21話「伝えるべき想い」

 親子の笑い声や仕事帰りのサラリーマンが吐き出すため息。制服姿の学生たちの軽やかな足取りと、楽しそうな談笑が、眞白の耳を攫ってくる。


 夜を迎えた駅の構内は、そんな人たちのざわめきに満ちていた。


 そんな雑踏の中で、七瀬眞白はひとり、静かにホームに立っていた。


 足元を抜けていく空気は、生ぬるい。夏の予兆を感じさせるようだった。


 眞白の胸の内は、温かさと、ざわめきに揺れていた。


 國木田たちとは、駅の改札を抜けたところで別れた。


 みんなそれぞれ、家の方向が違うから、自然とそういう形になった。


 藤宮は、祖母の家に寄ると言って、違う路線へと向かっていった。


 そして、今。


 気がつけば、眞白はこの駅で、独りになっていた。


 けれど――寂しさは、不思議とない。


 それよりも、今日一日を思い返すたびに、胸の奥がふわっと膨らんでいく。


(とても、楽しい一日でした)


 ボウリングにビリヤード、卓球にバレーボール。

 大勢の友人たちと共に笑い、協力し、楽しんだ。


 いつもの七瀬眞白では味わえなかった、賑やかで眩しい時間が、まだ心の中で続いているようだった。


 そして、一番心に残っていること。


(ーー咲真さんが……助けてくれました。自分の危険を顧みず、私のために……)


 思いがけない兄との遭遇。


 あの人の冷たい言葉と行動に胸が苦しくなって、もう駄目だと思ったとき、眞白の前に立ってくれたこと。


 彼の背中は、大きくて、安心できて、希望を感じた。


 あの時、名前を呼んでくれた彼の声が耳から離れない。


 また、ドクンと鼓動が跳ねる。


 少しだけ、頬が熱くなった。


 だが、ひとつだけ、眞白には気に掛かってならないことがあった。


 大切な友人ーー天音結衣のことだった。


(私が戻ってきてからの結衣さん、どこか表情に沈みが感じられました……テンションや言葉はいつも通りだったけど、どこか、その瞳の奥に、底知れない不安が見えた気がします……)


 でも、あの時は彼女の心に踏み込む勇気が出なかった。


 兄に遭遇して萎縮したわけではない。


 ただ、その問いが、彼女の心を傷つけてしまわないかが気に掛かったのだ。


(大丈夫だったらいいのですが……)


