第24話 双子の誕生と母なる覚醒

冬の冷たい空気が、街を凍てつかせる頃だった。夜空には星が瞬き、しんとした静寂が広がる。出産予定日が刻一刻と迫るにつれて、詩織の心臓は常に高鳴り、微かな腹痛にも敏感に反応するようになっていた。お腹は臨月を迎え、今にも破裂しそうなほどに膨らんでいた。ある日の深夜、日付が変わろうとする頃、これまで感じたことのない、強い痛みが下腹部を襲った。それは、規則的で、徐々に間隔を詰めていく陣痛の始まりだった。呼吸を整えようとするが、波のように押し寄せる痛みに、詩織の額には脂汗が滲む。


一人で痛みに耐えながら、詩織は震える手でスマートフォンを握り、事前に調べておいたタクシー会社に電話をかけた。通話口から聞こえる自分の声が、ひどくかすれていることに気づく。「産婦人科までお願いします……急いで……」。タクシーのシートに身を預け、激しい痛みの波が押し寄せるたび、詩織はシートに爪を立てて耐えた。窓の外を流れる凍えるような夜景が、まるで幻のように遠く感じられる。生まれてくる双子への期待と、未知の出産への不安、そして、この瞬間に彼の隣に剣人がいないことへの複雑な思いが、詩織の心の中で嵐のように交錯した。しかし、弱音を吐くことは許されない。彼女の心には、この小さな命を、何があっても無事にこの世に送り出すという、揺るぎない決意だけがあった。


産婦人科に到着すると、事前に連絡していたこともあり、慌ただしく看護師たちが駆け寄ってきた。車椅子に乗せられ、分娩室へと運ばれる。その間にも、陣痛の波は激しさを増し、詩織の意識は朦朧とし始めた。しかし、彼女の耳には、看護師たちの励ましの声と、医師の落ち着いた指示がはっきりと届いていた。


分娩室は、清潔で、しかし張り詰めた空気で満たされていた。激しい痛みに喘ぎながらも、詩織は必死に冷静さを保とうと努めた。汗で髪が額に貼りつき、身体は震え、意識は遠のきそうになる。しかし、その度に、お腹の中の双子の存在を思い出した。あの夜、剣人と交わしたスローセックスの記憶、彼に「安全日だ」と告げた嘘。その全てが、今、現実として目の前に迫っている。これは、二人の「絆の証」。私が、この命を無事に産み落とさなければ。彼女の心に、文学作品のクライマックスのように、全ての感情が集約されていくのを感じた。


「頑張って!もうすぐよ!」

看護師の声が響く中、詩織は最後の力を振り絞った。全身の筋肉を使い果たし、呼吸は乱れ、喉は枯れていく。そして、激しい痛みの先に、温かく、そして小さな体が、詩織の身体から滑り出た。

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

その瞬間、産声が分娩室に響き渡った。詩織の意識が、一気に現実へと引き戻される。肉体的苦痛が、まるで嘘のように吹き飛んだ。生まれてきた、一人目の赤ちゃん。小さな、しかし力強い命の輝きが、詩織の目に焼き付いた。彼女の腕に抱かれたその小さな温かさに、涙が止まらなかった。


しかし、安堵する間もなく、医師の声が続く。「もう一人、頑張りましょう!」

詩織は再び力を振り絞った。疲労困憊の体に鞭打ち、激しい痛みを乗り越える。そして、しばらくして、もう一つの小さな産声が、分娩室に響き渡った。

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

双子。本当に、二つの命が、今、この世に生まれたのだ。


「おめでとうございます、詩織さん。元気な女の子ですよ」

「もう一人も、可愛い女の子です」


女医の声が、詩織の耳に心地よく響く。疲労困憊の身体で、詩織は震える腕を伸ばした。温かい布に包まれた二つの小さな塊が、次々と彼女の胸に抱かれた。初めて双子を腕に抱きしめた瞬間、詩織の心に、筆舌に尽くしがたいほどの深い感動と、絶対的な「母」としての愛情が、爆発的に覚醒した。小さな顔、小さな手、小さな足。全てが愛おしく、尊い。彼女の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。それは、苦痛と安堵、そして無償の愛が混じり合った、命の輝きを祝う涙だった。


