音による暴力での復讐。

りりか

第1話 始まりの鍵盤

 放課後の学校。誰もいなくなった教室には、かすかに雨の匂いが漂っていた。

静寂を破ったのは、バシャリ、という水音だった。

——またか。

 何度目だろう。制服のブラウスがずぶ濡れになるのも、教室の床に水たまりができるのも。


「え、まじ?ほんとにかけた?やばー!」

「ちょっと、やりすぎじゃない?」

「でも、あの子ずっと喋ってなくてさ……なんかキモくない?」


 背後で囁かれる声。女子たちの笑い声。クスクス、という音が頭の奥をじわじわと締めつける。

 私はただ、無言で濡れたまま教室を出た。怒りも、悲しみも、ほとんど湧いてこない。自分でも驚くほど、何も感じなかった。

 中学一年の春。私はクラスで目立たない存在だった。ただ静かに本を読んでいただけ。それが彼女たちには気に入らなかったらしい。机に落書きされたり、下駄箱の靴がなくなったり、給食のゼリーにソースがかかっていたり。小さないじめが、徐々にエスカレートしていった。

 私はそのまま学校に行くのを辞めた。担任の電話にも出なかった。母は仕事でほとんど家にいなかったし、何も言ってこなかった。いや、気付いてはいたと思う。ただ、私のペースを尊重してくれているような、そんな距離の取り方だった。

 でも、代わりに、お小遣いは増えた。好きな漫画、アニメ、ゲーム。自室にこもって、昼夜逆転の生活。大好きなボカロを聴きながら、自由にネットの海を泳ぎ回る毎日。現実は私に厳しくて、ネットは私に優しかった。


***


 そんな生活が、二年間。中学三年の秋、最後の文化祭だけは顔を出そうと決めた。クラスの誰も私の存在なんて忘れているだろうし、もうどうでもよかった。ただの記念。自己確認のようなものだった。

 体育館の中央。舞台上には吹奏楽部の面々。最後の演奏曲の前に、MCが入る。


「次の曲には、三年生部長・安堂莉良によるソロが入ります!」


 その瞬間、私の心臓は、ドクン、と大きな音で震えた。安堂莉良。所謂一軍女子というやつで、私に対するいじめの中心にいた子。瞬時にあの記憶が脳内で再生され、思わず視線を落とす。

 長いMCが終わり、曲が始まった。

――それは「宝島」だった。

 いやいや、待て。私の記憶が正しければこの曲にフルートのソロなんてなかったはずだ。

 どういうことだ、と思考を巡らせていたその時、スッと彼女が立ち上がり、マイクの前へと歩いてきた。

 刹那、美しくも激しい高音が、私の耳を突き刺した。

 彼女は、安堂莉良は、サックスのソロを、フルートで完璧に再現していた。アドリブ混じりの、技巧とセンスに満ちた演奏。あの銀色の細い管から、どうしてこんな太くて、あたたかくて、きらびやかな音が出せるのか。

 客席が沸く。拍手。歓声。私は、思わず息を呑んだ。

 

 あいつが、あんなに輝いている。


 私をいじめていた黒い過去なんてなかったみたいに、舞台の上で、誰よりも楽しそうに演奏していた。

 その瞬間、胸の奥で、何かが軋んだ。

 私は惨めだった。何一つ、誇れるものなんてなかった。


***


 文化祭を抜け出し、ひとり駅へと向かう途中、小さな人だかりができている路地で、私はふと足を止めた。

 それはロックバンドの路上ライブだった。少しだけ、聞いてみることにした。

 どうやらデビューしたてのバンドのようだ。エレキギターにベース。そしてボーカルと思われる少女はパソコンに接続されているピアノのようなものを弾いていた。

 その少女の声とピアノから放たれる様々な種類の音が、夜の街に溶けていった。高く、鋭く、けれども温かくて、切ないメロディ。バンドの演奏も息が合っていて、まるでプロのようだった。


(これだ…これだ!!!!)


