琥珀色の黄昏

ファントム

名もなき者たちの賛歌

遠く翳る空から、コンクリートの谷間にたそがれが舞い降りる。

斎藤修一、三十八歳。彼はその時間が好きだった。


一日の終わりでも、夜の始まりでもない、世界が琥珀色に染まる束の間の静寂。

管理人を務める古いマンションの屋上は、その移ろいを独り占めできる彼だけの特等席だった。


「メゾン琥珀」。

誰が名付けたか、洒落ているのか古臭いのか判然としないその建物は、彼の城であり、すみかだった。


昭和四十八年竣工。

茶色いタイル張りの外壁は所々ひび割れ、鉄製の手すりは何度塗り直されたか分からないペンキで厚化粧をしている。

彼自身のように、時代から取り残され、忘れ去られるのを静かに待っているかのような建物だった。

ここは彼の聖域だった。時の流れが、ここでは少しだけ緩やかになる気がした。


窓の外に広がるのは、対照的な「令和」の景色だ。

空を突き刺すようにそびえ立つ、ガラスと鉄骨でできた幾何学的なビル群。

日が落ちれば、そこから色とりどりのLEDの光が放たれ、夜空を人工のオーロラのように染め上げる。

あの光の洪水の中に、かつての自分が追い求めた夢の残骸が漂っているような気がして、斎藤は時折、目を細めた。


彼の日常は、規則正しい円運動のように繰り返される。

早朝、まだ薄暗い中、マンションの共用部を掃き清める。竹ぼうきの先がアスファルトを擦る乾いた音だけが響く。

昼間は、備品の点検や壊れた郵便受けの修理。そして夕方、夜間のビル清掃の仕事へと向かう。

誰かの記憶に残ることもない、淡々とした営み。

彼はその繰り返しに、諦めにも似た安らぎを感じていた。

それでいい。そう自分に言い聞かせ続けて、もう十年以上になる。


その円が、予期せぬ形で綻びたのは、ある木曜日の夜だった。


清掃の仕事を終え、地下鉄のホームで始発を待っていた。

蛍光灯が青白く照らすプラットホーム。疲労した人々が、スマートフォンの画面に魂を吸い取られたかのように押し黙っている。

その中で、不意に、聞き覚えのある声が彼の名を呼んだ。


「もしかして、斎藤か? 斎藤修一だよな?」


振り向くと、そこにいたのは黒川だった。

大学時代、同じ文芸サークルにいた男だ。

上質なウールのコートに、ブランド物の革靴。髪には整髪料の艶があり、その身なりだけで、彼がこちらの世界とは違う種類の時間を生きていることが分かった。

対する自分は、くたびれた作業着に、履き潰したスニーカー。

見えない壁が、一瞬にして二人の間にそびえ立った。


「黒川……。久しぶりだな」

声を絞り出すのがやっとだった。


「いやあ、驚いたな。こんな所で会うなんて。卒業以来か? 十五年ぶりくらいか?」

黒川は人懐こい笑顔を浮かべている。だが、その目は値踏みするように斎藤の全身を素早く撫でていた。


「今、何やってんだ?」


その質問は、鋭い針となって斎藤の胸に突き刺さった。

嘘はつけなかった。マンションの管理人と、清掃の仕事をしていること。

正直に伝えると、黒川の顔から笑顔がすっと消えた。その目に浮かんだのは、哀れみと、理解できない生き物を見るかのような戸惑いの色だった。

少なくとも、斎藤にはそう見えた。


「そうか……。そうなんだ」


彼はそれ以上、何も聞いてこなかった。仕事の内容も、暮らしぶりも。

ただ、気まずい沈黙が流れ、やがて彼は思い出したように言った。


「俺は今、小さな出版社だけど、雑誌の編集長をやってる。まあ、いろいろ大変だけどな」


その言葉は、謙遜の衣をまとった誇示だった。斎藤には分かった。

そして、電車の到着を告げるアナウンスが、彼をその気まずさから解放した。


「じゃあ、俺はこれで」と黒川が言い、すれ違いざまに、彼の肩を軽く叩いた。

「斎藤も、まあ、頑張れよ」


その「頑張れよ」という一言が、飲み込んでしまった小さなガラスの破片のように、体の内側からじくじくと彼を傷つけ始めた。


電車に乗り、汚れた窓に映る自分の顔を見た。三十八歳。

そこに映っていたのは、夢に破れ、人生を諦め、ただ老いていくだけの男の顔だった。

黒川の言葉が、呪いのように反響する。

頑張れよ。俺は、頑張っていないというのか。この道は、間違っていたというのか。


