第4話 願い、そして覚悟

「だから……」


詩織の声が、重苦しい沈黙を切り裂き、剣人の心臓を鷲掴みにした。その一言が、まるで断崖絶壁から突き落とされるかのように、剣人の心に響いた。彼は、来るべき言葉を無意識に予感していた。避けられない「卒業」の二文字が、今にも彼女の口から零れ落ちようとしている。部屋の静寂が、その言葉を一層際立たせるように感じられた。剣人の胸には、言いようのない喪失感が広がり始めていた。


詩織は潤んだ瞳で剣人を真っ直ぐに見つめたまま、言葉を続けた。その声は、震えていながらも、確固たる意志を宿していた。


「だから……私を、あなたから卒業させてください」


その言葉は、剣人の胸に、まるで鋭いナイフのように突き刺さった。全身に走る衝撃と絶望。時間が止まったかのような感覚に陥る。彼の脳裏に、この言葉がもたらす意味が、津波のように襲いかかった。三年間積み上げてきた関係の終わり。共に描いた未来への希望の喪失。明日には、もう「恋人」という関係ではないという、残酷な事実。


「……卒業……?」

剣人は、か細い声で問い返した。まるで、その言葉を口にすることで、現実を否定できるとでもいうかのように。


詩織は、彼がサッカー部で培った強さを持つことを知っているからこそ、真正面からこの言葉をぶつけたのだろう。彼女の瞳から大粒の涙が流れ落ちるが、その眼差しは決して揺るがない。その涙と、それでも揺るがない瞳が、剣人に重くのしかかる。彼女がこの決断に至るまでに、どれほど深く考え、苦悩したかを物語っていた。


なぜ?どうして?


剣人の頭の中は、その二つの疑問で埋め尽くされた。サッカーの試合で、予期せぬ失点を喫した時のような混乱。何が起こっているのか理解できず、思考が停止する。

「嫌いになったわけじゃないの。決して、一緒にいたくないわけじゃない」という詩織の言葉が、彼の頭の中で反響する。「卒業」という言葉との間に横たわる矛盾に、彼は苦しんだ。彼にとって、サッカーの世界では「嫌いだからチームを去る」という論理はあったが、「好きだから離れる」という詩織の論理は、あまりにも理解しがたいものだった。


「未来の成長にとって、足かせになってしまうかもしれない」という詩織の言葉を反芻する。自分が彼女の成長を妨げていたのか? 彼女の夢を阻んでいたのか? 彼を責めているわけではないことは分かっている。しかし、そう言われると、どうしようもなく自分が無力で、情けない存在に思えてくる。元サッカー部として、常に最善を尽くし、勝利のために全力を尽くしてきた剣人にとって、この「足かせ」という言葉は、彼自身の存在意義を揺るがすような重みを持っていた。


詩織は、剣人の動揺を前にしても、視線をそらさない。彼女の涙は絶え間なく頬を伝うが、その眼差しは、彼女がこの決断に至るまでにどれほど深く考え、苦悩したかを雄弁に物語っていた。彼女が、この別れが彼への「罰」ではなく、彼への「愛」からくるものであることを、言葉ではない、全身の震えや表情で伝えようとする。彼の目に映る詩織のCカップの胸が、激しい感情の揺れと共に微かに上下しているのが見て取れた。その鼓動が、彼の胸にも共鳴しているかのようだった。


詩織の文学部らしい、繊細で抽象的な言葉遣いが、この決断の重みをさらに増幅させる。彼女は、まるで自作小説の登場人物の運命を決定するように、自分の人生のページをめくっている。しかし、そのページが、自分たちの物語の終わりを示していることに、剣人は絶望感を覚える。


「……本当に、これで、いいのか?」

剣人は、絞り出すような声で問いかけた。彼の声は震え、普段の力強さは微塵も感じられない。

「……俺じゃ、ダメなのか?」

本能的に、彼は詩織に縋り付くような言葉をぶつけた。彼の瞳は、彼女に懇願するように揺れていた。


詩織は、その問いかけに対して、言葉を発さなかった。ただ、涙を流しながら、ゆっくりと首を横に振る。その沈黙と仕草が、剣人にとっての「決定的な答え」となった。彼女の揺るがない決意が、彼の胸を再び締め付ける。部屋の空気はさらに重くなり、二人の間にある溝が、埋めようのないほど深いものだと感じられた。まるで、広大なグラウンドの真ん中に、ぽつんと一人立ち尽くしているかのような孤独感が、剣人を襲う。


どれくらいの時間が経っただろうか。剣人が絶望に打ちひしがれ、ただ詩織を見つめ続ける中、彼女が、ふと、かすれた声で呟いた。その声は、それまでの決意に満ちた声とは異なり、寂しさと、微かな甘えを含んでいるように聞こえた。


「でもね、剣人……」


詩織は、そこで言葉を切った。彼女の瞳が、再び剣人の目と合う。その眼差しには、涙の奥に、何か別の、複雑な感情が宿っているように見えた。それは、別れと同時に、何かを「残そう」としているような、不思議な雰囲気を醸し出していた。剣人の心に、新たな問いが生まれる。この絶望の淵で、彼女は何を切り出そうとしているのか。彼の心臓が、再び嫌な音を立てて高鳴り始めた。


「高校最後の、二人の想い出として……私の、処女を……もらってほしいの」


詩織の言葉が、剣人の頭上を打ち砕いた。衝撃。困惑。信じられないという感情が、彼の脳内で嵐のように渦巻いた。耳鳴りがする。詩織が、今、何を言ったのか。彼の思考は完全に停止し、目の前の詩織の姿が、現実離れした幻のように感じられた。


