルの鋭い声に突き動かされ、ジドは全力で村へと駆け戻り、広場の鐘を打ち鳴らした 。彼の必死の知らせに、村の男たちはくわすきを手に取り、現場へと急ぐ。だが、彼らがそこで目の当たりにしたのは、地獄のような光景だった 。


 十数人の屈強な盗賊たちが、剣や槍を振り回し、羊飼いたちを蹂躙じゅうりんしていた 。血を流して倒れる者、おびえて逃げ惑う家畜。村の男たちは、農具を手に必死で抵抗するが、武器の差、そして何より人をあやめることにためらいのない盗賊たちの残虐性の前に、なすすべもなく打ちのめされていく 。


「だめだ……全然、歯が立たない……!」


 ジドは、目の前で繰り広げられる一方的な殺戮さつりくに、恐怖で足がすくみ、ただ立ち尽くすことしかできなかった 。父エンメルも、必死に応戦しながら、いつ斬り伏せられてもおかしくない状況だ 。このままでは、村が全て奪われてしまう――。


 絶望が、その場にいる全ての者を支配しかけた、まさにその時だった。


 パカパカパカ……!


 重々しいひづめの音が響き渡り、土煙を巻き上げながら、ロバに乗った五つの人影が、まるで天からの遣いのように現れた 。聖都ウルクのエアンナ神殿に仕える、巡回部隊の神官たちだった 。


 先頭に立つ男の威圧感は、尋常ではなかった。岩のようにがっしりとした体格に、わしのように鋭い眼光。歴戦の強者だけがまとう、はがねのような気配が、戦場の空気を一変させた 。


「――片付けろ」


 ザンガ・アプスと名乗るその男の、低く、しかし有無を言わせぬ一言を合図に、神官たちの反撃が始まった 。


 それは、もはや戦いと呼べるものではなかった。神官たちの動きは、村人たちのそれとは比較にすらならない。滑るような体さばきで攻撃を避け、最小限の動きで相手の急所を的確に打つ 。彼らが振るう短い棍棒や短剣は、盗賊たちの武器をたやすく弾き、骨を砕き、戦意を根こそぎ奪っていく 。


 そして、指揮官ザンガの動きは、もはや神業かみわざの域に達していた 。まるで影のように敵の背後に回り込み、ジドの目にも捉えきれない速さの一撃が、盗賊たちを声もなく沈黙させていく 。村人たちが束になっても敵わなかった盗賊団が、まるで赤子の手をひねるように、あっという間に制圧されてしまったのだ 。


(すごい……! なんだ、この強さは……! これが、本物の力……!)


 ジドは、恐怖も忘れ、ただ目の前の圧倒的な「力」に魅入られていた 。何もできなかった自分。そして、全てを守りきった、あの神官たちの強さ。そのあまりにも大きな差が、彼の魂を激しく揺さぶった。


 衝動的に、ジドはザンガの前に歩み出ていた。恐怖よりも、力の根源への渇望かつぼうが、彼を突き動かしていた 。


「あなたは……一体……? どうすれば、そんな力を……手に入れられるんですか……!?」


 ザンガは、ジドの目をじっと見据えた。何かを値踏ねぶみするかのような深い眼差し。やがて彼は、短く、しかし重い言葉を口にした 。


「――力を欲するなら、神殿の門を叩け」


 その言葉が、ジドの心に深く、深く刻み込まれた 。


 悪夢のような一日が終わり、村は深い悲しみに包まれた。だが、ジドの心には、新たな決意の炎が灯っていた。彼は両親に向き合い、震える声で、しかしはっきりと告げた 。


「俺……ウルクのエアンナ神殿に行きたい。神殿に行って、力をつけたいんだ! 昨日、俺は何もできなかった! あんな思いはもうしたくない! 父さんや母さん、リーラを守れるだけの力が欲しい!」


「馬鹿なことを言うな!」


 父エンメルの激しい怒声が飛ぶ。農夫の子が神殿に仕えるなど、考えられないことだった。ましてや、それは命のやり取りをする危険な道。息子の身を案じる父の反対は、当然だった 。


 だが、ジドも引かなかった。守りたいものを守れない無力さ、その恐怖を、彼は必死に訴えた。父の目には、怒りだけではない、深い苦悩の色が浮かんでいた 。長い沈黙の末、父は重い口を開いた 。


「……分かった。……必ず、生きて帰ってこい。どんな形でもいい。だが、必ず生きて、我々の元へ帰ってこい。それができないなら、今すぐ諦めろ」


 それは、許しではなく、息子への最大限の愛情と、生きていてほしいという切なる願いだった 。


「……うん。約束するよ、父さん。必ず、生きて帰る」


 ジドは、涙をこらえながら力強く頷いた 。


 旅立ちの朝が来た。空はどこまでも青く澄み渡っている。母は涙を堪えながら固焼きのパンを手渡し、父は無言で息子の肩を強く叩いた 。妹のリーラは、手作りの泥人形のお守りを泣きながら握らせてくれた 。幼馴染みのイシムも、「もっと強くなって、俺をコテンパンにしてくれよ!」と無理に笑顔を作って見送ってくれた 。


(みんな……ありがとう)


 ジドは、込み上げてくる熱いものをこらえ、家族と、友と、そして生まれ育ったルース村に深く一礼した 。そして、前だけを見据え、ウルクへと続く乾いた道を、力強く踏み出した 。


 背中には、家族の想い。胸には、友との約束。

 一人の農夫の少年が、愛するものを守るための力を求め、今、壮大な旅へと歩き始めた。その先にどんな運命が待ち受けているのか、彼自身、まだ知るよしもなかった 。

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