その夜、斎藤は眠れなかった。

自室の、わずか六畳の空間が、独房のように感じられた。

彼はベッドから起き上がると、机のいちばん下の引き出しに手をかけた。

ぎしり、と湿った音を立てて開いた引き出しの奥。そこには、彼の「化石」が眠っていた。

黄色く変色し、端が丸まった原稿用紙の束。大学時代から二十代半ばまで、彼が心血を注いで書き続けた小説の数々だ。


『海鳴りの果て』『冬の旅人』『都市の肖像』。


気取ったタイトルを指でなぞる。

あの頃は信じていた。言葉の力で、世界を切り取り、何かを成し遂げられると。

いつか自分の名前が活字になり、書店に並ぶのだと。

その夢は、無数のコンクールへの落選通知とともに、少しずつ削られ、やがて跡形もなくなった。

最後に筆を折った日のことは、もう思い出せない。思い出さないようにしている。


その原稿の束が、今夜に限って、無言で彼を責め立てているようだった。

お前は逃げたのだ、と。

戦うことを、頑張ることを、途中で放棄したのだ、と。

消し炭になったはずの胸の奥で、世間的な成功への憧れが、ちりちりと小さな火花を上げていた。


いてもたってもいられず、彼はアパートを飛び出した。

深夜の街は、彼が清掃しているビル群が放つ令和のネオンで、眠ることを忘れていた。

青、紫、ピンク。巨大な滝のように流れ落ちる光の洪水。

その華やかさが、自分のちっぽけな存在を、無価値な人生を嘲笑っているように感じられた。

俺はこの光の一部ではない。俺は、この光に照らされる側の人間ですらない。

ただ、この光が作り出す影の、さらにその奥にうずくまっているだけだ。


どれくらい歩いただろうか。

空が白み始め、始発の電車が動き出す時間になっていた。

虚無感だけを引きずって、彼は自分の城、「メゾン琥珀」へと戻った。


一階の廊下を歩いていると、二〇三号室のドアがわずかに開き、すぐに閉まる気配がした。

気のせいか、と管理人室を兼ねた自室のドアの前まで来ると、彼は足を止めた。

ドアノブに、小さなスーパーのビニール袋が掛けられていた。

訝しみながら手に取ると、中にはまだ温かい缶コーヒーが一本と、二つ折りにされたメモ用紙が入っていた。


震える指でメモを開く。

そこには、丸みを帯びた、丁寧な文字が並んでいた。


『斎藤さんへ

いつも夜遅くまでお疲れ様です。

寒い日が続きますので、どうぞご自愛ください。

ささやかですが。

二〇三号室 水野』


水野小夜子。

二階に住む、小柄な女性だ。駅前の小さな花屋で働いていると、以前、回覧板を届けた時に聞いた。

いつも伏し目がちで、挨拶を交わす時も、消え入りそうな声で会釈するだけ。

だが、彼女が通り過ぎた後には、いつも微かに土と花の匂いが残った。

彼女もまた、この大都会で静かに息づく、名もなき一人だ。


缶コーヒーの熱が、凍てついた指先から、ゆっくりと、しかし確実に彼の心へと染み渡っていく。

誰にも評価されない、誰の記憶にも残らないと思っていた自分の日常を、見ていてくれる人がいた。

ただそれだけの事実が、黒川に突きつけられた「頑張れ」の刃よりも、ずっと深く、彼の魂を揺さぶった。


「もう、いいじゃないか」

心の奥底で、長い間自分を縛り付けていた鎖が、音を立てて解けていく。そんな気がした。

この道は、どこへ続いているのだろう。わからない。

だが、この温かさがあるのなら。この琥珀色の優しさがあるのなら、まだ歩けるかもしれない。


その日、彼は久しぶりに昼間まで眠った。


翌日の夕方、いつものように彼は屋上にいた。

たそがれが街を金色に染め上げている。

彼は手すりに寄りかかり、眼下に広がる無数の窓を眺めていた。一つ、また一つと、生活の灯りがともっていく。

あの光の一つ一つの下に、数えきれない人々の魂があり、それぞれの喜びと悲しみを抱えた人生がある。

黒川のように脚光を浴びる者もいれば、自分や水野さんのように、誰にも知られず日々を過ごす者もいる。


その時、ふと、すぐ下のベランダに人の気配を感じた。水野さんだった。

彼女は小さなジョウロを手に、ベランダの隅に置かれた植木鉢に、ゆっくりと水をやっていた。

何の変哲もない、どこにでも売っているような素焼きの鉢だ。そこに咲いているのは、名前も知らない小さな紫色の花だった。


