【第五章 白紙の祈り】
風が尾根をわたり、干草を押し倒していく。耳の奥で遠い潮騒のように鳴り、丘陵一帯を乳白色の靄が包んだ。灰でも雪でもない、失われた記憶の粉塵が舞っているような錯覚――リリアはそんな白さの中を、どれほど歩いたか覚えていない。
歩く理由を忘れても、足は止まらない。道端の転石に腰を下ろし、小さな手帳を開く。最初の頁に書かれた〈リリア・アーヴェント〉という名前が目に刺さった。自分の筆跡なのに、読みかけの小説の登場人物を見つけたような感覚。ページを繰ると、助けた村、避けた災厄の日時、誰かの笑顔が列記されている。だが文字は挿絵のように平たく、心の温度と結びつかない。
――私は、誰かだった。
その実感だけが骨に残り、「私とは誰か」を示す肝心の記憶だけが欠けている。
突風が頁をめくり、紙片が高く翻った。追いかけ、指先で掴む。乾いた紙に掠れた筆跡――
> あの人を、もう一度探す。未来が赦すなら必ず。
"あの人"の顔も名も思い出せない。それでも紙面に残る強い筆圧が、過去の自分と現在の自分を縫いとめる唯一の糸だ。胸の奥で火が灯る音がした。
鏡を取り出す。くもりかけた表面に映る自分の顔は薄い影法師に過ぎない。けれど確かめることはできる。リリアは囁く。
「彼は、今……どこ?」
水面のように揺らぎ、灰に染まる廃町の像が浮かんだ。倒れた兵士のそばに立つ黒い剣の影。顔は霧に隠れていても、心が告げる――彼は生きている。
像が消えると、胸の火は熾から炎へ変わった。理由が砕けてもいい。記憶が欠けてもいい。救いたいと望む意志だけは、本物だ。
手帳の次頁を開き、震えのない指で記す。
> 私はリリア・アーヴェント。未来を視る者。
> 理由を忘れても、意志を忘れない。
> 誰かを救うために視る。たとえこの名をふたたび失っても。
余白に追記する。
> 彼が今日も、この世界で息をしているように。
インクが乾く前に、目頭が熱く滲む。しかし涙はこぼれない――出し方を思い出せないだけだ、と自分に言い聞かせる。
* * *
風上へ歩き始めたとき、野道の脇で旅の修道士が倒れているのを見つけた。額に汗、息は浅い。リリアは水筒を差し出し、脈を測る。荒い呼吸が落ち着くまで寄り添うと、修道士はかすれた声で話し始めた。
「……わしは写経僧だった。王の沈黙令で書を禁じられ、都を追われてな……」
震える掌に一冊の薄帳が握られている。王命により墨消しされた写本らしい。失われた言葉の白さが、いまの自分と重なった。リリアはページをそっと撫でた。
「書くことは灯ですね」
「灯だ。声を奪われても、書けば残る」
修道士は微笑し、地図の切れ端を差し出した。海沿いの町に逃れる途中だと示す×印がある。「海門町」と擦れた墨字。礼を述べると、彼はコインより笑顔を欲した。リリアはうなずき、再び歩き出す。
* * *
丘を越え、麦畑の亡骸を抜け、古い道標を見つけた。風化して読めるのは最後の二文字〈—港〉だけ。鏡に視えた廃町の石材と、道標の柱石が似ている。「きっと海沿いだ」と当たりをつけ、傾きかけた午後の陽を背に下る。
夕暮れ。潮の匂いがかすかに混じり、遠くでカモメが鳴いた。坂道を降りると、瓦礫と灰に覆われた家並みが広がっている。火災は今朝収まったばかりらしく、家々の骨組みがまだ煙を吐いていた。
倒れた兵士の周囲には黒い切り痕が残り、乾きかけた血が赤黒い。リリアは喉の奥で息を詰める。鏡で見た光景が現実と重なり、胃が冷えた。だが黒剣の男の姿はない。
胸の鏡が熱を帯びる。近くの瓦礫に血で汚れた紙片が落ちていた。拾えば、帳面の切れ端。墨は滲み、だが一語だけ濃く残る。
> 守れず
筆致を見て膝が震えた。エリアス――あの剣士が書いたに違いない。視えた未来が変わり切らなかった証。だが「守れず」の一語は、まだ諦めていない者の声にも読めた。
リリアは切れ端を手帳へ挟み込み、瓦礫の先へ走った。火のにおい、血の鉄臭、そして海塩の匂いが混じる。けれど剣士は見当たらない。足跡は浜辺へ向かい、波にさらわれて消えていた。
鏡を握り、視界に浮かぶ残映と現実を重ね合わせる。倒れた兵士の配置、崩れた桟橋、剣の痕跡――位置が数歩ずれている。未来はまだ動く余地を残している。胸の奥で炎が揺れ、リリアは静かに誓った。
「必ず、追いつく」
* * *
夜。雨雲は去り、月が海面を銀に染める。リリアは浜の外れ、崩れた倉庫跡に身を潜めた。鏡を開くのはやめておく。視ればまた何かを忘れる。かわりに修道士からもらった白帳を取り出し、空白の頁へ線を引く。
> ここに、これからの記憶を編む。忘れても、誰かがもう一度読めるように。
ペン先が震えず真っすぐに進む。夜気が紙を冷やし、インクが静かに乾く。遠くで波が瓦礫を洗う音――そのリズムを心臓がなぞる。名も過去も完全ではない。それでも書くべき余白は残り、追いかける背中も残っている。
白紙が月光を弾き、手帳が浅い光を宿す。その微かな灯を胸に、リリアは体を丸め目を閉じた。潮の匂いが新たな頁をめくり、火のない夜を静かに温めていた。
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