 眞白は視線を落とし、制服のスカートをそっと握る。


 生暖かい風が、彼女の髪をそっと撫でた。


 気づけば、電車の到着を告げるアナウンスが、ホームに響いていた。


 ゆっくりと顔をあげ、近づいてくる電車に目を向ける。


 今日という一日が、確かに心の中に刻まれている。


 そう思うと、前を向けるような気がした。


 プシューという音とともに、電車が静止する。


 扉が開き、中から沢山の人が出てくる。


 眞白は、軽く息を吐き、一歩を踏み出そうとしたその時――


「――待って」


 ふいに、手首を掴まれる感触と、聞き慣れた声。


 驚いて振り返ると、そこにいたのは――天音だった。


 天音は、その場に凛と立ち、真っ直ぐに眞白を見つめていた。


「お話しをしよう、眞白ちゃん」


 電車のドアが静かに閉まり、発車のベルが鳴る。


 車体が軋む音とともに、眞白の乗るはずだった電車が、ゆっくりとホームを離れていった。


 静まり返ったホームに、ふたりだけの時間が流れ始める。


「……お話し、ですか?」


 眞白は、少し戸惑いながら尋ねた。


 けれど天音は頷いた。その表情は、いつもの柔らかさとは違っていた。


「うん。大切なお話しだよ。……今、どうしても伝えたいの」


 その瞳は、まっすぐで、少しだけ揺れていた。


 言葉を選んでいるような、でも、決して目を逸らさない意志がそこにあった。


 そう感じた瞬間、眞白の胸の奥にも、静かな決意が芽生えた。


 自分が感じた天音の違和感を、知りたいと思った。


「……わかりました。私も、お話ししたいことがあります」


 ぎゅっと握られたままの手が、温かい。


 その温度に背中を押されるように、眞白はそっと微笑んだ。


 暫く沈黙が流れた後、先に口を開いたのは天音だった。


「眞白ちゃん、今日のボウリングのとき、ドリンクを取りに行って、すぐ戻ってこなかったよね。八神が迎えに行って、二人で帰ってきたけど、何かあったの?」


  その声音には、責める色はなかった。ただ、心から心配している優しさが、そっと滲んでいた。


 ――そのとき、眞白の中で何かが繋がった。


(さっきの結衣さんの表情……あれは、心配してくれていたんですね)


 ふと心に浮かぶ、あの優しくも、どこか不安気な笑顔。


 言葉にしなくても、気づいてくれる人がいる。


 だからこそ、安易に誤魔化すことができなかった。


(結衣さん、やっぱり……優しいですね)


 けれど、口はまだ動かない。


 兄との問題は、まだ何一つ解決していない。


 むしろ、咲真のことまで巻き込んで、悪化しているようにすら思える。


 これ以上、彼女まで巻き込んでしまうわけにはいかない。


 でも。


 ――このまま、何も言わずに黙っていたら、彼女の振り絞った勇気を踏みにじってしまうことになる。


 眞白は息を吸い込んで、静かに、けれどはっきりと目を見て言った。


「……ごめんなさい。今は言えません。けど――いつか、必ず、結衣さんに伝えます。だから、少しの間、待っていてくれませんか?」


 その声には、迷いはなかった。


 言葉を選びながらも、天音を大切したいという思いだけはしっかりと込めて言う。


「大切な友だちであるあなたに、私はいつか……このお話に繋がる全てを、聞いてほしいって、そう思っています」

 

 再び、静寂な時間がホームに流れる。


 数秒経った頃、天音は納得したように微笑むと、眞白の手をそっと握り直す。


「……うん、分かったよ、眞白ちゃん。私、待ってるね」


 その笑顔は、何も求めない。


 踏み込むと決めた彼女が得た結果。


 彼女が得た想いは“待つ”こと。


 なら、その言葉を大切にしたい。


 ただ、信じて、友だちを待つと決めた人の、柔らかで温かい強さが宿っていた。


「ありがとうございます……結衣さん」


 ぺこりと頭を下げようとした眞白に、天音が少し口をとがらせる。


「“結衣さん”じゃなくて、“結衣”。そう呼んでほしいな」


 眞白は一瞬、目を丸くする。

 そして、照れくさそうに目を逸らす天音を見つめて、小さく微笑んだ。


「……はい。結衣。これからもよろしくお願いしますね」


 その言葉に、天音の顔が一気に綻ぶ。


「こちらこそ、よろしくねー!」


 そのまま、彼女は勢いよく眞白に抱きついた。


「ゆ、結衣っ、人が見てますよ……っ!」


「関係ないもーん♪」


 天音は、まるで先ほどの真剣な顔など忘れてしまったかのように、いつもの天音に戻っていた。


 そんな彼女の腕の中で、眞白はふと視線を動かす。


 同じホームの奥。

 そこに立っていたのは――咲真だった。


 静かにこちらを見つめていた彼と、目が合う。その瞳からは、安堵の視線を感じる。


 そして、咲真は気づいたように、小さく手を振った。


 眞白の胸に、優しい鼓動が生まれる。


(……また、あなたに助けられてしまいましたね、咲真さん)


 ありがとうの言葉を心に浮かべながら、眞白はそっと微笑み返した。


 再び、電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。


 眞白と天音。


 二人は、手を繋いだまま、待っていた。

 


 

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