39話「翌朝」

 翌朝。


 咲真は、鼻をくすぐる香ばしい匂いで目を覚ました。


 この部屋にはまったく似合わない――丁寧に用意された朝食の香りだ。


(……なんだ、この匂い……?焼き魚か?)


 寝ぼけ眼のまま布団から抜け出し、とりあえず顔でも洗おうと洗面所に向かう。


 キッチンの横を通りかかった、そのとき。


「おはようございます、咲真さん」


 この部屋で聞こえるはずもない、可愛らしい声。


 視線をキッチンに向けると、エプロン姿の可憐な少女が、菜箸を持ったままこちらに微笑んでいた。


「……あ、おはよう」


 条件反射で答えてしまった。


 そのまま洗面所へ向かい、水で顔をばしゃばしゃと洗い、歯磨き粉を豪快に付けた歯ブラシを口にくわえる。


 ……ん?


(なんか、今……眞白がいたような……?)


 泡立つ歯磨き粉のミント味をほとんど感じないまま、頭がようやく覚醒する。


(……いや、眞白!?)


 どたどたと足音を立てて、キッチンへと戻る。


「ま、ま、ま、眞白!?ど、どうしてここに!?」


「へ?」


 眞白はきょとんと目を瞬かせ、菜箸を傾けた。


「あの……お母様から聞いてませんか?」


「何を!?」


「昨日、凛さんが帰られた後、ポストを見たら……咲真さんの部屋の合鍵が入っていたんです。そしたらメッセージが来て……『咲真のことを気にかけてあげてください』って」


「…………あー、それは……すまん」


 思わず頭を抱える。母の独断専行、恐るべし。


「いえ。問題ないですよ」


 眞白は柔らかく笑い、手際よくフライパンを傾ける。


 鮭の皮からパチパチと香ばしい音が弾け、さらに空腹を刺激してくる。


「そろそろ朝食ができあがりますから……歯を磨いたら戻ってきてください」


「あ……あぁ。りょーかい」


 諦めて洗面所に引き返し、歯を磨き終えて戻ると、すでにテーブルには湯気の立つ味噌汁と、鮭の塩焼きが並んでいた。


 眞白の横に腰を下ろし、食器を一緒に運びながら思わず口をつく。


「……うまそう」


「ふふ。どうぞ、召し上がってください」


 味噌のやさしい香りが舌に広がり、焼き立ての鮭が口の中でほどけていく。


 こんな朝が自分に訪れるとは思わなかった。


 しばらく二人して食事を進めていたが、眞白がふと口を開いた。


「そういえば……咲真さんのご実家にお邪魔するお話ですけど」


「……あー、それがどうした?」


「今週末らしいですね♪とても楽しみです」


「……は?いや、俺は聞いてねーけど」


「でも、今日の朝に凛さんから連絡が……」


「いや、俺には何にも……」


 その瞬間、咲真のスマートフォンが震えた。


 ピコン。


 画面を見やると、通知に一行。


 『咲真に言ってもどうせ来ないですし!!』


 語尾に怒りマーク付きが付いているようにしか見えない。


 咲真は心の中で頭を抱える。


(……おいおい。リアルタイムで返事してくるな。なんか監視されてるみたいで怖ぇ……)


