氷結の世界①

世界が、凍りついた。


「──《零式結界(グレイシャル・ドメイン)》」


氷室紅がその名を告げた瞬間、空気が一変する。


足元から広がった冷気は地を這い、瞬く間に訓練場の市街地を覆い尽くした。建物の壁は霜に覆われ、瓦礫の隙間からは白煙のような吐息が立ち上る。光は淡く青白く屈折し、まるで空間そのものが氷の檻と化したかのようだった。


「……っ、寒……っ!」


燐の呼吸が白く凍る。肌を突き刺すような冷気が皮膚の下を這い、筋肉の動きを鈍らせる。視界は靄がかったように白く濁り、吐く息さえ喉を焼くように重い。


「ここは……もう、彼女の領域ってことか」


真白が身をすくめながらつぶやく。その声に、氷室の澄んだ声が重なる。


「ええ。これが――私の“作り出す世界”。氷理結晶クライオ・フォーミュラの真骨頂」


空間全体に広がった氷の陣は、ただの氷結ではない。


「温度低下、視界妨害、呼吸干渉、動作遅延……それらすべてを“計算”し、私が有利になるよう設計された世界ですの」


氷室の瞳は、まるで数式を読み取るように冷たく、正確だった。


燐が走り出す。光剣を手に、氷室に迫ろうとするが――


「……っ、動きが……!」


足が重い。関節が凍ったかのように硬直し、踏み込みの勢いが削がれる。氷室との距離を詰める前に、地面から突き上げる罠が足元を襲った。


「《地走轟(グランド・ストライド)》!」


土岐が叫ぶと同時に、燐の足元が隆起し、氷と岩が混じったような地殻が炸裂する。咄嗟に跳躍してかわすも、その着地すら冷気によって制御が乱れた。


「っ……!」


そこに回り込む影が一つ。


土岐隼人だった。


彼の右手には、淡く白い結晶のような氷が絡みついている。


「ごめんね、燐くん。こっちも余計なこと考える暇、ないんだ」


その拳が、凍てついた風とともに振るわれた。


「……がっ!」


燐の身体が吹き飛ぶ。


氷を纏ったその一撃は、通常の拳とはまるで異なる質量と破壊力を伴っていた。受け止めた剣は大きく弾かれ、地面に叩きつけられる。


「燐くんっ!」


真白が駆け寄ろうとする。だが――


「おっと、それ以上は前に出ない方がよくってよ」


氷室が右手を翳すと、真白の前に小さな氷の弾が次々と生成される。構築、設置、冷却、発射まで――すべてが術式として自動処理されている。


(……これが……“コードを極めた者”の戦い……!)


燐は歯を食いしばり、氷の床に膝をついた。


攻撃は読まれ、空間そのものが敵の支配下にある。


しかも、土岐までが氷の恩恵を得たかのように攻撃力を上げてきている。


「空間支配ってレベルじゃねぇ……!」


振り返ると、土岐が肩をすくめるように笑った。


「氷室のこの技は、“味方の座標”をも補正してくれる。こちらの足場だけ滑らねぇし、周りを固定する事で踏み込みも安定する。相手にとっては罠だが、こっちにとっては“強化バフ”ってわけです」


「敵に回すと厄介、味方にいると頼もしい――そういうタイプ、ですわ」


氷室の声に、冷たい自信が滲む。


「さあ……どうなさいます? 結城燐、天音真白」


その足取りは優雅でさえあった。


彼女は“戦場”を、まるで舞踏会のホールのように歩いていた。


結界の中――氷室紅と土岐隼人は、明確に“主導権”を握っていた。


---


―《零式結界(グレイシャル・ドメイン)》―


辺り一面が、氷に沈んでいた。


氷室紅のコードが完全発動され、空気そのものが変貌している。吐き出した息が白く、肺に突き刺さるような冷たさで内部を蝕んでくる。


視界は白い霧に包まれ、まるで雪山の嵐の中に放り込まれたような錯覚を覚える。地面は凍てつき、踏み出すたびに足元が不安定になる。


「……これが氷結の世界……!」


燐は奥歯を噛み締めながら、光剣を構えた。氷室の結界は単なる視覚妨害や足止めではない。冷気そのものが、彼の体温と反応速度を着実に奪っていく。


(……重い……体が……)


振るった剣が、空を切る。鋭い一撃のはずだった。それでも、氷室に届く前に速度を失い、弾かれた。


「っ……!」


逆に、氷を纏った土岐の拳が襲いかかる。


「せいっ!」


「ぐっ……!」


直撃は避けたが、氷で補強された拳が肩をかすめるだけで、体が痺れるような痛みを覚える。氷と地の連携が、“戦場支配”という名の圧力として燐たちに襲いかかっていた。


土岐の足元からは石柱、岩壁、棘付きの罠。氷室の空間術式は全ての動作を先読みして構築されている。


(……動けない。いや、このままじゃ押し切られる――)


だが、そのときだった。


「――《響醒律波(きょうせい・りっぱ)》!」


透き通るような、でも確かな声が響いた。


真白の指先から放たれた淡い光が、燐の身体を包み込む。


冷気が剥がれるように散り、息が楽になる。感覚が戻ってくる。

これが戦闘前に言ってた真白のもう一つの新技...


「……ありがとう、真白」


振り返った燐に、真白は微笑んで頷いた。


そして彼女の脳裏に、ひとつの記憶が蘇る。


-------------


――あの日。カゲト戦の直後、深い無力感に包まれた彼女は、ひとり神代沙羅を訪ねた。


「……私、守られてばかりなんです」


神代は何も言わず、ただ優しく微笑んで話を待ってくれていた。


「足手まといになりたくない。私も、誰かを守れる力がほしいんです。……技が、力が、欲しいんです」


真白の言葉に、神代は少しだけ目を細めて答えた。


「コードとは――元来、願いを形にするものだと私は思っているよ」


彼女は窓の外を見ながら、続けた。


「君がその願いを、本当に強く想うなら。きっとカタチになるはずだ。あとは、それを明確に“イメージ”するんだ。誰かを守る自分を」


それから数日間、真白は繰り返し、自分のコードに向き合った。祈るように、願うように、戦う姿を“想像”し続けた。


――守りたい。今度は、私の力で。


その想いが形となり、今、目の前の仲間を癒し、動かしたのだ。


---------------


再び体を起こした燐が、一気に地を蹴った。


「行くぞ、土岐!」


「相手になります!」


地を隆起させようとする土岐に、燐の光剣が鋭く迫る。

タイミングを見切った燐の攻撃が、土岐の肩をかすめるように斬り裂いた。


「っ、チッ……!」


「動きが――変わった……?」


氷室の目が一瞬、燐ではなく、真白へと向けられた。


(あの回復がある限り、彼は何度でも立ち上がる……ならば)


「――まずは、あなたから排除すべきですね」


その瞳が、獲物を定めたように冷たく光った。


真白に、氷室の殺気が向く。


新たなる局面――“癒し”が、戦場の最優先標的となった。


----

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る