鴉の啼くころに
寝々川透
第一章
鴉の啼くころに
吾輩は鴉である。名前はまだ無い。
正直なところ、偉大なる分筆家の言葉を借りるには、少々事情が異なるわけだが、
残念ながら猫ではなく、そして実際のところ、本当に猫ではないのだ。鴉である、というのはもちろんなのだが、私が言いたいのはそういうことではなく、実際のところ、人間なのである。
猫でもなく、鴉でもなく、筆を握ることの出来る人間なのだ。
しかし、分からないことがある。それは私は私を覚えていなかった。人間であるということや敬愛する分筆家などの他人のことは覚えているが、何という名前の、どこに住んでいる何者であったのか、それが全く分からないのだ。
その言い知れぬ恐怖は
私は自分を鴉であると認識してから、それだけが心の吹き溜まりになっていた。恐らく私は死んだのだ。何を成すでもなく、何者でも無いが故に自分を知らぬのだ。
私は自分の脆さにやられ、一日を
目を覚ました時の不自由な感覚は直ぐに消えた。兎のように跳ねながら、地上を移動することが出来た。空を飛ぶのも容易かった。まるで元々知っていたかのように、翼の動かし方を熟知していた。
もちろん、当初は夢だと思っていた。夢想家である私が空を飛びたいと考えたことは一度や二度ではなく(そういうことは何故か覚えている)、それが寝る間に叶ったのだと思い込んでいた。
あらゆる行動に躊躇いがなかったのはその所為だ。翼が風を切る感覚、木々のせせらぎに川のさざめき、
この状態を現実だと受け入れた時に、最初に思ったのは疑問だった。そしてその疑問とともに、私が私を覚えていないことに気が付いたのである。そうなってくると、あらゆる事象が仮説の域を出なくなる。要するに私が元々何者なのかが分からないということだ。
前述の通り私は私を人間だと思っているが、実は元々鴉なのかもしれない。あるいは鴉のような見た目だけど鴉ではないのかもしれない。そうしたことを考えている内に、思考の渦に囚われ、私は
茫然自失の状態から立ち直ったのは、目を覚ました次の日のことだ。私は木の上で一夜を明かしたようだった。
日の光を感じて我に返った。酷く喉が渇いている。昨日見つけた小川に赴き、水を啄んだ。私の胃は空腹を訴えているようだった。目の前の小川の中にいる魚たちに目を向ける。身体の動きを止め、ジッと水面を見つめた。足元に小さな魚が泳いでいる。居合切りをするような心持ちで嘴を振るった。
二、三度失敗したものの、この肉体は優れた反射神経を持っているらしく、それほど労せずに魚を食せた。
上手いかどうかというと微妙なところである。兎に角生臭かった。とはいえ空腹は放置できない。私はその時、自然と生きる、ということをしていた。自分が人間であろうと鴉であろうと、飯を食べ、眠りにつくのである。
何だか少しだけ気持ちが楽になったから、また空の遊覧を始めた。空を飛ぶというのは、何故これほど心地いいものなのか。
私と風が一体となっている。これは人間では得られない快楽に違いなかった。はしゃぐ子供のように、夢中になって飛び回る。空は何者でもない私を受け入れている。
色々悩んでいることが馬鹿らしくなってきた。もう少し気楽に考えても良いのかもしれない。というよりは、色々考えたものの分からないのだ。何度も言うが、仮説の域を出ないのである。
分かっていることは、自分は鴉であるということだけだ。
その上、僥倖なことに思考が出来る。鴉は賢い生物として知られるが、流石に今の私と同じだけの思考力があるわけではないはずだ。それは元々人間であった証左と呼べるかもしれない。
むつかしいことは一度棚に置いておこう。生きていくだけなら、私はおおよそ困ることがない。極めて原始的な生活に還るからだ。地位も金も必要ない。唯一懸念があるとすれば、それは食物連鎖の頂点ではなくなったということだ。
鴉という生物は相当上澄みではあるだろうが、弱肉強食の世界を脱した人間と比べると、生命の危険性は増している。同じ鳥の中でも鷲や鷹などには敵わないかもしれない。目下の目的は安全の確保である。つまり居住場所の確保、鴉に準えて言うと巣が必要だ。
とはいえこの場合、真面目に巣を作るかと問われたら疑問に残る。卵や雛を暖めながら育てるために、枯枝や葉で巣を作るわけだが、一体あの建造物の何処が住居だと言うのか。
もちろん嘴しか動かせない鴉にとっては良くやっている方である。曲がりなりにも子が育つわけだから必要最低限ではあるのだろう。あるいはあれでなければいけないのかもしれない。
ただ私は子なしの鴉である。そして推定人間である。あの枝葉がこんがらがっただけのような住居は到底許されなかった。あれでは雨風凌ぐことが出来ない。濡れるのは好きではなかった。
私はそうして居住場所の捜索を開始した。この大自然の中、まさかの小屋探しである。正直なところあるわけがなかった。
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