部屋に再び、重い沈黙が訪れる。その沈黙の中で、詩織の頬を伝う涙の音だけが、やけに大きく響くように感じられた。剣人は息をすることさえ忘れていた。彼の目に映る詩織のCカップの胸が、激しい呼吸と共に上下しているのが見える。純粋で、清らかな彼女が、今、とんでもない言葉を口にした。そのギャップが、剣人の混乱を一層深める。


「……思い出として……?」

剣人は、ようやく絞り出した声が、ひどく掠れていることに気づいた。声が震えている。真意が、全く理解できない。別れを告げられた直後に、なぜそのような願いを口にするのか。同時に、性行為、特に初体験であることへの、漠然とした「リスク」や「安全面」への懸念が彼の頭をよぎった。彼は責任感が強く、無計画な行動を嫌う。この状況での行為は、あまりにも唐突で、リスクが高いのではないか。


剣人の戸惑いや、彼の表情に浮かぶ迷い、特に安全面への懸念を察した詩織は、わずかに微笑んだ。その顔には、涙の跡が光っているが、瞳の奥には揺るぎない決意が宿っていた。彼女は、彼の目をじっと見つめる。


「大丈夫。今日は、安全日だから……」


詩織の声は、静かに、しかし確かな響きを持っていた。彼の心臓が、再びドクンと鳴る。安全日。その言葉に、剣人はかすかな安堵を覚えた。彼女がそう言うのなら、大丈夫なのだろう。詩織は、彼の心を読み取ったかのように、さらに言葉を重ねた。


「だから、安心して、剣人」


詩織は、彼の瞳を見つめながら、その言葉が「嘘」であることを知っていた。

彼女は自身の生理周期を綿密に計算していた。そして、今日が、最も妊娠しやすい「排卵期」、つまり「危険日」であることを、はっきりと認識していたのだ。剣人への微かな罪悪感が胸に広がったが、それを上回る強い決意が、彼女の心を支配していた。「確たる絆の証」を望む自身の強い意思。この行為が、その証を確かなものにする唯一の機会だと信じていた。もしこの計画が「成功する可能性」があったとしても、それは彼への愛と、未来の再会への希望のためなのだと、彼女は自分に言い聞かせていた。文学少女らしい、深く、そしてある種の冷徹なまでの計画性が、彼女の行動を突き動かしていた。この嘘で剣人を傷つけるかもしれない。でも、この絆だけは、何があっても手放したくない。


剣人は、その詩織の言葉と、彼女の揺るぎない眼差しに安堵した。彼女が「大丈夫」と言ったことで、彼の心の中にあった倫理的、現実的なブレーキが外れていく。彼は詩織の言う「安全」という言葉を信じた。


詩織は、剣人の問いかけに対し、視線を合わせながら、震える声でその真意を改めて語り始めた。

「遠く離れても、私たちの間に、決して揺るがない、確かな絆の証が欲しかったから……」


彼女は、文芸部で培った感受性で、言葉にならない深い感情を表現しようとする。それは、単なる性的な行為ではなく、二人の未来を繋ぐための「誓い」であり、「錨(いかり)」であるという認識。

「いつかまた、一緒にいられる日が来ると信じてる。だから、その日まで、この夜の愛が、私たちを繋ぎ止めてくれる……そう、信じたかったの」


詩織の言葉には、彼への深い信頼と、再会への切実な願い、そして、離れても彼を忘れない、忘れてほしくないという、文学少女らしいロマンチックで、同時に痛ましいほどの純粋な感情が込められている。その言葉の全てが、彼の心を揺さぶった。


剣人の混乱が、徐々に理解へと変わっていく。

彼女の言葉、涙、そして彼女が彼を見つめる瞳の奥に宿る、計り知れないほどの愛と覚悟。彼の心の中で、「別れ」と「愛の行為」が矛盾しない、詩織なりの論理が少しずつ見えてくる。それは、まるでサッカーの試合で、一見不可能に見える局面から、新たな戦術が見えてくるような感覚だ。


彼女の自己犠牲的な純粋さに触れ、彼自身の詩織への愛情と、彼女を満たしてあげたいという強い欲求が、理性を超えて湧き上がった。この夜、詩織の全てを受け止め、彼女の願いを叶えることが、今の自分にできる唯一のことだと、剣人は確信した。


剣人は、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって詩織に手を伸ばした。震える指先で、詩織の頬を伝う涙をそっと拭う。そして、その手で詩織の頬を包み込むように撫でた。詩織の瞳が、剣人の手の温かさに反応して、わずかに見開かれる。


「……分かった」

剣人の声は、まだ震えていたが、そこには迷いはなかった。

「詩織が、そこまで思ってくれてるなら……俺は、詩織の願いを、受け入れる」


彼の言葉に、詩織の瞳から、安堵と、そして喜びの涙が溢れ出した。彼女は、彼の手に自分の手を重ね、その指を強く握りしめた。剣人もまた、詩織の手を、まるで宝物のように大切に握り返す。その手の温かさが、二人の間に確かな繋がりがあることを再確認させた。


部屋の空気が、これまでの重苦しいものから、期待と、そして微かな高揚感を帯びたものへと変化していく。窓の外は、すでに深い闇に包まれている。夜が、いよいよ「二人の長い夜」へと姿を変えようとしていた。それは、単なる別れの夜ではない。二人の絆を、より深く、確かなものへと紡ぎ出す、新しい物語の始まりの夜となるだろう。

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