 思わず目頭が熱くなった。

 私も——音楽で、あいつに、勝ちたい。

 その夜、私は88鍵の、本格的なキーボードを買った。


***


 次の日から、私は狂ったように練習した。初心者向けの本を読み、ネットで演奏動画を探し、指が動かなくなるまで弾いた。

 朝起きて、弾いて、夜になっても弾いて。気づけば1日10時間以上、鍵盤にしがみついていた。ピアノなんて習ったこともないのに、何かが自分の中に流れ込んでくるようだった。

 数ヶ月後、私はSNSに演奏動画を投稿し始めた。アカウント名は「Hk」——本名である「羽山奏音」から苗字と名前のイニシャルをとっただけ。

 最初は再生数も全くと言って良いほど伸びなかった。しかし、ある日突然、通知が止まらなくなった。なんとある有名なプロキーボーディストが、私のボカロ曲のカバー動画を引用して「センスあるな」と投稿してくれたのだ。

 そこから、一気にフォロワーが増えた。DMにも、「バンド組みませんか?」などという依頼がいくつも届いた。

 でも、私が求めていたのは、もっと別の何かだった。


***


 高校一年。私は制服に袖を通し、久しぶりに校門をくぐった。中高一貫のため、内部進学組も多いが、顔を合わせたことのない人も多い。そのため私は「高校デビュー」に成功した。前より明るく、前向きな性格に見せている。

 そして、人生で最初の部活動。

 この場所から、もう一度始められる。そう思って、私は軽音部に入部し、早速楽器体験に足を運んだ。

 部室の扉を開けると、思ったより明るい空気だった。


「キーボード志望の子ー、こっち!」


先輩の呼びかけに、数人が前へ出る。


「じゃあ、ちょっと試しに何か弾いてもらえる?」


順番が回ってきて、私はゆっくりとキーボードに手を置いた。選んだのは、Orangestarの「DAYBREAK FRONTLINE」。

 イントロを鳴らすと、みんなの視線が一斉に集まった。初めての人前での演奏で緊張して手が震えて、終盤の伴奏とメロディがズレてしまった。

 でも、やりきった。

 演奏が終わると


「すごいね!」


と誰かがつぶやいた。少しだけ、自分の努力が報われた気がした。


 その時だった。


「じゃあ、次、私でもいい?」


 聞き覚えのある声。いや、忘れられるわけがない。振り向くと、そこには――安堂莉良がいた。

 そして彼女は、まるで当然のようにキーボードの前に立った。軽く指を鳴らすと、一音目から部室の空気が変わった。

 奏で始めた曲は、いよわの「きゅうくらりん」だ。あのジャズのような不規則なテンポを、彼女は自分のモノのように弾きこなす。高音部のリフから、裏打ちのコード進行、低音での鋭い刻みまで。完全に"持っていかれた”。

 演奏が終わると、拍手が巻き起こった。ざわめく見学者たち。顧問も「素晴らしい……!」と感嘆の声を漏らす。


 憎かった。どこまでもどこまでもどこまでも、私の遠く遠く前に立つあの女は、私の何もかもを、奪っていった。


***


 部活の時間が終わり、私は耐えきれず、勇気を振り絞って、彼女に声をかけた。


「あ、あの…演奏、凄かった、よ。テクニックも、表現も、全部全部私に勝っていた。けど、けど、私は―」

「え、えっとぉ…ごめんだけど、あなた、どちら様、ですか?」



 は?



 何を言っているのか、最初は分からなかった。けれど、彼女の目は本気だった。私のことを“覚えていない”ということを、心の底から証明してきた。

 背筋が凍った。胸の奥が、キリキリと軋んだ。

 私は、あれほどあなたを憎んで、苦しんで、泣いて、立ち上がったのに。私にとって、あなたは呪いだったのに。

 その“呪い”は、これほどまでかというほどに私を踏みにじった。


――このままじゃ、ダメだ。


 こんな場所じゃ、私は勝てない。


 次の日、私は軽音部を退部した。しかし、私の復讐はこんなところで終われない。

 今度こそ、このキーボードで、あの女を、安堂莉良を叩き潰す。

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