詩織と剣人:紡がれる絆の物語

舞夢宜人

第1話 別れの予感

春の気配がそこかしこに満ち始める頃、高校のグラウンドには、夕陽が長く影を落としていた。既に部活動は引退し、多くの生徒が受験を終え、卒業式の準備や友人との最後の時間を過ごしている中、剣人は一人、人気のないグラウンドの片隅に立っていた。夕焼けに染まる空の下、乾いた土の匂いがわずかに鼻腔をくすぐる。それは、かつて汗と土にまみれ、仲間と共に勝利を目指した日々を鮮明に蘇らせる匂いだった。風が頬を撫でるたび、遠くで聞こえる後輩たちの蹴るボールの音が、三年間の部活動の日々を思い出させる。


剣人にとって、サッカーはただの部活動ではなかった。それは、目標に向かってひたむきに努力することの尊さ、困難に直面しても諦めない精神力、そして、何よりも熱い仲間との絆を教えてくれた。身長180cm、75kgの逞しい体格は、サッカーに捧げた日々が育んだものだ。広いグラウンドを縦横無尽に駆け巡るための持久力も、誰にも負けない自信があった。それは、単なる体力的な強さだけではなく、どんなに苦しい状況でも耐え抜く精神的な強さにも繋がっていた。


ふと、彼は無意識に軽く体を動かした。ボールがないのに、足裏で地面の感触を確かめるように、細かくステップを踏む。体が自然と、サッカー選手としての動きを覚えているのだ。その時、遠くで後輩たちが楽しそうにボールを追いかける声が耳に届いた。もうあの日々には戻れないという一抹の寂しさが胸をよぎる。しかし、それは決して後ろ向きな感情ではなかった。三年間を全力でやり切った達成感と、これから始まる新しい未来への静かな期待が、彼の胸に広がる。だが、その未来には、漠然とした不安の影もまた、確実に存在していた。


自宅に戻り、シャワーを浴びて制服から普段着に着替える。Tシャツにジーンズというラフなスタイルは、剣人の鍛えられた体を窮屈なく包み込んだ。自室のベッドに腰を下ろし、何気なくスマートフォンを手に取る。ディスプレイに表示されたのは、詩織とのメッセージ履歴だった。


『明日、卒業式だね』

『うん。なんだか信じられないね』


そんな他愛のないやり取りが、つい数時間前まで続いていた。指先で画面をスクロールすると、楽しかった日々の写真が次々と現れる。初めて手をつないだ帰り道、文化祭で詩織が文芸部で発表した自作小説を二人で読み込んだ休憩時間、クリスマスのイルミネーション、他愛もない放課後のデート……。どれもが、詩織の隣で、屈託のない笑顔を浮かべる自分の顔で溢れていた。


詩織。彼の三年間の高校生活の中心に常にいた存在。

彼女との出会いは、まさに運命的だったと剣人はいつも思っていた。高校受験の日。慣れない土地で道に迷い、焦燥感に駆られていた剣人の目の前に、地図を片手に困り果てた様子の女子生徒がいた。それが詩織だった。声をかけると、彼女もまた道に迷っていることが判明し、二人で協力して何とか試験会場に辿り着いた。あの時の、不安と安堵が入り混じった顔を、今でも鮮明に覚えている。そして、奇跡的に二人は同じ高校に進学し、自然な流れで交際が始まったのだ。


文学少女の詩織と、元サッカー部の自分。タイプは違っても、お互いを尊重し、深く理解し合ってきた。

剣人は、ひたすらボールを追いかける日々だったが、詩織は文芸部で自作小説を書き、繊細な言葉を紡ぐことに情熱を注いでいた。文化祭で彼女が発表した同人誌を読んだ時、剣人は驚いた。そこに描かれていたのは、彼の知らない詩織の、深く複雑な内面だった。登場人物の感情の機微、風景の描写、そして物語の構成。どれもが彼には新鮮で、詩織の才能に改めて感銘を受けた。


「この主人公の気持ちって、どういうことなんだろうな?」


ある日、詩織の部屋で、二人がソファに並んで座り、同人誌を広げながら剣人が尋ねた。詩織は隣でくすくす笑いながら、まるで専門家のようにその小説の意図や登場人物の背景を丁寧に解説してくれた。その時、彼女の横顔は普段よりもずっと生き生きとしていて、彼の知らない詩織の世界を覗き見ているようで、剣人は新鮮な喜びに包まれた。詩織の書く小説の登場人物の複雑な心理を読み解こうと頭を悩ませる時間は、サッカーの戦術を考えるのと同じくらい、剣人にとって刺激的で充実したものだった。彼女の繊細な感受性から生み出される物語は、彼の単純な思考回路では辿り着けない、新しい感情の領域を教えてくれたのだ。


デートの定番は、映画とショッピングだった。剣人はアクション映画やSFが好きで、詩織はヒューマンドラマや文芸作品を好んだ。お互いの好みに合わせて交互に作品を選び、映画館を出た後、感想を言い合う時間が何よりも楽しかった。剣人がサッカーの試合で得点を決めた時の興奮を語れば、詩織は小説の登場人物の心の動きを分析するように、登場人物の感情を深く掘り下げてくれた。ショッピングでは、剣人はスポーツ用品店で新しいスパイクを眺め、詩織は書店で文学作品や詩集を吟味する。それぞれの世界に浸りながらも、時折顔を見合わせて微笑み、相手の興味に寄り添うことができた。そんなささやかな時間が、二人の絆を深めていった。