 咲真は心の中で頭を抱えながら、重たくため息をついた。


 その隣で眞白は静かに箸を置く。


 コップを両手で包んで湯気に目を細めると、少し真面目な顔つきになって咲真に向けて言葉を発する。


「……あの、咲真さん。今日の予定についてお伝えしてもいいですか??」」


「ん? 今日?」


「はい。午後から……結衣さんと雛さんが、私の部屋に遊びに来ることになっていまして」


「あー……」


 咲真は思わず眉を上げる。あの二人は眞白と特に仲が良い同級生だ。


 だが同時に――ここでひとつ、大きな問題が浮かぶ。


「……で、俺んちの隣が眞白の部屋ってのは?」


「言っていません」


「だよなぁ」


 即答だった。眞白は首を横に振り、その表情にわずかな緊張を宿す。


「だから……外出するときには気をつけてください。もし鉢合わせでもしたら、説明に困ってしまいますから」


 慎重に言葉を選ぶ様子が、かえって可愛らしい。


 咲真は頬をかきながら苦笑した。


「まぁ……そうだな。あんまりバレたくない話だしなぁ」


 彼女が自分の部屋の隣に住んでいることが知られれば、関係性を話すのには時間と説得力が必要になってくるだろう。


 しかも相手は同級生。噂が広まるのに時間はかからない。


「わかった。なるべく顔を合わせないようにする」


「ありがとうございます」


 眞白は安堵したように微笑んだ。


 その笑顔を胸に残しつつ、眞白と解散した後、咲真は部屋を出た。


 ――どうせ藤宮や天音に遭遇する危険があるなら、最初から出ていれば問題ない。


 眞白とはメッセージでやり取りできるし、二人が帰った頃合いを見計らって戻ればいい。


 そう考えて、咲真はシャツの背を伸ばしながら歩き出した。


 真夏の陽射しは街路樹の影を短く削り、蝉の声が鼓膜を埋め尽くす。アスファルトから立ち上る熱気がじりじりと肌を焼く。


 ポケットの中のスマホが震え、画面に「佐々木」の文字が浮かんだ。


『ちょっと頼みたいことがあるんだ。喫茶デュパンまで来てもらえるか?』


「……なんだよ、急に」


 短文に眉をひそめつつも、断れない相手だ。


 咲真は足を方向転換し、商店街を抜けてデュパンへと向かった。


 店の前に着くと、私服姿の佐々木さんが待っていた。


 腕の中には、真っ白な猫。


 雪のような毛並みが陽光を受けてきらめき、その瞳は青みを帯びて宝石のように冷たい。


「……急に呼び出して、どうしたんですか?」


 咲真が声をかけると、佐々木さんは少しバツが悪そうに頭を掻いた。


「あぁ、すまん咲真。実はな、親戚の猫をしばらく預かることになってな……」


「猫……ですか」


 咲真がまじまじと見つめると、その猫は前足を軽く動かし、彼の顔を射抜くようにじっと見返してきた。


 不思議と、見下ろされているような気がしてならない。


「店の中じゃ飼えないだろう? から、とりあえず咲真に預かってほしくて」


「えぇ!?そんなこと急に言われても……!」


 抗議の声を上げるより早く、その白く柔らかい存在は咲真の胸へと押し付けられた。


「店が終わったら引き取りに行くから。名前はミゾレって聞いてる。じゃあ、頼んだぞ咲真」


 佐々木さんは一方的に言い切ると、踵を返し、あっという間に店内へ消えてしまった。


 呆然と立ち尽くす咲真。腕の中には、柔らかくもずっしりとした重みがある。


 胸元に伝わる体温と、鼻をかすめるほんのり甘い匂い。


 猫の喉が小さく震え、かすかなゴロゴロという音が響く。

 

 同級生と会うことよりも、この猫を外で世話する方が大変だお思った咲真は、ため息をつく。


「……はぁ。とりあえず家に帰るか。な?」


 できる限り優しい声で語りかける。


 しかしその瞬間、ミゾレは片方の前足を振り上げ――


 ――ぱしんっ。


「いってぇ!」


 見事に鼻先へ肉球パンチが炸裂した。


 爪は出ていなかったが、それでも痛みはじんわり残る。


 咲真が涙目になって顔をしかめると、ミゾレは「ふん」とでも言うように尾を大きく振った。


 その瞳には、初対面の相手に対する警戒と尊大さがはっきりと刻まれている。


「……おいおい。俺、完全に下に見られてるじゃねぇか」


 嘆息しながらも、腕を放すことはできない。


 ミゾレは相変わらず堂々とした態度で、まるで「運べ」と命じているかのように収まっていた。


 咲真は渋々歩き出し、白猫と共に家路へ向かう。


 まだ仲良くなれる気配はまったくないが…。


 

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