【第十章 祝福の種子、呪いの風に抗って】
王都ラウグレイアの春は、埃を含んだ軽い風から静かに始まる――冬を脱ぎ切れない匂いが城壁にまとわりつく頃、旧王宮の外苑では薄い陽射しと鍛冶の金槌が交互に鳴っていた。
黒剣の浪人エリアス・ヴェルムントは、まだ赤脈が沈黙したままの刃を腰に感じながら、その音を胸へ吸い込む。隣で銀鏡を布に包むリリアは、ときおり焦点を失う視界を閉じ、残った感覚を確かめるように自分の頬を撫でた。
そこへ夜通し執務を終えた宰相補佐シルヴェストル・ルーンが姿を現す。青ざめた額に凍る汗を拭い、彼は二通の旅券を差し出した。暫定政府の新印には《言葉は種子》と刻まれている。
「三か月有効です。芽を育てた人は免税になりますから」と補佐官が説明すると、リリアは銀鏡を抱いたまま微笑んだ。「声を縛った国が、今度は芽で赦しを量るのね」
そのとき庭師の道具を手にした旧王エドリアン三世が廊下を横切り、掌ほどの鉢植えをエリアスに託した。
「祝福の麦だ。風を歩くお前たちに任せよう」
王は庭師のような足取りで去り、門扉の陰に消えた。
やがて控えめな鐘が昼前を告げ、旅立ちの時刻が近づく。シルヴェストルが門まで見送りながら囁いた。
「剣が抜かれず、鏡が奪わない旅の実例を、できるだけ遠くへ撒いてください」
エリアスは黒剣の柄を叩き、リリアは鏡の包みを結び直す。二人は会釈し、外輪丘陵へ馬を進めた。
* * *
石畳が赤土へと変わる坂を下ると、王都の灰を含む風が背中を押した。分岐点でリリアが馬を止め、北へ向かう砦跡の道標を見やる。
「砦へ寄る?」
しかしエリアスは湿原を指し示した。「沈黙が長くこびり付いた土地から始めよう」
道を選んでしばらくすると、リリアがふいに呟く。
「今朝のハーブパンの味がもう思い出せないの。昨日の朝食は覚えているのに」
エリアスは前を向いたまま答える。「焦げた蜂蜜の甘さとローズマリーの湿り香。――俺が覚えておく」
鏡の奥で微かな脈動が合図のように震え、リリアは小さく息をついた。
* * *
湿原へ降りる手前、苔むした古砦跡で野営の支度を整えると、土の上で螺旋を描く少年と出会った。干からびた麦束を抱え、風を読もうとしているらしい。
話を聞けば「風に揉まれた麦は甘くなる」と司祭から教わったという。
エリアスは王の鉢植えを示して共に試すことを申し出、リリアは鏡を火にかざして見守った。鏡は何も映さないが、裏紙片が温もりを帯び、代償の痛みは訪れない。夜半、火花が上がる瞬間に黒剣が一瞬だけ朱を灯すが、刃はすぐ沈黙した。
その夜、麦の土皮が割れて銀緑の芽が顔を出すと、リリアは指で露を掬って舌に落とす。甘い水の味がした。エリアスは帳面へ短い詩を刻み──
麦芽 風に触れ
声を宿す
──眠る少年を毛布で包んだ。
* * *
夜明けの湿原に立つ境界村は、沈黙税を逃れた者が寄り添う集落だった。早朝の広場で村長の女が破れた布告文を掲げ、未知の旅人に朗読を求める。
エリアスがその威圧的な文を読み上げると、黒剣は淡い光を放つが赤脈は静かなまま。
リリアが鏡へ文を映すと、裏紙片に銀色の一行が浮かび、村長が震える声で読み上げた。
字が在る限り 声は還る
すると子どもたちがささやくように押韻を試み、長い沈黙がほぐれはじめる。鉢植えの麦は風を受けて微かに揺れ、鏡も剣も穏やかな光を返した。
* * *
日暮れの丘陵で一行は野営の火を囲んだ。エリアスが無意識に鼻歌を口ずさんだ瞬間、リリアの胸に稲妻が走る。♪遠い灯りは 東の空――弟が好んだ旋律だ。忘却の霧の奥から、色のない笑顔が瞬きだけ現れて消えた。彼女は手袋の中で指を結び、記憶の火をそっと守った。
同じころ王都では、騒動で落としたまま行方の分からなくなったシルヴェストルの帳面が薄暗い路地で泥に濡れていた。通りすがりの身なりの貧しい少年がそれを拾い上げ、月光の下でページをめくる。白紙だったはずの最初の見開きに、黒インクがじわりと浮かび上がる。
声を奪う者を 赦しで裁け
少年は驚きとともに胸へ抱えた。手帳は次の頁を音もなくめくり、まだ見ぬ言葉を待つように白く輝く。ラウグレイアの夜風が静かに吹き過ぎ、王都の石畳に新しい運命の火種を運んでいった。
* * *
麦は風を食み、鏡は奪わず預かり、剣は過去の重石として背に残る。
二人は呪いと祝福が混ざり合う旅路を、次の季節へと乗り出した。
そして丘の向こうで消えゆく夕景の中、リリアは布越しに鏡を撫でながら静かに誓う。
――奪われても、必ず返してみせる。未来も、過去も、声も――。
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