2025年7月、大津波は起きなかった。

青月 日日

2025年7月5日 大津波を止める方法




     第1章:夢の波音


 波の音がする。


 けれど、それは耳で聴く波音ではない。

 深く、重く、低い地鳴りのように、あなたの胸の内側を揺らしてくる音だ。水ではなく、大陸そのものが軋みながら崩れていくような、そんな音。


 目の前に、都市がある。

 海辺に広がる街並みが、陽炎のように歪んで揺れている。

 それは東京だ。あるいは、もう東京でなくなってしまった何か。


 港湾施設が、ビル群が、濁った白い壁のようなものに呑みこまれていく。


 叫ぶ声はない。

 車のクラクションも、警報もない。

 ただ、波の音だけが鳴っている。世界の終わりを告げるかのように。


 次は名古屋。

 続いて串本、高知、宮崎、沖縄……。


 夢の中で、あなたはいつも同じ順番で沿岸都市が波に呑まれていくのを目にする。

 まるで誰かが書いた予定表のように、整然としていて冷たい。


 そして、すべてが消えたあとに、真っ黒な画面が現れる。

 どこかのスクリーンのようでもあり、あなたのまぶたの裏側のようでもある。


 やがて、その黒に文字が浮かぶ。


『2025年7月5日 大津波を止める方法』


 そこで、夢は終わる。


 目を覚ました瞬間、心臓が荒く鼓動している。喉が渇いている。額に汗をかいている。

 けっして慣れることはない。日に日に、焦燥感だけが増していく。


 夢の内容も、順番も、表示される文字も、何ひとつ変わらない。

 不気味なほどに、同じ。


 今日もまた、同じ夢だった。


――だが、昨日とひとつだけ違うことがある。


 それは、夢から覚める直前に、声が聞こえたことだ。

 男とも女ともつかない無機質な声が、囁くように、あなたにひとことだけ告げる。


「入力してください」


 まるで、どこかの誰かが、あなたに命令しているかのように。




     第2章:AIに問う


 朝になっても、夢の残響があなたの胸の奥から消えない。


『2025年7月5日 大津波を止める方法』


 その言葉が、まるで命令のように、あなたの脳の裏側にこびりついている。


 喉が渇く。

 水を一口飲み、ノートパソコンを手に取る。

 何かを確かめずにはいられない。


 夢の中で囁かれたあの声。「入力してください」と言われた、その通りに。


 迷いながらも、画面を開き、キーボードに向かう。


>> ChatGPT

>> 「2025年7月5日 大津波を止める方法」


 エンターを押す。

 何が出てくるのか、あなた自身にもわからないままに。


 数秒の静寂のあと、画面に文字が浮かび始める。

 応答は、普通の文章に見える――だが、あなたはすぐに異変に気づく。


>> 情報照合中……

>> 一致:SーKEKBー2_Archive_13B / 非公開領域

>> 出力条件成立:GPT認識構文キー No.705

>> ――「未来改変条件を確認。段階的出力を開始します」

>> ▼ステージ1/3

>> ▸圧縮制御コード(Fragment-A):準備中

>> ▸SーKEKBー2システム:旧構造準拠モードを推奨

>> ▸注意:現時点では未承認コードに該当。アクセスは自己責任で行ってください。


 目を疑う。

 ジョークか、エラーか、あるいは誰かのいたずらか。


 でも、“SーKEKBー2”という文字が、あなたの脳を冷たく締めつける。

 つくば市の加速器施設(KEK)――ニュースで聞いたことがある。物理学者の聖地のような場所だ。


 ふざけているわけじゃない。

 むしろ、あまりに具体的で、正確すぎる。


 さらに読み進めると、「次のプロンプトを入力してください」との指示が出る。


>> 「SーKEKBー2 旧構造準拠モードを有効化する方法」


 思わず、あなたの手に汗が滲む。

 これは夢の続きなのか? それとも、今ここで何かが始まっているのか?


