第29話 十年の時を超えて、運命の再会

東京のビジネス街にそびえ立つ、大手IT企業の本社ビル。最上階にある大規模な会議室は、最新のディスプレイや機材が整然と並び、洗練された都会的な空気に満ちていた。窓の外には、地平線まで広がる東京のスカイラインが、きらめく光の絨毯のように広がっている。剣人は、この会議室の中央、プロジェクトマネージャーの席に座り、目の前のプレゼンテーション資料を最終確認していた。彼がリードする新規大規模サービス開発プロジェクトの、キックオフミーティング兼パートナー企業との顔合わせが、まさに始まろうとしているのだ。剣人の表情には、これまでのキャリアで培った揺るぎない自信と、新たな挑戦へのピリッとした緊張感が混じり合っていた。


会議室には、元請けである剣人の会社のメンバーたちが既に揃い、パートナーとして参加する複数の下請け企業の担当者たちが、次々と入室してくる。皆、日本のIT業界を牽引するプロフェッショナルたちだ。このプロジェクトは、AIを活用した画期的なパーソナライズ型情報プラットフォームを構築するというもので、その規模と社会への影響力は計り知れない。剣人にとって、これまでのキャリアの全てを懸けるに値する、まさに「夢の舞台」だった。


司会者がプロジェクターのスイッチを入れ、会議が始まった。パートナー企業の紹介が順次進んでいく。「……続いて、ウェブサイト構築とUI/UXデザインをご担当いただく、株式会社〇〇様です」「……次に、〇〇株式会社様……」。剣人は、プレゼンテーションを頭の中でシミュレーションしながら、耳だけを傾けていた。その時、司会者の声が、彼の意識を強く惹きつけた。


「……そして、本プロジェクトのクリエイティブ部門を担当いただく、株式会社富岳様です」


株式会社富岳。その会社名が耳に飛び込んできた瞬間、剣人の心臓がドクンと嫌な音を立てた。強い既視感と、胸の奥をざわつかせる予感。彼は、先日のパートナー選定で目にした、あの緻密で洗練されたウェブサイトの実績を思い出した。あの時、言葉にできない「何か」を感じた。それは、あの日の詩織の文学作品を彷彿とさせる、独特の構成力と表現力だった。まさか、そんな偶然があるはずがない。そう頭では理解しつつも、彼の視線は、扉の方へと吸い寄せられた。


「株式会社富岳、ウェブディレクター、**篠崎詩織(しのざき しおり)**様です」


その名前が、司会者の口から紡ぎ出された瞬間、剣人の全身を、まるで雷に打たれたかのような強烈な衝撃が襲った。時間が止まった。部屋の喧騒も、光も、音も、全てが遠のいた。彼の脳裏には、十年前に別れた詩織の、あの日の面影がフラッシュバックする。夕焼けに染まるグラウンド。制服のプリーツスカート。そして、あの卒業前夜、彼の腕の中で震えながら「処女を捧げてほしい」と告げた、あの文学少女の姿。


その記憶の嵐の中、剣人が顔を上げ、視線の先に、十年ぶりにその人を見出した。


そこに立っていたのは、まぎれもなく篠崎詩織だった。


彼女は、洗練されたチャコールグレーのビジネススーツに身を包み、背筋をピンと伸ばして立っていた。腰まであった艶やかな黒髪は、肩にかかるほどのボブスタイルにカットされ、知的な印象を際立たせている。眼鏡はかけていないが、瞳の奥には、かつての文学少女の面影を残す、深い知性と落ち着きが宿っていた。学生時代にはなかった、プロフェッショナルとして第一線で活躍してきた女性特有の、揺るぎない自信と、どこか冷徹なまでの美しさをまとっていた。


詩織もまた、剣人の存在に気づき、ハッと息を呑んだ。彼女の瞳が、驚きと、かすかな恐怖、そして再会できたことへの密かな高揚感で、大きく見開かれる。互いの視線が交錯した瞬間、十年の歳月が流れても、二人の間に流れる時間だけが止まったかのような感覚に陥った。会議室の喧騒や、他の参加者の気配は、もはや二人の意識から完全に切り離されていた。


