27話「アクシデント」
休憩を終え、二人が待つ自習スペースへと戻った咲真は、眞白との会話を説明した。快く二人は承諾してくれたので、再び勉強会の準備を進めていた。その机に、3人が近づいてきた。
「八神さん、お待たせしました」
やわらかな声とともに現れたのは、七瀬眞白。
そしてその隣には、澄ました顔で立つ藤宮雛と、少し照れたように笑う天音の姿があった。
「やっと来たか!静かすぎて脳みそが死ぬかと思ったぜ。空気に潤いが戻った気がする~!」
「……柳田、それって私たちを空気清浄機か何かだと思ってるわけー?」
「違う違う、場が華やかになったって意味だよ」
そう言う柳田に、天音がため息をつきながらも笑みを浮かべる。その様子を見て、藤宮がくすっと口元を緩めた。
そして、すっと國木田の隣に立って告げる。
「國木田くん、もしよかったら……私の勉強、見てくれる?」
藤宮の申し出に、國木田はぴたりと手を止めて、目を丸くした。
「え、えっと……もちろん、喜んで!あの、どの教科からがいいかな?」
頬を赤らめながら慌ててノートを片付け、隣の椅子を引く國木田。藤宮も静かに微笑みながら、「では数学で」と数学の問題集を取り出した。
その様子を、咲真と眞白は斜め前の席から横並びで見守っていた。
「……いい雰囲気ですね」
ぽつりと、眞白が囁いた。彼女の視線の先には、教科書を開いた藤宮に身を乗り出して、懸命に説明する國木田の姿。
「あぁ、國木田、かなり舞い上がってるけどな。でも……藤宮さんも、なんだかんだ悪くない顔してる」
「……きっと、雛にとっても、“初めて”のことだと思いますから。とても楽しそうです」
小さく微笑んだ眞白。その横顔に、咲真はほんの一瞬見惚れた。
「……眞白」
「はい?」
「いや、なんでもない。なんかさ、いいよな、こういうの」
「えぇ。……素敵だと思います」
ふたりは自然と微笑み合う。机の上のノートはまだ開かれていないのに、胸の奥には静かに満ちていくものがある。
そんな穏やかな空気をぶち壊すように、隣から柳田の声が響いた。
「ちょ、天音!この問題、絶対に俺の理解を試すために悪意持って作られてるって!なあこれ、文章がさぁ、何?なんで唐突に山椒の話してくるわけ!?」
「だから、現代文は“読解”だって言ってるでしょ。山椒がどう文章に落とし込まれているのかをまず把握しなさい」
「俺、山椒アレルギーなんだよ!見るだけで拒否反応!」
「それ、食べ物にしか効かないでしょ!」
「いや、俺の脳が拒否ってるの!こういう語彙!」
ワーワーと騒がしい二人。
眞白が声をかけるより先に、図書館の静けさを守るように、すぐ近くのカウンターから司書が顔を出した。
「……静かにお願いします」
静かに――しかし確かに威圧感を含んだ声音に、柳田と天音の口が同時に止まる。
「す、すみません……」
「……ご、ごめんなさい」
ふたりがそろって小声で謝る様子を、咲真と眞白は「あらら」という表情を浮かべながら見つめると、再びノートを広げる。
「……さて、俺たちも頑張るか」
「はい。羽蛾さんにも、いい報告ができるようにしましょう」
それぞれのページをめくる音が、静かに重なっていく。誰かの支えになり、誰かと共に学ぶ。その時間は、テスト前という現実を忘れてしまうほど、どこか幸せな響きをまとっていた。
咲真と眞白は、並んだ机の上にそれぞれノートと問題集を広げて、肩を寄せ合うようにして勉強を続けていた。
「えっと、ここの問題、まず分母を揃えてから、こっちの公式を使って……」
眞白の指が、咲真のノートの余白にすらすらと導きの線を描いていく。
その横顔は真剣で、美しくて、でも少しだけ不器用で、そんな姿を見るのは何度目かになるのに、咲真はまたしても不意に胸の奥をくすぐられる。
「なるほど。……いや、七瀬、すげぇな。説明も丁寧で分かりやすいし」
「えっ、そ、そうですか?」
思わず顔を上げた眞白が、ぱっと表情をゆるませた。
その笑みがまぶしすぎて、咲真はちょっとだけ視線をそらした。
……そんな時だった。
コトン。
机の端に置かれていた眞白の消しゴムが、教科書の角に押されて転がり――カツ、カラ、と音を立てて床に落ちた。
「あ……」
「あ……」
二人の声がぴたりと重なった。
そのまま反射的に、ふたりとも同時に身を屈める。椅子の横から机の下をのぞきこむようにして、落ちた白い消しゴムに手を伸ばす。
咲真の指先が、先に届いた。
軽くつまみ上げて、立ち上がろうとした――そのとき。
「七瀬――」
消しゴムを手に、顔を上げる。
ちょうどそのタイミングで、反対側からも覗き込んでいた眞白の顔が近づいてきた。
その唇が、ふわりと。
咲真の左頬に、触れた。
柔らかくて、あたたかくて、軽い羽のような、ほんの一瞬の感触だった。
でも、空気が――時間が――止まった。
ふたりは、目を見開いたまま、凍りついたように動けなかった。
机の下の、狭くて静かなその空間で。
「……っ!?!???」
眞白が弾かれたように身を引く。椅子の脚に背中をぶつけて、ぴょこんと跳ねるようにして座り直すと、両手で頬と口を覆った。
耳まで真っ赤になって、目を泳がせている。
一方の咲真も、言葉を失っていた。
(な、なんだ今の……!?)
自分の手の中に残っているのは、ただの消しゴム。
でも、それよりも――
頬にほんのり残る感触と熱が、思考を止めていた。
咲真はそっと、無言で自分の頬を手で隠す。心拍数が明らかに上がっているのがわかる。
(あれは事故だ。事故……だけど……いや、近い、眞白の顔、近かった……)
「八神と七瀬さん、どうかしたか?」
ふいに聞こえてきたのは、柳田の呑気な声だった。
咲真と眞白はぴくりと揃って肩を跳ねさせる。
柳田が首を傾げながら振り返ると、ふたりは同時にビシッと背筋を正して、赤らめた顔を伏せるようにしながら――
「なんでもない」
「な、なんでもありませんっ……!」
眞白の声はやけに高く、咲真の声はいつになく低かった。
ふたりの間にある空気は、微妙に震えていて、なのにその原因を知っているのは、彼ら二人だけ。
咲真は、拾った消しゴムを眞白のノートに上に、ゆっくり置いた。
冷える図書館の中、二人だけが外にも負けぬあつさを身に纏っていた。
こうして、勉強会は幕を閉じていった。
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