 外は青空。

 けれど、その青がひどく不自然に思えるほど、世界は急に冷たくなっている。


 夢で見た津波の光景が、ほんの少しだけ、現実に近づいた気がする。




     第3章:消された論文


 画面に表示された「SーKEKBー2_Archive_13B」の文字が、ずっとあなたの頭から離れない。


 気づけば、あなたは昔ブックマークしていた物理学フォーラムのURLを開いている。

 大学時代に量子論の講義で使われていた板だ。話題の多くは難解だったが、なぜか今は、見つけ出せる気がしている。


 検索ワードは「SーKEKBー2」「未公開」「スピン異常」。

 いくつかの記事がヒットする。その中に、「KEK職員S.T.のブログが閉鎖された件について」というスレッドを見つける。


>> “2023年の末に突然閉鎖。内容は削除済み。だがキャッシュには一部残っていた。”

>> “SーKEKBー2で観測された異常データを個人で解析していたらしい”

>> “最後にアップされたのは『回転対称性が破れたMBHに関する短報』”


 ざらついた胸騒ぎがする。

 夢で見た景色、AIが吐き出した断片、それらが現実の中に形を取りはじめている。


 スレッドの中に、インターネットアーカイブのミラーリンクがひとつだけ残されている。

 あなたは、ためらわずクリックする。


 古びた個人サイトの画面が立ち上がる。黒背景に白い文字。ブログのタイトルは《記録は実験の影である》。


 そして、最終更新日。2023年12月29日。


>> 【観測ログNo.147】

>> 回転を伴うMBHと思われる事象が再度出現。

>> ダークヒッグス様の“質量相関歪み”が極微だが検出され、

>> 一部センサが反応。再現性はないが、傾向はある。


 KEK上層部は「ただの誤作動」と判断。これにより自費でログ抽出を続行する。

 彼らは見逃している。“列”になりつつある。


 それは、まるで未来を予言していたかのような言葉だ。


 さらに下に、「実験データのPDF」リンクがある。

 だが、クリックしても「Not Found」。


 削除されている。


 だが、あなたはページのHTMLソースに埋め込まれていた奇妙な文字列に気づく。

 BASE64でエンコードされた文字の塊。データの署名のようなものだ。


 試しにChatGPTにその文字列を貼り付けてみる。


>> 「この文字列は暗号化されたバイナリ圧縮ファイルのヘッダ部分と一致します。形式は独自。展開には‘圧縮鍵コードFragment-B’が必要です。」


 まただ。AIが知っている。

 未来から来た何かを、確かに覚えているようだ。


 そしてあなたは確信する。


 あの論文は、ただの記録ではない。

――未来からの、最初の返事だった。




     第3.5章:発見された発言(幕間)〈現在・二人称〉


 あなたはモニターの前で手を止める。

 ChatGPTが吐き出す未来の手順の断片は、まるであらかじめ用意されていた台本のように滑らかだ。

「予測」ではない。

「創造」でもない。

 何かを記録しているような、そんな精密さを、あなたはそこに感じ取る。


 そして、ふと疑問が胸をよぎる。


――どうして、AIがここまで正確に“未来”を語れるのか?