この瞬間、詩織は確信した。あの夜、剣人との愛が、確かにこの手に形となって結実したのだと。「絆の証」が、二つの眩い命として、今、ここに存在している。その深い充足感と、剣人への秘めたる感謝が、詩織の胸に温かい波のように広がった。


出産を終え、詩織は病室のベッドに横たわっていた。疲労困憊だが、その顔には幸せに満ちた表情が浮かんでいる。隣には、生まれたばかりの双子の娘たちが、小さな呼吸を繰り返しながら眠っていた。生命の温かさと、小さな命の重みが、詩織の腕に確かな実感を残していた。


翌日、詩織の両親が病院に駆けつけた。詩織が妊娠していることを知らなかった両親は、病室に入った瞬間、ベッドの上の詩織と、その隣に並んで眠る二人の赤ちゃんを見て、言葉を失った。驚きと困惑、そして何よりも娘への心配と、事前の報告がなかったことへの怒りを含んだ両親の顔を見て、詩織の胸は締め付けられた。しかし、彼女は毅然としていた。双子の父親については決して語らず、ただ「私一人で育てていきます」と、揺るぎない決意を繰り返した。母親は、詩織の頬を伝う涙を拭いながらも、その強い眼差しに娘の覚悟を感じ取った。父親も、複雑な表情で赤ちゃんたちを見つめ、やがてそっとその小さな手を握った。両親は、詩織の頑なな態度に諦めと悲しさをにじませながらも、生まれたばかりの孫たちを前に、次第に心を和ませていった。親子の間には、秘密ゆえの微妙な距離感が生まれたが、それでも家族の温かさは詩織を支えてくれた。


退院後、詩織は自宅での双子との新しい生活を始めた。部屋の中は、ベビーベッド、おむつ、大量のベビー服、そして双子用の様々なベビー用品で彩られていた。夜中に何度も泣き出す双子の声、慣れない授乳やおむつ替え、昼夜逆転の生活。睡眠不足で身体は常に重く、疲労はピークに達していた。過酷な育児の現実が、詩織の前に立ちはだかる。しかし、双子が、彼女の指をぎゅっと握り返す小さな手、そして無垢な笑顔を見せるたび、詩織の心は満たされ、全ての苦労が報われるようだった。双子への無償の愛が、彼女を奮い立たせる原動力となった。


大学を退学したものの、詩織は将来の就職を見据え、育児の合間を縫って独学での勉学を続けていた。図書館から専門書を借りてきては、双子が眠っている間に読み込み、ノートにまとめる。特に、ウェブデザインやプログラミングなど、在宅でも仕事に繋がりやすい分野の知識を積極的に身につけようと努力した。それは、母親として、そして一人の人間として、自立し、双子に不自由ない生活を送らせるための、彼女なりの闘いだった。文学少女としての探求心が、今度は実学へと向かっていた。


一方、東京での剣人の大学生活は、季節が冬から春へと移り変わる頃には、新たな学年へと進級し、相変わらず活気に満ちていた。彼は詩織の出産を知る由もなく、学業に、そしてフットサルに没頭している。仲間と旅行へ行ったり、サークルのイベントを企画したりと、充実した日々を過ごしていた。友人たち(ユキを含む)との交流は続くが、詩織からの連絡は完全に途絶えたままだった。剣人の中で、詩織の記憶は「青春の美しい思い出」として、過去のものとして整理されつつある。あの夜の情熱は、遠い夢のように、彼の心の奥底にしまわれていた。


剣人の日々には、もう詩織の影はなかった。二人の世界は完全に分断され、「空白の期間」が確固たるものとして確立されたことを示す。しかし、詩織の胸の中では、双子が剣人との「確かな絆の証」として、力強く息づいていた。彼女の人生の原動力として、そしていつか来る再会の日までの、揺るぎない希望として。詩織は、双子の寝顔を見つめながら、静かに、しかし力強く、新しい人生を歩み始めていた。それは、母として、一人の女性として、彼女自身が紡ぎ出す、真の物語の始まりだった。


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