第6話 美味しいディナー

 儀式としての結婚式が済んで、ひとまずまた自室に戻って着替えることになった。

 神々に対して夫婦の誓いを立てるためには正装が望ましいが、しかし儀式自体は参列者もないため一時間もかからず終わるので、いつまでも着ていたところで不便だし、汚損のリスクを上げるだけだからさっさと着替えてしまおう、ということで話が一致した。

 尤も、アルバンは自分も面倒だしすぐ上着を脱ぎたいと思ってはいるが、一方で私の花嫁姿をいつまでも眺めていたいなどと口走り葛藤していたのだが、単刀直入に「もっと楽な服に着替えたいです」と伝えたところ快諾してくれた。

 数秒間黙って何かを考え込んでいたのだが、あれは恐らく、私的な場での私の服装を見られるなと思い直した感がある。

 どんな服かと聞かれたので、普通に黒いマーメイドスカートのドレスだと伝えたところ、また微妙に息が荒くなりつつあったので、早々に退散することにした。

 今日だけで既にこの服で三着目な訳だが、仕方ない。

 これまでは気楽な子爵令嬢だったので、たまにあるお茶会などの他は一日中同じ服装でよかった。友人が一人もいないので滅多に招かれることもないから、社交シーズン真っ只中でも月に三回出掛けるかどうかで済んでいたのだが……これからはそうもいかないだろう。

 高位貴族の奥方というものは、兎角、着替えが多い。

 家長であるアルバン自身が社交嫌いなので、そこまで社交も多くはないのであろうが、もし来客があった場合は大変である。一応は今日から私が屋敷の女主人ということになるため、アルバンが仕事で不在のさいには代理として応対しなくてはならない。故に、相手と要件に合わせて、相応しい服装に急いで着替える必要が出てくる訳だ。

 ただ、私は常に全てのドレスが真っ黒なので、よほど目敏い人物でない限り、判別するのが難しいから、いざとなったら「いつも違うドレスを着ていますが?」という顔をして乗り切ってしまおう。

 そんなことを考えつつ、一人で重たいドレスを脱いで、軽くて楽なドレスに着替えた。

「奥様、お食事の準備が整いました」

「わかりました。今行きます」

 わざわざ例の、気配の薄い家令が呼びに来てくれるあたり、いちいち全てにおいて気を遣われているなぁ、と思う。

 のっけから全力で、アルバンは「君のことを辺境伯夫人として尊重します」とアピールしているのであろう。

 ーー正直、悪い気はしない。

 本来なら私の方が圧倒的に立場が弱く、肩身が狭い中で小さくなって義務を果たすというのが妥当な線なのだが、夫であるアルバンは何故か私のことが好きで仕方ないようなので、謎の逆転現象が起きている。理由が分からないので、いつか見限られたらこの待遇も終わるのだろうが、ひとまずは人としても相性が悪くないようだし、気楽に意見交換が出来る間柄を彼が望むうちは安泰と言えよう。

「ツェツィーリア」

 彼は先に食堂で待っていた。

 広く立派な食堂で、古い造りだが、よく掃除が行き届いている。灯りに関しては魔道工学式照明を導入しているようで、昼間のように明るかった。

 長いテーブルの奥、その端に彼の席があり、向かってすぐ右側が私の席だ。

 アルバンは座っていたのに、私がやってくるとわざわざ立ち上がって出迎えてくれた。彼の方が圧倒的に身分が高く、かつ当主であるというのに、これは破格の対応である。

「どうぞ。座って」

「ありがとうございます」

 わざわざアルバンが椅子を引いてくれたので、素直にそのまま座るが、周囲の使用人たちの数名がギョッとしているのが見えた。

 まあ、そうですよね……。

 これをやるのは普通、執事の役割であって、まさか屋敷の主人が妻に対してやりたがるなんて思いませんよね。

「ドレスを着てくれたんだね。その服もす、素敵だ……!」

 アルバンが気安い感じで接してはくれているものの、ドレスの方が良いのだろうな、と思って選んだのだが、この人、めちゃくちゃラフな格好で来たな……?

 白いシャツに黒いスラックスだけという簡素さである。タイもベストも着ていない。休日の田舎貴族スタイル。またの名を、お忍びバカンス服。

 さ、さてはこの人、社交嫌いで、かつ辺境伯だから領地の防衛が〜と言い訳をして引き篭もって、毎日こういう風にやりたい放題やって過ごしているな!?