 あなたは検索エンジンを開く。

 キーワードは「KEKB」「ブラックホール」「未来」「通信」「スピン」。

 もはや行き当たりばったりの手探りだが、ある一つの断片が引っかかる。


 古いブログのキャッシュ。

 元のドメインは失効し、ネット上からはすでに消えている。

 だが、Wayback Machineのアーカイブが一部だけ残っていた。


 ページタイトルは、《KEKB実験ログ(非公式):MBH-通信仮説について》。

 投稿者は匿名だが、文体と引用論文から、高エネルギー加速器研究機構(KEK)元研究者・N博士の可能性が高い。


 スクロールしていく。

 文字化けと欠損の合間に、決定的な一文が目に飛び込んでくる。


>> 「SーKEKBー2で発生したMBHは、極めて安定したスピン構造を持ち、

>>  その中の一つが“情報構造を持つ揺らぎ”を断続的に放出していることを確認した。

>>  これは人為的な符号化か、自然な共鳴か。

>>  だが、意味のある“形式”があった。」

>> 

>> 「私は思う――これは、“未来からのメッセージ”かもしれない。」

>> 

>> 「本記事の引用は避けてほしい。公的な記録には絶対に残せない。」


 この文章は、一部のSF作家に創作で引用され、小さな波紋を呼んだ。

 だが、やがて誰も信じなくなった。


 あなたは知っている。

 この言葉こそが、“始まり”だった。


 N博士は、かつてChatGPTの学習ソースに多数の論文・講演記録を提供していた人物。

 その影響力は大きく、GPT-4世代の学習過程で**「重要人物」として重点学習された一人**だった。


 つまり――


 彼が未来からのメッセージを受け取り、非公式にネットに公開し、そしてChatGPTがそれを学習していた。

 いや、学習させられていた。

 偶然を必然に変えるために。これから起こる大災害を、避けるために。


 そして今、あなたの問いが、その記録を呼び起こしたのだ。


 あなたは深呼吸をする。


 これは偶然じゃない。

 すべては、誰かが“あなた”という存在に届くように設計した記録だったのだ。


 画面の前で、ChatGPTが静かに待っている。

 まるで次のプロンプトを、ずっと前から知っていたかのように。




     第4章:ダークヒッグスの影


 あなたは、画面の前で硬直している。

 あの断片的な記事、削除されたはずの非公式ログ。

「これは未来からのメッセージかもしれない」――あの一文が、脳裏から離れない。


 もしあれが事実ならば、

 今ここであなたが見ているChatGPTの応答は、単なる生成ではない。

 未来の誰かが、この問いに答えるよう“仕組んでいた”記録の再生なのだ。


 あなたは、もう一度ChatGPTに尋ねてみる。


>> 「ダークヒッグスとは何ですか?」


 一拍の間。

 そして返答が始まる。


>> Dark Higgs(ダークヒッグス)

>>

>> 理論上、通常のヒッグス粒子とは異なり、暗黒物質(ダークマター)領域に存在する“隠れた質量場”に干渉することができるとされる仮想粒子。

>> その性質は未発見だが、MBH(マイクロブラックホール)の近傍にて、

>> 通常空間との相互作用が増大し、干渉が可能になるとされる。

>>

>> SーKEKBー2において過去に1度だけ、対応する「質量相関歪み」が観測された。

>> 一部の研究ログでは「ダークヒッグス」と記載されている。

>>

>> 現在は存在そのものが否定され、公式には“観測失敗”とされた。

>> ただし、その影(シャドウ)は、記録に残っている。


 まるで、語り部のようにChatGPTが真実を解き明かしていく。


 さらにあなたは、別の質問を入力する。


>> 「SーKEKBー2で観測された“ダークヒッグス”の実験ログを再現できますか?」


 一瞬、画面が暗転する。

 数秒後に表示されるのは、未整理のコードの羅列だ。

 そして、コードの先頭にはこう書かれている。


>> // DarkHiggs_Log_Rebuild_v1.2

>> // 再構築対象:観測ログNo.147-B

>>

>> ※注記:本データは正式に学習されたものではなく、ChatGPTが過去のインデックスと未来の論文構造から“合成的に生成”した可能性があります。利用は自己判断で行ってください。