水野さんは、その花を、本当に愛おしそうに見つめていた。

まるで我が子に語りかけるように、その葉に触れ、花びらの様子を確かめている。

彼女の周りだけ、時間の流れが違うようだった。街の喧騒も、令和のきらびやかな光も、そこには届かない。

ただ、一つの命と、それを見守るもう一つの命が、静かな対話を交わしている。


その光景を見た瞬間、すとん、と斎藤の胸のつかえが落ちた。

雷に打たれたような衝撃でも、劇的な感動でもない。

ただ、長年探し続けていたパズルの最後のピースが、あるべき場所に、音もなく収まったような、そんな感覚だった。


そうだ。俺は、こういうもののために生きたかったのだ。


憧れや名誉はいらない。華やかな夢も欲しくない。

ただ、こうして誰にも知られず、街の片隅で、自分の役割を黙々とこなす。

疲れた夜に、誰かがそっと差し出してくれる缶コーヒーの温かさに触れる。

ベランダに咲く名もなき花を美しいと思う心を持つ。


その瞬間、斎藤は不思議な感覚に包まれた。

水野さんが一輪の花に水をやる。その光景を美しいと感じている俺がいる。

それらは決して孤立した点ではなかった。

眼下の灯りも、遠くの一番星も、この巨大な都市の鼓動も、すべてが繋がっている。

俺が締める一本のボルトも、彼女が注ぐ一杯の水も、等しくこの世界を支えている。

万物と調和するような、静かで確かな実感が、彼の全身を貫いた。


生き続ける事の意味。

それは、誰かに与えられるものでもなければ、どこか遠くにある目標でもない。

限りない命のすきまを、琥珀色の優しさが流れ、それを受け止め、また誰かに手渡していく。

その名もなき営みの、連鎖そのものなのだ。

長い間、心の奥で冷たく固まっていた寂しさが、静かに光を放つ、美しい琥珀に変わっていくのを感じた。


斎藤は、引き出しの奥の原稿用紙を思い出した。

あれはもう、敗北の象徴ではない。今の自分を形作った、愛おしい地層の一部だ。

彼はもう、あの頃の自分を責めることはないだろう。


彼はゆっくりと手すりから体を起こした。

そして、その手すりを支える支柱の根元、少しだけ錆が浮いた一本のボルトに気づいた。

だが、管理人の目はそれを見逃さなかった。

ポケットから、いつも持ち歩いている小さな十徳ナイフを取り出す。その中から、プラスドライバーの先端を引き出した。


彼は錆びついたボルトの溝に、ドライバーの先端を慎重に合わせる。

そして、ゆっくりと、しかし確実に、力を込めて回した。


カチリ、と小さな金属音がした。


誰に褒められるでもない。感謝されるわけでもない。

彼がやらなければ、もしかしたら誰も気づかないまま、何年も過ぎたかもしれない。

そんな、ささやかな行為。彼の、日常の仕事の一部。

だが、その行為が、世界を支えるための一つの小さな祈りのようだと、彼は感じた。

このボルト一本が、この建物を支え、建物が住人を支え、住人たちがこの街を支えている。

そして、その街は、世界と繋がっている。


その「カチリ」という音は、彼にとって、街のざわめきと調和する最初の音符となった。

車のクラクションも、遠くで鳴るサイレンも、アパートのどこかの部屋から漏れてくる子供の笑い声も、もう彼を疎外する騒音ではなかった。


それは、壮大な生命の賛歌だった。

自分と同じように、この街の片隅で、名もなき人生を懸命に生きている数知れぬ魂たちが奏でる、美しく、尊いコーラスだ。

彼は、その一員なのだ。


彼はもう一度、琥珀色に沈んでいく街を見下ろした。

無数の灯りは、もう彼を嘲笑してはいなかった。ただ静かに、そこにある。

そして、自分もまた、ただ静かに、ここにいる。


「生き続けることの意味を、これからもこの場所で、静かに待ち望んでいよう」


斎藤は、誰に聞かせるともなく、そう呟いた。

彼の顔には、諦めではない、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


遠くで、一番星が瞬き始める。

たそがれが、完全に降りてくる。

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