 あの言葉は嘘でもなんでもなく、本気で好き勝手をやっているんだな? 実験に限らずあらゆる方面で。

「ええと、アルバン様さえ良いのなら、私も明日からは、似たような系統の服装でもよろしいですか?」

「あっ、もしかして、気を遣ってくれた? ごめんね。先に言っておけば良かった。うちは本気で社交を拒否しているから、服装は何も気にしなくて良いんだ。僕が全部追い返しているからね。なんなら、一日中寝巻きでも大丈夫だよ!」

「流石にそれはどうかとは思いますが、端的でわかりやすい説明ですね。ありがとうございます」

「僕はたまに同じ服のまま何日か研究に入ったりするんだけど、やっぱり嫌かな?」

「研究の内容によっては、手が離せないこともあるでしょう。その場合は仕方ないとは思いますが……健康には良くないので、なるべく避けた方が良いかとは思います」

「心配までしてくれるの? 君って本当に優しいんだねっ……!」

「今更なのですが、アルバン様は私のことをどういう人間だと思っているんですか?」

 不健康な生活は避けるべきだし、何日も同じ服で、お風呂にも入らないのは衛生的によくない。

 なので、同居家族のそういった生活習慣に対して懸念を示すのは当たり前のことだと思うのだが、そういった回路を持たない人でなしと勘違いされている可能性が俄かに浮上してきた。

 先ほど、庭の会話では私が使用人を鞭で打つとかナントカという発言もあったので、これは邪悪な心を持った妖婦と認識されているのではあるまいか?

「そもそも、私のことをどこで知ったのですか?」

「うん、そうだね。そろそろ話そうか」

 会話の流れが良い感じになってきた。

 タイミングを見計らって配膳されたスープに、アルバンが手を付けたので、ではこちらも遠慮なく、とスプーンを手に口に運んでみたのだが……。

「実は僕と君は、子供の頃に出会っているんだ」

「おっ、おいしいっ……!」

 被った。

 発言が被った。

 それも、最悪のタイミングで。

 ……弁明させて欲しい。今まで食べたことがないくらい美味しいこのスープがいけないのだと。

 ポタージュであるのは確実なのだが、なんのポタージュなのかは全く分からない。少なくとも私が知らない食材であるのだろう。白いポタージュで、ほのかに甘くて、独特の香りがなんとも言えず良い匂いである。加えて、恐らくだが使われているクリームの質が良い、のかも知れない。

「あ、これはね、百合の根っこのポタージュ」

「百合の根なんですか?」

「正確には球根かな。鱗茎って言って、鱗が重なっているような形状の、百合の球根だよ。食用にするものは花が余り美しくないから、園芸品種とはまた別なんだけど、地中で冬を越せるから、北ではよく栽培されるんだ。君には馴染みのない食べ物だったかな?」

「ええ。初めて食べました。その、は、話の腰を折ってしまってすみません」

「ああ、全然良いよ。ツェツィーリアは黒百合姫って呼ばれているでしょ? 折角だし、特産品でもある百合根を食べて貰おうかなって。君のために用意したから、喜んでくれて嬉しいよ」

「や、優しい。す、好き……!」

 本音が口からまろび出てしまった。

 私はどうにも、生まれながらにして現金というか、率直に言っていやしんぼな部分が多分にある。美味しいものに対して抗うことが出来ない性分なので、修道院行きを両親に誘惑されるがままに先送りとしていたのもそこに理由がある。

 修道院とは質素倹約を美徳する場所。食べるものは貴族の子女といえども、塩味の薄い豆のスープとパンという組み合わせがベースとなる。つまり、修道女はほぼ毎日、美味しくないものを食べて生きねばならぬのだ。

 ごくごく稀に、農場が併設された修道院であれば、チーズやらハムやらベーコンやらがたまに出たりするところもあるが、そういった修道院は国内になんと三つしかない。おまけに人気が高いし、当然ながら入れるのは欠員が出た時だけなので、倍率が高い。大抵の場合は身分の高い女性が優先されるものなので、子爵令嬢でしかない私は、ご飯の美味しい修道院には入れない。もし入れるとしたら、疫病が蔓延して一気に修道女が総入れ替えの勢いでお亡くなりになったので部屋が空きました、というようなパターンでしかあり得ないのだが、そうなると修道院の存続自体が怪しくなってくるため、現実的には不可能なのである。

 修道院、修道院かぁ……味の薄い、豆のスープばっかりで、朝から晩までずっとお祈りしか出来ない上に、配置場所が悪ければそこそこキツい肉体労働が待っていて、おかわりも出来ない修道院かぁ……まあ、年取ってからなら食も細くなるだろうし、年取ってから入ったら、丁度良いかな……?