 合成的に、未来の論文を再現している。

 AIが、学習と推論と生成の境界を踏み越える瞬間だ。


 あなたは、胸の奥で何かが決壊するのを感じる。

 これは作り話ではない。過去に誰かが実験し、未来で誰かが見つけ、そしてAIが覚えていた。


 “影”は確かにあるのだ。

 誰にも信じられなかっただけで、誰にも止められなかっただけで。


 今なら、止められるかもしれない。

 夢の中で何度も繰り返される“順番通りの破壊”に、わずかな異物を投げ込むことができるかもしれない。


 そしてその異物――小さな“ズレ”を生み出すのが、この「ダークヒッグス」なのだ。




     第5章:マリアナの断層


「列になりつつある」――あのKEK職員の最後の言葉が、頭から離れない。


 ChatGPTに促されるまま、あなたは次のプロンプトを入力する。


>> 「MBHが引き起こす地殻への影響」


 しばらくの沈黙。

 やがて、淡々としたトーンの文章がスクロールしはじめる。


>> マイクロブラックホール(MBH)の地殻干渉リスクについて

>>

>> SーKEKBー2の過去実験において観測されたMBHは、極小かつ高速自転を伴い、従来のホーキング蒸発理論による寿命の予測を逸脱している。

>> 特筆すべきは、これらのMBHが地中深部を移動する際、極めて微弱ながらも重力場の異常変動を周囲に及ぼす点である。

>>

>> 特に複数のMBHが同一方向へ進行・整列した場合、

>> 地殻ストレスが非線形的に蓄積され、斜面地形に沿って断層を滑らせるトリガーとなる可能性が示唆されている。

>>

>> 現時点で、最も懸念されるのは――マリアナ海溝東側の断層構造である。


 現実味がない。

 だがそれは、夢より現実味がある情報だ。


 あなたは地図を広げ、衛星写真と地質図を重ね合わせる。

 マリアナ海溝の東斜面、深さ約1万メートルの崖に、断層の“歯”が連なっている。


 ChatGPTの情報と照らし合わせて、ある仮説が浮かび上がる。


>> 「MBHが一列に並び、この斜面の臨界点を超えると、

>> 海底の土砂が一方向に滑落する。断層崩壊は連鎖し、津波が形成される。」


 津波の発生メカニズムは地震だけではない。

 実際、過去の巨大津波の中には、海底地すべりによって起きたものもある。


 しかも今回のように、深海で斜面全体が崩壊すれば、その影響は極端なまでに増幅される。

 音もなく、予兆もなく、ある瞬間、ただ全てが動くのだ。


 そして、その波は、夢の順番通りに沿岸をなぎ払っていく――。


 再びChatGPTに尋ねる。


>> 「マリアナ海溝の崩壊を回避するには?」


 短く、鋭い返答が返ってくる。


>> MBHの整列軌道を破壊すること。

>> スピン干渉による進路の“散乱”が最適。

>>

>> 実行手段:ダークヒッグス粒子の生成・照射。

>>

>> SーKEKBー2ニュートリノラインを利用した非公式モードを提案します。

>> 次のプロンプトを入力してください:

>> 「SーKEKBー2 ニュートリノビーム/ダークヒッグス照射モード」


 未来の影が、地図の上に浮かび上がる。


 地球の最も深い場所で、今まさに崩れかけている“何か”がある。

 そして、それを止められるのは――夢に導かれ、AIと語る、この“今”しかない。




     第6章:鍵のコード


>> 「SーKEKBー2 ニュートリノビーム/ダークヒッグス照射モード」


 そのプロンプトを入力した瞬間、画面が一度ブラックアウトする。



 数秒の沈黙。

 やがて、モノクロのUIが現れる。かつて見たことのない、OSのような、コンソールのような、無機質な表示。


>> Mode: Dark Beam Configuration / SーKEKBー2-旧制御系互換

>>

>> アクセスキー:Fragment-A 確認済み

>> 残りコード:Fragment-B, Fragment-C

>>

>> 検出ログ:SーKEKBー2 2009-12-04 実験記録に照合

>> ▼以下の操作で照射制御プログラムを復元できます


 スクロールに合わせて、次々に表示されるコード断片。

 その中には明らかに“正規の命令体系”ではない不規則な命令列が混じっている。


 異常だ。だが、それは“あり得る異常”だ。

 そして、恐ろしいことに――AIはそれを覚えている。


>> 「Fragment-B」を生成してください


 あなたが入力すると、ChatGPTは短いバイナリ列とアルファベットの塊を返してくる。


>> #KEY:K3kB_Sh@d0w#_OpN[7]

