第四話:復讐の萌芽

リリスが村に戻らないという知らせは、アルバス・蒼月の心を打ち砕いた。王都からの巡礼者が持ち帰った情報は、彼の知る陽気なリリスの面影を、無情にも残酷な裏切り者の影へと変えていた。聖杯の消失という噂は、その裏付けとなり、アルバスの純粋な心は、もはや耐えきれないほどの激しい痛みに苛まれた。


村人たちは、聖杯の消失とリリスの不在に動揺を隠せないでいた。彼らはアルバスに同情の目を向け、言葉にならない慰めを贈ろうとした。しかし、アルバスの心は、もはや同情を受け入れる余地はなかった。彼の内側で、何か温かいものが音を立てて砕け散り、代わりに冷たい鋼のような感情が育ち始めていた。


「許さない。決して…」


アルバスは、誰に聞かせるでもなく、静かに、しかし確固たる決意を口にした。彼の瞳は、もはやかつての澄んだ輝きを失い、深い淵のような暗さを宿していた。治癒魔法しか持たなかった自分を責めた。もし、もっと強かったなら。もし、もっと力があったなら。リリスは、自分を裏切らなかったのではないか。そんな自問自答が、彼の心を深く抉る。


二度と、誰にも心を奪われない。二度と、こんな悲劇を繰り返さない。そのために、強くなる。彼は、決意した。


月影の村を離れることに、迷いはなかった。彼の心は、復讐という一点に集中していた。王都へ向かう。リリスとゼルファス・闇鋼への復讐、そして聖杯の奪還。それが、彼の新たな生きる目的となった。


旅立ちの朝、アルバスは静かに村を後にした。振り返ることはなかった。彼の心は、すでに過去を振り切っていた。


王都への道は険しかった。魔物の脅威、そして貴族間の権力争いが複雑に絡み合うアストレアの世界は、月影の村の穏やかさとはかけ離れた場所だった。アルバスは、荒れた道をひたすら歩き続けた。しかし、彼の心には、疲労や飢えといった感情よりも、復讐への強い思いが燃え盛っていた。


数日後、深い森の中に足を踏み入れたアルバスは、偶然、不思議な気配に導かれるように、伝説の賢者、シエナ・翠玉と出会った。森の奥深く、苔むした巨木が立ち並ぶ神秘的な空間に、シエナはいた。彼女は、外見は二十代ほどの若々しい女性に見えたが、その瞳の奥には、数百年もの時を生きてきたかのような深い知恵と、あらゆる感情を見透かすような鋭さが宿っていた。森の賢者、エルフに近い存在と伝えられる彼女の存在は、アルバスが抱いていた復讐の炎を、さらに燃え上がらせるきっかけとなる。


シエナは、アルバスの姿を見るなり、静かに目を閉じた。


「お前は、深い闇を抱えているな…そして、その奥には、途方もない光が隠されている」


シエナの言葉に、アルバスは驚いた。彼女は、初対面にもかかわらず、自分の心の奥底を見透かしているようだった。


「その闇は、復讐か。だが、お前の中に眠る魔力は、その闇をも凌駕するほどに強大だ。それを、正しい方向へと導く者が、お前には必要だ」


シエナは、アルバスの隠れた才能を見抜いていた。彼は、これまで治癒魔法しか使ってこなかったが、その身には、計り知れない魔力が宿っていたのだ。


「私がお前を導こう。お前の中の光を引き出し、その魔力を制御する方法を教えてやる」


シエナの言葉は、アルバスにとって、まさに暗闇の中の光明だった。彼は、シエナの言葉を信じ、彼女に導きを請うた。シエナは、アルバスを森の奥深くへと誘った。そこには、古びた石造りの建物がひっそりと佇んでいた。それは、かつて賢者たちが修行を積んだ場所だという。


シエナの修行は、想像を絶するほど過酷なものだった。彼女は、アルバスに治癒魔法だけでなく、攻撃魔法や精神魔法の習得にも励ませた。基礎的な魔力の制御から始まり、複雑な呪文の詠唱、そして実践的な戦闘訓練まで、多岐にわたる修行が課された。


「お前の怒りは、魔力を増幅させる。だが、怒りだけに囚われてはならない。感情は、魔法を操る上で重要な要素だが、それを御するのは、理性と冷静さだ」


シエナの言葉は厳しかったが、その中には、アルバスを真に強くしようとする温かさが感じられた。アルバスは、休む間もなく修行に打ち込んだ。彼の心には、リリスとゼルファスへの復讐という明確な目標があったからだ。怒りが、彼の魔法の力を増幅させた。彼の魔力は、シエナも驚くほどの速さで成長していった。


数ヶ月後、アルバスは、見違えるほどに変わっていた。その体つきは、以前よりも引き締まり、顔つきも精悍さを増していた。彼の瞳には、かつての優しさではなく、復讐の炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。もはや、彼の知る純粋で控えめな青年は、そこにいなかった。


彼の心は、復讐という毒に侵されつつも、同時に、計り知れない力を手に入れていた。シエナは、そんなアルバスの成長を静かに見守っていた。彼女は知っていた。この若者の魂の奥底には、まだ希望の光が残されていることを。だが、その光が再び輝きを取り戻すには、まだ長い道のりがあることも、また知っていた。

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