 などと考えて実家に甘え続けてきた。

 それが私である。

 そんなのがいきなり、君のためだよ、なんて言われて、食べたこともない美味しいものをお出しされてしまっては、これはもう好きにならざるを得ない。

 物凄いスピードで懐いてしまうのは不可抗力。

 すぐ隣で、アルバンもそのことを感じ取ったらしい。何やらやたらと凛々しい顔をしている。

 なんならあからさまに「これだ……!」という表情なのだが、もう口の中が味の世界に旅立ってしまっており、それどころではない。

 百合根おいしい!

 ポタージュ、おいしい!

 通常、貴夫人とは少食であるべしと躾けられるもの。正式な会食では間違っても完食などせず、一口二口で皿を下げさせるもの。

 家族間であれば完食しても良いが、新婚の場合、結婚後しばらくは距離を取って少食を演じるのが世間のスタンダード……それはわかっている。

 わかっているが、それどころじゃねぇ。

 この美味しさを前に残すなどと冒涜的な行為が許される訳はない。

「ツェツィーリア、スープを飲み過ぎると、残りが食べ切れなくなっちゃうよ?」

「え、でも」

 このポタージュ、美味しいので可能ならおかわりをしたいのですがそれは。

「次はキャビアのブルスケッタが来るけど」

「キャビア! うっ、ま、迷いどころですが、スープは液体なので」

「無理して食べなくて良いんだよ? 君が食べたいなら、いつでも用意させるからね?」

「ほ、ほんとうですか……?」

 キャビア。

 頭にはもうキャビアのことしかない。

 正直、私はキャビアに目がない。魚卵が好きだ。あの濃厚でコクのある、塩の効いた旨味の塊。肉も好きだが、それ以上に魚と魚卵が好き。

「……キャビアだけど、うちの領地で生産しているし、なんなら、辺境伯領の管理する養殖場があるから、欲しいなら質の良いものを優先的に手に入れることが出来るよ。王室から要望があれば、そっちを優先することになるけどね」

「そんな贅沢が許されていいんですか……?」

「もちろんだよ。じゃあ、食べて味を確かめてみてくれる?」

 しっかり百合根のポタージュを完食したら、すかさず次が運ばれてきた。

 ごく薄くスライスされたパンの上に、キラキラと輝くキャビアがたっぷり乗っている。細かく刻んだタマネギとハーブが混ぜ込まれており、見るからに美味しそうだ。

 というか、キャビアの粒がデカい。

 なんだこの食べられる宝石は?

「ほわぁ」

 口に入れた途端、アホみたいな声を出してしまった。

 今までの人生で食べたキャビアの中で一番おいしい。大貴族の大きなパーティーで食べたものよりずっと美味しい。生臭さがなくて、塩気が控えめで、幾らでも食べられそう。

「……次、なんだっけ?」

「サーモンのムニエルをご用意しております」

「こんなに美味しいキャビア、はじめてたべました……。」

「ツェツィーリアは甘いものそんなに好きじゃないから、デザートは省こうか。かわりに、鮭を少し大きめに。一番良いところを使うように」

「かしこまりました」

 アルバンと家令が何やら喋っているが、もぐもぐムシャムシャ、美味しくキャビアのブルスケッタを食べていたので、まるで頭に入ってこなかった。

 量が少なかったので一瞬で終わってしまい、ややションボリしていたところ、間髪入れずにアルバンが私の皿に自分のブルスケッタをスライドしてくれた。聖人かな?