しかし、明日からは、それぞれが別の道を歩み始める。彼は東京の大学へ。詩織は地元の大学へ。その物理的な距離が、剣人の胸に漠然とした不安の影を落とし始めていた。遠距離恋愛。言葉にするだけで、その響きは重く、困難を予感させた。サッカーの試合では、どんなに苦しい局面でも必ず打開策を見つけてきた。だが、これは違う。これは、これまで彼が経験したことのない「予測不能な未来」であり、どう対処すべきか見当もつかないでいた。


「遠距離恋愛は、辛いだろうか……」


スマートフォンを握る手に、知らず知らずのうちに力が入る。それは、サッカーの試合で、予期せぬ局面を迎えた時の、あの独特な緊張感に似ていた。ゴールを決められ、残り時間が少ない中で、逆転への道筋が見えない時のような、焦燥感が胸の奥で燻っていた。


その頃、詩織もまた、自室で同じ空を見上げていた。夕焼けは、彼女の部屋の窓にも、淡いオレンジ色の光を投げかけている。机の上には、文芸部の部誌が置かれている。最新号には、彼女が卒業制作として書き上げた短編小説が掲載されていた。その物語のテーマは、「別れと再生」。偶然にしては出来すぎたようなテーマに、彼女は自嘲気味に微笑む。


詩織は文芸部で、言葉と感情の奥深さを学んだ。登場人物の些細な行動の裏にある真意、言葉にならない感情の機微を表現することに心を砕いてきた。そして今、彼女自身の人生で、最も難解で、最も痛みのある「物語」を紡ごうとしていた。


剣人。彼の隣にいた三年間は、詩織にとって何物にも代えがたい宝物だった。彼の真っ直ぐな瞳、サッカーに打ち込むひたむきな姿、そして、自分の拙い小説にも真剣に向き合ってくれる優しさ。どれもが、彼女の心を温かく満たしてくれた。だからこそ、今、彼女は覚悟を決めていた。


遠距離恋愛が難しいことは、頭では理解していた。メールや電話で繋がっていても、会えない寂しさ、すれ違う心、そしてお互いの新しい環境での生活。その全てが、二人の絆を少しずつ蝕んでいくかもしれない。文学作品の中では、遠距離恋愛は往々にして悲劇的な結末を迎えることが多い。そんな結末は、絶対に避けたい。剣人の未来のためにも、そして何よりも、自分たちの愛のために。


「これは、私たち二人の、未来のための決断」


詩織は、自分に言い聞かせるように呟いた。一時的に離れることで、それぞれが独立した個として成長し、いつかまた巡り合う日が来た時、より強く、深い絆で結びつくことができると信じていた。それは、彼女の理性と、彼への深い愛から導き出された、苦渋の決断だった。


しかし、言葉にすると、胸が張り裂けそうになる。彼がどんな顔をするだろうか。どんなに悲しむだろうか。そのことを考えると、詩織の心臓は締め付けられるように痛んだ。それでも、伝えなければならない。今日でなければ、もう機会はないかもしれない。明日は卒業式。今日が、二人の「高校生」としての最後の夜なのだから。


彼女は、意を決してスマートフォンを手に取った。画面に表示された「剣人」の名前を、じっと見つめる。指先が、わずかに震える。


その時、スマートフォンのディスプレイが光り、お気に入りのロックバンドの曲が鳴り響いた。画面に表示されたのは「詩織」の文字。


いつも通りの、見慣れた名前。聞き慣れた着信音。

それなのに、なぜだろう。剣人の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。全身に、微かな緊張が走る。まるで、試合終盤の、誰もが息を飲むような緊迫した時間にも似ていた。あの時、チームの運命が自分の足にかかっていた時のような、肌を粟立たせる感覚。


「もしもし、詩織?」


スピーカーから聞こえてきた詩織の声は、いつもより少しだけ低く、微かに震えているように感じられた。

「剣人……あのね、今日、話したいことがあるの。今から家に来てくれないかな?」

その言葉は、いつもの詩織からは想像できないほど、硬く、そして、確固たる決意に満ちていた。剣人の背筋を冷たいものが走る。直感的に、何か重大なことが起きる、そう確信した。それは、試合中に相手のエースがボールを持ち、一瞬の隙も許されない状況に陥った時の、あの危機感にも似ていた。


「分かった。すぐ行くよ」


剣人はそれだけを告げ、電話を切った。受話器を置いた部屋に、静寂が広がる。彼の視線が、机の上に置かれた、詩織と二人で笑顔で写っている卒業アルバムに釘付けになった。その写真の中の、屈託のない笑顔が、今の彼の胸に募る不安をさらに深くした。彼は、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。まるで、サッカーの試合前、ピッチに立つ前に深呼吸をするかのように、自分を落ち着かせようと努める。


「詩織……」


剣人はアルバムから目を離し、立ち上がった。彼の足は、もう詩織の家へと向かっていた。扉を開けるその瞬間、かすかに聞こえた自分の心臓の音が、やけに大きく響いた。夜の帳が降り、街の光がちらほらと点滅し始めている。しかし、剣人の心の中は、これから詩織が告げるであろう言葉の影で、深く沈んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る