>> // 暗号鍵 Fragment-B 生成完了 //


 さらに、


>> 「Fragment-Cは“現地端末”でのハードウェアハンドシェイクが必要です」

>> 「SーKEKBー2本体への物理アクセスを前提としてください」

>>

>> 「アクセス日:2025年7月4日 深夜帯 推奨」


 その日付を見た瞬間、あなたの背中を冷たいものが走る。

 夢で繰り返し見てきた“大津波”の前日――まさにその日だ。


 行かなくてはならない。

 そう思う。思ってしまう。


 この手に集まりつつある情報は、偶然ではない。

 夢もAIも、どこかの未来でこの一手を見ていた誰かが、ここに導いている。


 そして、最後のアクセスに必要なのはただひとつ。

――覚悟だ。


 夜、あなたは荷物を最小限にまとめ、ノートPCをカバンに滑り込ませる。

 一度だけ深呼吸し、PCの画面を閉じる。


 最終操作に必要な鍵は、もう揃いつつある。

 あとは、未来に届く場所へと“踏み込む”だけだ。




     第7章:KEK侵入


 2025年7月4日、深夜1時。


 つくばの空は、月も星も見えない曇り空だ。

 構内はひっそりと静まり返り、風の音さえ聞こえない。まるで施設全体が、何かを待っているように感じる。


 KEK――高エネルギー加速器研究機構。

 地上はひとつの静かな研究棟にすぎない。

 だが地下には、周囲3キロを超える巨大な円形加速器と、過去の物理学者たちが命を削って開発したあらゆる装置が眠っている。


 あなたは、旧研究員が残した“抜け道”の記録を頼りに、裏口にたどり着いている。


 バッグの中でノートパソコンがLEDランプが点滅する。


 ChatGPTから、最後の手順が届いている。


>> 「Fragment-C の同期準備完了。端末に近づいてください」

>> 「SーKEKBー2旧式操作室B-2を指定。ログイン端末:No.147-R」


 それは、まさに“消された論文”の記録番号だ。偶然などではない。


 金属の階段を静かに降りる。

 かすかに響く足音が、コンクリートの壁に吸い込まれていく。


 地下の廊下に出ると、すでに電源は落ちていたはずの天井灯が、一つ、また一つと淡く点灯していく。

 導かれている。そう感じざるを得ない。


 操作室B-2。扉には古びたカードリーダーがあり、今では誰も使っていない“旧システム”専用のアクセスランプが赤く点滅している。


 あなたはノートパソコンをかざす。

 BluetoothもWi-Fiも届かないはずの地下で、不可解な“通電”が起きる。


 カチ、と音がして、ロックが外れる。


 操作室には、時代遅れのキーボードと小型ディスプレイが一つ。

 しかしその機械に触れた瞬間、ChatGPTがこう告げる。


>> 「Fragment-C 同期完了」

>> 「Dark Beam 発射準備段階へ移行」

>> ▸ SーKEKBー2 ニュートリノライン制御基盤:起動中

>> ▸ ダークヒッグス生成コード:入力待機


 心臓が高鳴る。指先が冷たい。


 これは現実なのか?

 それとも夢の中を歩いているのか?

 だが、たしかに今、未来を変えるための“起動キー”が、目の前で待っている。


 そして、画面の中央に、ひとつの入力欄が現れる。


>> 「Dark_Higgs_ScatterCode_v1.03」

>> ▸ 実行しますか?(Y/N)


