弱さを超える①

ぬるり、と。

灰色の雨の中から現れたその男は、濡れた髪を指でかき上げながら、ゆっくりと笑った。


「……てめぇには、ガッカリだぜ、ユウト」


目を細め、狐のような口元が歪む。


「てめぇには、結城を潰してもらう予定だったんだが……生きてんじゃねぇか。

せっかく舞台まで用意してやったってのによ」


ざらりとした声が、静寂に刺さった。


男の名は——迷彩カゲト。


その手には、見覚えのある携帯が握られていた。




「……柏木の……!」


燐が目を見開く。

カゲトは、にやりと笑ってその画面を掲げる。


「そ。メールを送ったのはこの俺様よ。

お前ら、見事に踊ってくれたじゃねぇか。特にお前だよ、ユウト」


ユウトの表情が、瞬間的に硬直する。

歯を食いしばり、拳が震えた。


「……あんたごときに、最後まで利用される俺じゃねぇんだよ」


赤いパーカーの裾が揺れる。

ユウトが前に出た。


「……俺をこき使った分、きっちり払ってもらうぜ」


次の瞬間、鋭く地を蹴った。


ユウトの蹴りが、迷いなくカゲトを襲う。


——だが。


カゲトはそれを腕で軽くいなし、ステップひとつで距離を取った。


「……バテバテのお前じゃ、相手になんねぇよ」


冷笑。

あくまで余裕に満ちた態度。

ユウトは肩で息をしながら睨みを利かせる。


先程の全力戦闘……特に《テンペスタ》の使用により、リビドーの消耗は明らかだった。


「……なら、私が相手だよ~」


前に出たのは、藤宮るるだった。


濡れたクマ型ぬいぐるみを両手に構えながら、くるりと軽くターンする。


だがカゲトは、彼女をちらりと見ただけで、興味を示さなかった。


「悪いが……俺が用があるのは“結城”だけなんだわ」


その言葉と同時に——


周囲の霧から、人影がぞろぞろと姿を現す。


10人、100人……いや、1000人を超える。

雨の中から現れたのは、カゲトの“群れ”。


その中には、異形の者たちが混じっていた。


炎を口から吹き出す少年。

拳を黒鉄に変える巨漢。

ネズミのように顔が伸び、目が光る小男。


そのどれもが、明確な《コード》を持つ者たちだった。


「……まさか、これ全部……」


篠原が目を見張る。


「お前らの敵は——こいつらだ」


カゲトが、藤宮とユウトを指さして笑う。


「さぁ、遊んでこい。俺は“本命”と踊らせてもらうぜ」


真白の元で倒れていた燐は、苦しげに身を起こす。


「りんくん、まだ動いちゃ……!」


「大丈夫……じゃないけど、行くしかない」


燐の身体に、真白の《心響の光(レゾナント・シャイン)》が再び灯る。


少しずつ、力が戻る。

だがそれでも——完全回復には程遠い。


ふらつきながらも立ち上がった燐に、カゲトがにやりと笑いかける。


「——お前を潰すのは、俺だ」


雨がざあざあと降りしきる中、二人の視線が交錯する。


その瞳に宿るのは、純然たる敵意。


静かに、静かに。

戦場が再び動き出す——。


----


「……来いよ、結城」


雨の中、笑みを貼りつけたカゲトが一歩、前に出た。


その瞬間——


「おいッ、そっち行かせねぇ、テメェは俺がぶっ飛ばす!!」


ユウトが蹴り飛ばすようにして駆け出した。

だが、その行く手を阻むように、カゲトの“群れ”の半数が一斉に飛びかかる。


「チッ……てめぇらの相手をしてる暇はねぇ、まとめて来いよ」


拳を固めたユウトが応戦に入る。


同時に、カゲトがゆっくりと燐の方へ歩みを進める。


「させるかっての……!」


藤宮がぬいぐるみを構え、カゲトの横から飛び出した。

だが、彼女の前にも別の半数が立ち塞がる。


「ったく、人数で時間稼ぎってか。うっとおしいな……」


「りんくん!!」


真白が声を張る。

その声に、燐はふと振り返った。


「下がってて、真白!」


「だめ。今は——一緒に……!」


「……ごめん」


燐はそう言い残して、彼女の元を離れた。

すでに身体は限界に近い。それでも——


(やらなきゃならない)


雨の中、燐とカゲト、ついに一対一の間合いに入った。


「お前、ユウトと戦ってたわりに……まだ目に光残ってんな」

「上等だよ。やっぱ、潰すなら“本気のやつ”の方が楽しいもんなぁ」


最初に動いたのは——カゲトだった。


飛び蹴りのような突進。

それを燐が剣で受け止める。


すぐさまカウンターの拳。

だがカゲトの腕がそれを弾き、スウェーで回避。


(……早い)


鋭い膝が飛び込んできた。

燐が盾を展開し、ギリギリで防ぐ。


「へぇ、意外とやるな。ユウトとやり合っただけはある」


カゲトがニヤついた顔で呟いた。


「……じゃあ、こっちもやり方変えるわ」


その声と同時に、カゲトの動きが一変した。


ガンッ!