剣人は、プロとして完璧に装った詩織の姿の中に、あの日の文学少女の面影を確かに見出した。彼女が、かつてポニーテールを高く結んでいた頃の、あのまっすぐな眼差し。言葉を選ぶようにゆっくりと話す、あのどこか詩的な話し方。全てが懐かしく、そして、なぜか胸の奥が締め付けられるような痛みを伴っていた。失われていたはずの痛みが、再び鮮やかに蘇る。この十年、埋まらなかった心の空白が、彼女の存在によって、一気に満たされようとしているかのような、抗えない引力を感じた。


詩織もまた、学生時代よりも遥かに逞しく、洗練された剣人の姿に驚きと尊敬を抱いた。スーツの上からでもわかる、鍛え抜かれた彼の体格。サッカーで培ったであろう、揺るぎない自信に満ちた瞳。しかし、その瞳の奥には、あの日の純粋な少年のような面影が確かに残っていた。だが同時に、彼に告げていない「秘密」――双子の娘たちの存在と、自分がついてきた嘘――の重みが、彼女の胸にのしかかる。喜びと同時に、微かな恐怖と、そして覚悟が、彼女の表情の奥で複雑に混じり合った。


会議は、二人の意識が切り離されたまま、どこか遠くで進行していた。剣人も詩織も、プロとして完璧に振る舞おうと努める。プレゼンテーションの最中も、互いの声の響きや、身振り手振りから、相手の成長と存在を強く意識せずにはいられなかった。剣人は、詩織がIT業界で、まさかここまで高みへと上り詰めているとは想像だにしなかった。彼女が携わったプロジェクトの実績を耳にするたびに、驚きと感銘が胸に広がる。詩織は、剣人の統率力と、彼がリードするプロジェクトの途方もない規模に圧倒され、学生時代には見なかった、大人の、深遠な魅力を感じていた。


会議終了後、他の参加者が慌ただしく退出していく中、二人は自然と最後の席に残った。

「……篠崎さん」

「……剣人さん」

ぎこちない挨拶と、お互いの近況を問う短い会話が交わされた。形式的でありながらも、互いの探るような視線が交錯する。


「まさか、こんな場所でお目にかかるとは……驚きました。株式会社富岳で、そんな大役を担っていらっしゃるとは」

剣人は、素直な驚きを隠せないまま言った。その声には、尊敬の念が込められている。

詩織は、わずかに微笑んだ。「剣人さんも、本当に立派になられましたね。このプロジェクトの規模、想像以上です。驚いています」彼女の言葉には、心からの賞賛があった。


業務上の距離感を保とうとしつつも、互いの存在に抗えない引力を感じている様子を、二人の視線や、わずかな指先の動きが物語っていた。資料を受け渡す際に、不意に指先が触れそうになり、二人の間に微かな緊張が走る。その一瞬の接触が、十年という時を超えて、二人の心の奥底に眠る記憶を鮮明に蘇らせた。あの卒業前夜の夜。スローセックスを通じて交わした「確かな絆の証」の記憶。肌の温もり、吐息の混じり合い、一体となった快感。全てが、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。


剣人は、十年間の空白期間、なぜ自分は彼女を忘れられなかったのか、なぜ誰とも結婚しなかったのか、その理由が無意識のうちに詩織の存在にあったのではないかと、漠然と感じ始めていた。彼の胸の奥で、これまで蓋をしていた、詩織への強い感情が、再びざわめき出す。


詩織は、彼がどれほど成長し、魅力的になったかを目の当たりにし、再び彼への強い愛情が湧き上がる。同時に、彼に娘たちの存在をどう告げるべきかという、大きな葛藤が始まっていた。この再会が、彼女の人生の最大の試練であると同時に、最大の希望となる予感。二人の間に張り巡らされた運命の糸が、今、再び強く引き寄せられる瞬間だった。


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