「く、くれ、くれるんですか?」

「うん」

「こ、こんなに美味しいものを、くれ、くれる……?」

「好きな人には美味しいものを食べて欲しいからね。僕と一緒に暮らせば、毎日美味しいものを食べさせてあげるよ」

「か、かっこいい……! 甲斐性しかない……!」

「よぉしッ! シェフの給料、三倍にしといて」

 キャビアのおかわりが来たので、遠慮なく口の中へ。

 欲望に抗えない。

 既に美味さによって頭がメロメロになっているが、一方で「このキャビアはもう私のもんだ……!」という意地汚さから、他の誰にも奪われてなるものかという情念でお礼もそこそこにかぶりついてしまう。淑女失格である。

 が、アルバンが無言で小さくガッツポーズをしているのが視界の端で見えたが、主にキャビアを見詰めているため目のピントが合わない。人間にピントを合わせている場合じゃない。そんなことよりキャビアだキャビア。

 幸せ。おいしい。幸せ。

 終わっちゃった……。

 美味しいものは食べるとなくなる。

 食べれば無くなるのは当たり前だし、美味かろうが不味かろうが変わらない筈なのだが、不味いものはいつまでもモチャモチャと噛み続けてしまうものなので、美味しいものほど口の中に留まってくれないもの。諸行無常である。

「ツェツィーリア、次はサーモンだよ」

「サーモン」

「うん。サーモンもうちの特産品だからね。海の魚は手に入らないけど、パーチやマスなら新鮮なものがいつでも食べられるよ」

「サーモンがある。つ、つまり、イクラも……?」

「勿論。季節になったら食べようね」

「幸せすぎます」

「うんうん。あったかいうちに食べようか」

「はい!」

 サーモンのムニエルは、脂がよく乗っていて、ふわふわに焼き上げられていた。レモンとバターのソースがおいしい。口の中でほろほろ解ける。添えられている温野菜もおいしい。カブとニンジンとジャガイモ。彩も兼ねて、ほうれん草のソースで味変が可能というこの絶妙な塩梅。

 もぐもぐ食べていたら、アルバンがこっちをジッと眺めている。

 そこで、ハッと我に返った。

「す、すみません……!」

「いいんだよ。好きなように食べてね」

「食べるの、昔から遅いんです。お待たせしてしまって」

「そっちかぁ……うん、大丈夫だよ。僕は体が大きいから口も大きいし、食べるのが早いからね。君は口が小さいし顎も華奢だから、時間がかかるのは当然だよ」

「ん、んっ! ありがとうございます」

 お許しが出たので、ゆっくりもぐもぐ食べさせて頂き、サーモンのムニエルも完食。

 なかなかお腹が満たされてきたので、そこそこ理性が戻ってきた。

「ふと思ったのですが、食べるのが早くないと、遠征中などはやはり、支障が出るのでしょうか?」

「そうだね。訓練の過程で、訓練時間と休憩時間はきっちり決められているから、自然と時間内に食べ切るようにはなるかな」

「そうなのですね。何分くらいの時間が設けられているのですか?」

「訓練過程によって違うけど、通常の訓練だと四十五分。強化訓練だと三十分。模擬演習だとまあ、五分で無理やりとかだね。ただ、領地内での巡回とか調査が目的の場合の実戦だと、煮炊きも含めて二時間くらいでゆっくり食べたりもするよ」

「なるほど、ありがとうございます」

 軽い気持ちで聞いたが、なんだか関係者以外が聞いてはいけない内容のような気がする。

 一般の訓練過程なら機密性も低いのでまだわかるが、強化訓練や模擬演習に関しては私が聞いてはいけないのではないだろうか。いや、それとも私が知らないだけで、軍人の妻というものは知っていなくてはならないというパターンなのだろうか?

「うーん、どうしようかな……いいや。やっちゃおう。ツェツィーリア、君は戦術知識に関しては独学なのかな?」

「はい」

 うわ、やばい。

 なんか嫌な予感がする。

 重要なことが今、アルバンの中でサラッと決定された気がする。

「戦略に関してはどうかな?」

「わかりません。データの累積から決定するものとは思いますが、具体的には……。」

「うん、なるほどね。じゃあ、作戦についてはどうかな?」

「本で読んだだけなので、本質を理解できているとは思いません。実例を知れば理屈としては理解できますが、あくまで結果論から見た過程を知るだけなので、論じられるレベルではないですね」