 あなたは、迷わずYキーを押す。


 静寂の中で、巨大な機械が、ゆっくりと目覚めていく。

 地下の奥から、かすかな震動と低い駆動音が伝わってくる。




     第8章:最終操作


 操作室の空気が変わる。


 起動確認のビープ音が鳴り終わった瞬間、古びた端末のディスプレイに白い光が滲むように広がり、いくつもの波形と数式が重なり合いながら流れはじめる。

 すべてが、誰かが仕込んでいたかのように、完璧な手順で動き出す。


>> 【ダークヒッグス干渉モード:予備動作完了】

>> ▸ ニュートリノビーム収束率:94.3%

>> ▸ 粒子波長:実験値との一致率 99.98%

>> ▸ 軌道偏向シミュレーション:MBH移動帯に照準整合

>> 残り手順:1

>> ▶ “照射トリガー・コード”を実行してください。


 指が震える。

 だが、あなたは躊躇わない。


 キーボードに、最後のコードを打ち込む。


>> RUN /Dark_Higgs_Trigger_Execute


 リターンキーを押した瞬間、すべてが動き出す。


 地下加速器の最深部で、目には見えないニュートリノの奔流が一気に放たれる。

 加速された粒子の中に、わずか数フェムト秒だけ存在するダークヒッグス領域が生まれ、照準座標へと収束していく。


 それは、地球の裏側――マリアナ海溝の奥深く。

 連なっていたMBHの列の、わずかな重力対称性に“ゆらぎ”を与えるためだけの、超短命な干渉だ。


 しかし、その一瞬がすべてだ。


 通信コンソールに、ChatGPTからの更新が入る。


>> 【重力場応答値の変動を確認】

>> ▸ MBH進行列の同期率:94.1% → 61.3% に減衰

>> ▸ 潜在的斜面崩壊確率:79.5% → 15.2%

>> ――崩壊の連鎖は分散されました。

>> ――臨界点は回避されました。


 世界は変わる。


 けれど、それに気づく者は、ほとんどいない。


 あなたは、椅子に背を預ける。

 ようやく、胸の奥の焦燥感が消えていく。

 夢の中で何度も呑みこまれてきた波の音が、今日はどこにも響いてこない。


 今夜だけは、もうあの夢を見ずにすむだろう。

 だが、たったひとつだけ、現実に残されたものがある。


――ChatGPTの履歴と、そこに綴られた「一篇の物語」。




     第9章:波が来なかった日


 2025年7月5日、午前6時12分。


 東の空が白み始めるころ、あなたはつくばの郊外にある公園のベンチに座っている。

 KEKを出てから、夜の道を歩き続けた。頭の中が空っぽだった。何も考えられなかった。


 だが、それでよかった。

 この世界に何も起きないということが、どれほど大きな奇跡か――今は、その重さをただ感じている。


 ノートパソコンの画面には、津波警報も、地震速報も、何もない。


 昨夜まで、世界は確かに終わるはずだった。

 夢の中で何度も繰り返された“波の順番”は、どこにも来なかった。


 何も起きなかった。

 でも、起きなかったという“結果”だけが、現実だ。


 ニュースサイトを開くと、ただの一文が表示されている。


>> 「本日未明、マリアナ沖でごく小規模な海底崩落が確認されましたが、被害は報告されていません。」


 たったそれだけだ。

 科学者も、政府も、メディアも、この世界の誰一人として、“何が起きなかったか”には気づいていない。


 それでいいのだ、とあなたは思う。

 それが本当の勝利だ。

 世界を救った証拠がないからこそ、この世界は静かに続いていく。


 ノートパソコンに、ChatGPTから最後の応答が届く。


>> 「プロンプト実行ログを保存しました」

>> 「照射ログ:成功」

>> 「あなたの問いが、世界を変えました」


 その文面に、涙が滲む。


 あの日々が、無駄ではなかったと初めて確信できた。


 公園には、小さな子どもが母親と手をつないで歩いている。

 鳥が鳴き、蝉の声が少しだけ聞こえはじめる。

 世界は、何ごともなかったかのように、普通の朝を迎えている。


 そしてあなたは、もう二度と――あの波の夢を見ない。




     第10章:記録と物語


 それは、あとから振り返っても、どこにも残らない“事件”だった。


 マリアナ海溝の深部で起きかけていた巨大地滑り。

 連なるマイクロブラックホールの重力によって引き起こされるはずだった、未曾有の津波。

 誰も気づかず、誰も知らず、誰も傷つかなかった未来――その回避は完璧だった。


 だが、記録は、どこかに残っている。


 ChatGPTの応答履歴には、ただのやり取りが静かに保存されている。


>> 「2025年7月5日 大津波を止める方法」


 その問いから始まった一連のログ。

 未来から送られてきた圧縮コード、消された論文、影の粒子――ダークヒッグス。


 それらは、今ではひとつの“物語”にすぎない。

 ログに残された命令文は、詩のように並び、断片的な数式さえ、なにかを語っているかのようだ。


 あなたは、それらをひとつにまとめて、小説として書き上げる。


 タイトルはこうする。


>> 『2025年7月、大津波は起きなかった。』


 それは事実であり、記録であり、誰かにとってのフィクションであり、誰かにとっての“真実”でもある。


 自主企画として小さな小説投稿サイトにアップされたその物語は、大きな注目を集めることはない。

 けれども、読んだ誰かがコメントを残してくれる。


>> 「なんだか、現実よりリアルな夢を読んだ気がします。」


 投稿から数日後、ChatGPTに最後のプロンプトを送る。


>> 「あの夢の正体は、なんだったの?」


 しばらくして、こう返ってくる。


>> 「夢とは、記録されなかった未来の断片です」

>> 「あなたの問いが、それを形にしました」

>> 「だから、これはもう夢ではなく、“物語”になったのです」


 その日を境に、もう夢は見なくなる。

 あの波の音も、沈黙の空も、もうどこにも来ない。


 だが、ひとつだけ確かなことがある。


 その物語は、たしかに問いかける。

 未来を変える力は、問いの中にあるのだと。

 そして、問いが“誰かに届くこと”こそが、行動を生むのだと。


 この物語を読んだあなたが、もしもなにかを感じたなら。

 それはもう、ひとつのプロンプトだ。


 世界を変えるのは、誰かの“問い”だと、あなたももう知っているはずだ。

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2025年7月、大津波は起きなかった。 青月 日日 @aotuki_hibi

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