建物の鉄骨を蹴り上がり、空中へ跳躍。

そのまま天井近くの梁に張りつき、壁を伝って移動する。


(!? ……立体的な動き!?)


カゲトはそのまま壁を滑り落ちるように急降下。

燐が盾を向けるより早く、腹部へ膝蹴りが突き刺さった。


「っ……ぐっ!」


背筋を震わせる衝撃。

膝から力が抜けそうになる。


「まだまだ……こんなもんじゃねーよなぁ?」


そう言いながら、カゲトがジャケットの中から、小型のナイフを取り出した。


細身で黒い光沢を帯びた刃。

それが、雨に濡れて鈍く輝く。


(——来る)


場の空気が一気に張りつめる。


遠くで戦っている藤宮が、敵を投げ飛ばしながら叫んだ。


「りんくん、気をつけて! あいつのコード《カメレオン・ギア》は、

粘着と立体機動の応用系! 舌だけじゃなく、手足までくっつくんだよ!」


(……くっつく?)


燐がわずかに目を伏せる。

状況の理解を早める必要がある。だが——


カゲトがその隙を逃すはずがなかった。


「考えるヒマなんざ、やられてからにしとけよ」


鋭い踏み込み。

鉄骨を蹴って角度を変えた後方からの一撃。


燐は咄嗟に身体をひねって防御体勢を取るが、攻撃の角度が読めない。


(……対応しきれない!)


剣を交差させ、ナイフの軌道を反らす。

刃が肩をかすめるが、深手には至らず。


だが、徐々に燐は押され始めていた。


スピードではユウトに及ばない。

だが——この男は、それとは“違う戦い方”でこちらを追い詰めてくる。


鉄骨、壁、手すり——


この崩れた廃ビル全体を“舞台”にした、まるで蜘蛛のような立体機動。


燐の守りは次第に後手に回り、防戦一方になっていった。


(まずい……)


体力も、リビドーも、もう余裕はない。


それでも、倒れるわけにはいかない。


「守るだけじゃ、勝てない——!」


握った剣に、再び力がこもった。


――カンッ!


鉄骨に剣がはじかれ、火花が散る。


燐は荒れた呼吸を整えようとする間もなく、カゲトの立体機動に翻弄されていた。

飛び上がり、張りつき、角度を変えて襲いかかる。防御が一手遅れるたび、かすり傷が増えていく。


(このままじゃ……)


その時だった。


「りんくん!!」


後方から、聞き慣れた声が響いた。


「……真白さん!?」


振り返ると、濡れた制服のまま、髪も乱れた真白が息を切らして駆け寄ってきた。

その瞳には、怯えではなく、確かな“意志”が宿っていた。


「一人で戦わないで……!

私だって、燐の力になりたいの……そのために、修行してきたんだから!」


彼女の両手が燐にそっと触れた瞬間、温かな光が溢れ出す。


《心響の光(レゾナント・シャイン)》


癒しと強化を同時に与える彼女のコードが、燐の傷を癒し、呼吸を整える。


「けど、ここは危ない……!」


燐は叫ぶ。

彼女を巻き込みたくなかった。今の敵は、あまりにも狡猾で危険すぎる。


だが——


真白は微笑んで、こう返した。


「でも……燐が、守ってくれるでしょ?」


その言葉が、心の奥深くに届いた。


(……俺が、守る)


躊躇いが消えた。

恐れが消えた。

残ったのは——


「……わかった」


剣を握る手に、力が宿る。


「君は、俺が守る。だから——力を貸してほしい」


その宣言と共に、燐のリビドーが再び燃え上がった。


光が剣に集まり、盾が再び両腕に出現する。


覚悟の形が、力となって具現化した。


「……女に守られて戦うとは、情けねぇなぁ」


カゲトが、ねっとりとした声で嗤った。


「守られながら、戦えるかよ。集中できるのか? これでよォ!」


鉄骨の上から急降下。

宙を舞いながら、ナイフを抜いたその腕が閃く。


——キィンッ!


白銀の閃光が真白に向かって走る。


「——真白ちゃん!!」


遠くから藤宮が悲鳴に近い声を上げる。


だが、その刹那。


「……させない!!」


燐が、盾を展開させた。


しかも——一枚ではなかった。


二重の盾。

その一枚を真白の前方に、もう一枚を斜め上へと浮かせる。


——カンッ!


ナイフが、硬質な盾に当たり、甲高い音を立てて弾かれた。


一歩も動かなかった真白の前に、傷ひとつ残らなかった。


燐の背中が、真白を完全に覆っていた。


「……真白は、絶対に傷つけさせない」


その声は、怒りでも叫びでもなかった。


ただ——

静かに、けれども熱く燃えるような意志だった。


その瞬間、カゲトの目の奥に、わずかな警戒の色が走った。


“守るための覚悟”が、戦いの熱を一段階、上げた。

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