「素晴らしい。君は自分自身のことを正確に理解している。そして非凡だ。ただ、ひとつだけ忠告するとすれば、ツェツィーリア、普通の貴婦人は戦略と作戦と戦術の違いを知らないんだよ。他所の人に聞かれたら、首を傾げてわからないフリをして」

「あっ」

 確かにそうだ。

 普通の令嬢や貴婦人は、その三つの違いを知らない。知っている人も居るには居るが、かなり限定的ではあるだろう。夫や父親がゴリゴリの軍人で、仲睦まじいが故に一度聞いたことがありますわ、ぐらいの可能性でしかなく、聞いたところで興味がなければ即座に忘れるからだ。

 まず、大別して、大きな枠組みから順に、戦略、作戦、戦術という風に分けられる。

 戦略は全体の行動方針であり、いわゆる目標設定。例えば、我が国は北側の情勢が不安定なので、そちらに対しては警戒を続け、東西の二国とは外交をもって均衡を保とう、という具合に。

 作戦は設定した戦略を実現に移すために何をすれば良いかという具体的な計画、プロジェクトをさす。例えば、北側の脅威に対抗するために辺境伯を据えて、独自に防衛拠点と防衛軍を配置し、辺境伯にはその采配の全てを任せるという特別措置を取ることで対処しよう、というもの。

 戦術は、その戦術を実行するにあたり必要となる具体的な行動。例えば、敵軍が山を越えて攻めてきたので、窪地にこちらの小隊を置いて待ち構え、また別の小隊は撹乱しつつそこに誘導しよう、といったもの。

 かなり乱暴な説明をするとそんな感じだが、私の頭では、他に上手い例えが見つからない。

 ここに、さらに一つ、一番重要な要素があって、それは兵站なのだが……こちらは物流手配というもので、物資の輸送ルートと、実際に現場で動く人員に対して補給される食品、衣類、医薬品、各種衛生用品などが供給されなくては、そもそも働けないし死んじゃいますよね、という分野である。理屈としては単純だけど、地図や予算と睨めっこして、物理的に、そして時間としてもいけるかどうか知恵を絞る、というものなので、これが出来ていないとお話になりません、という分野である。

「ツェツィーリア、子供ができるまで君を軟禁すると言ったけど、撤回するよ。君には辺境伯領を統治するのに必要な素質がある。だから、ここの暮らしに慣れたら、ゆっくりで良いから僕と一緒に、領地を見て回ろう」

「えっ、それは……大丈夫なのですか?」

「うん。子供が出来れば君を縛り付けられるなって思っていたんだけど、子供を置いて離婚する、とかも、やろうと思えば出来てしまうからね。逆に、軍事機密を教えて関わらせてしまえば、君が逃げようとしても合法的に追跡と捕縛が可能になるから、そっちの方が拘束力は強いかなって」

「動機はブレないんですね」

「辺境伯夫人に対してどのくらいの権限を与えるのかに関しては僕の裁量次第だし、言っちゃえば辺境伯なんて結果さえ出していれば何やっても良いんだから、割と融通は効くんだよね。大人しく真面目にやったって周りからは絶対に文句付けられるんだし」

「そ、それは、確かにそうなんですよね……!」

 ああ、とうとう言ってしまったか。

 辺境伯領は広い。

 北の山脈に沿って、ほとんど横長の楕円形に近いが、面積からして他よりも圧倒的に広いのだ。

 国防の観点からして仕方のないことだし、なんなら最悪、もし戦争になったら緩衝地帯にされたり、本土決戦になってもここまでなら侵攻されてもしょうがないかな、というところで区切られているのだ。

 そして、そのような重要地点を管理するのは大変だし、領地運営で躓いたりしたら防衛のための軍を維持できないし、国家の危機だよね? ということで、広くって旨味のある、資源の豊富な土地を与えられている特例こそが、北のフリートホーフ辺境伯なのだ。

 結果的に、広大な領地と国境防衛軍を抱え、回すお金も物資も多く、実入は多いがとにかく管理が死ぬほど大変で手間がかかることは想像に難くない。

 これまでアルバンが社交を拒否し、周囲から恩を売ろうと這い寄る有力貴族たちを退けつつ、独力で維持出来ているのは尋常ではないことなのだ。

 歴史を見ても、先代が涼しい顔をしていましたが、引き継いでみれば運営は火の車でした、という辺境伯も何人か存在したらしい。何度か、広すぎるのでもう一つ家を増やして東と西で分割してはどうかという議論も成されたらしいが、それだと物流の面や地形的な面を鑑みても防衛力が弱くなるとの結論から、分割されずに今に至っている。

 と、いうのを、ここに来る途中、馬車の中で軽く概要だけ予習した。

 そういった事情から、運営難易度はぶっちぎり最上位のフリートホーフ辺境伯領は、広くて資源が豊かであるという、ただそれだけの理由で妬まれ、擦り寄られ、時には吸い取られ、毟り取られてきたらしい。のみならず、国防にしっかり取り組めば反乱を企てているのではないかと悪評を撒かれ、恐れられ、かといって上手くいかない時には非難の的になるという不遇さである。

 余りにも苦労が多い。

「ツェツィーリアはきっと僕のことを嫌いになるだろうから、辺境伯夫人として何もしなくっても回るように整えてはいたんだけど……君は予想以上に僕に対して友好的だし、何より、戦術に詳しい。今のところは大丈夫だけど、何かトラブルが起きた場合、僕が応対に追われている時に、君がこの家の指揮を取れると、都合が良いんだ。女性なら警戒されないし、上手くすれば敵対勢力に対してすぐに反撃が出来るからね」

「く、詳しくはないです。せん、戦術について、想像するのが好きというだけで」

 本当に詳しくはない。

 あくまでも子供が人形を使って戦争ごっこをする延長線上のようなもので、私は戦術に関する教育を受けていない。

 そもそも、女性にそんなものを教える教師は居ないし、必要とされていないからだ。

「それが重要なんだよ、ツェツィーリア。君は勇敢だ。僕のことも、もう怖がってはいないよね? 残酷な話や、血腥い話、政争の話についても、恐怖や嫌悪感より先に実利を考える傾向が強い。一般的な淑女教育の過程で削ぎ落とされる美徳を、君は持ったまま僕の元に来てくれた」

「買い被りです」

 正面から褒められてしまうと、流石に恥ずかしい。顔が熱い。

 思わず、被っていたヴェールを引っ張って前に下ろした。食事時だからと唇まで出していたものを、首元までずり下げる。

 絶対に批判される、否定されるとばかり思っていた趣味を肯定されるのは堪らなかった。

 アルバンが目を細めて、慈愛に満ちた表情で私を見詰めている。眩しいものを見るように。

 もう、傷跡も、歪んだ唇の形も、変色した肌の色も、怖いとは思わない。それ以上に、会話していて本心から楽しい。安心する。この人は、きっと信頼しても良い人だと思ってしまっている。

「あっ、でも、嫌になっちゃったらやめても良いし、無理はしなくっていいからね? これはあくまでも僕の願望っていうか、その……つい。欲が出ちゃって……! ごめんね。厚かましかったよね? や、やっぱり軟禁の方にしておく……?」

「この二者択一さえなければ完璧だったんだけどなぁ」

 やはりあくまでも、アルバンの基本方針としては私との離婚を絶対に回避する、というものらしい。

 なるほど「離婚はしない」という戦略に対し、今は「軟禁して子作りを優先する」と「領地経営に巻き込んで逃げられない立場に追い込む」という、作戦どっちにしようかな、の時間ということですね。わかります。

「鴨のローストでございます」

 流れがまずいと思ったのか、これまで無言だった執事が声を発して新しい料理を置いてくれた。

 わぁ、鴨だぁ。

 魚が一番好きだけど、お肉も勿論大好きです。

 切り口が赤くてジューシーな鴨に、コケモモのちょっと甘酸っぱいソースがそれは素晴らしいハーモーニーを奏でてくれる。

 ちょっと間が空いたお陰で、お腹にも余裕が出来たので、柔らかいお肉をしっかり完食。

 ああ、お腹いっぱい。

 満足。幸せ。最高。今日は良い日だ。

「じゃあ、また後で。お風呂に関してはあとでメイドに案内させるから、ゆっくり入ってね」

「あっ、はい……。」

 忘れていた。

 結婚には必須のイベントがまだ残っていた。

 食べたしもう、今日はさっさと寝ようとか甘いことを考えていてはいけなかった。

 これから、私には初夜という、戦術のひとつを遂行する義務と責任があるのだった……。



 

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