フラワーズ・ファイル
茶白
第1話 カーネーションを贈れない
――ふわり、と咲いた。
風もない空間に、白くて大ぶりな花が浮かんだ。
釣鐘型の小さな花弁がいくつも連なっている。
どこからともなく現れ、誰にも触れられることなく、そっと落ちていく。
少女は、眉一つ動かさず、それを見ていた。
(また……)
***
今日は、母の日だった。
佐久間潤はその日、教室の隅で絶望していた。兄二人が実家に贈る母の日のプレゼントについて電話越しに盛り上がっていたのを昨晩、耳にしてしまったのだ。
兄貴(社会人):ブランド物のスカーフ。
二番目の兄(大学生):パック詰めの高級スイーツとハンドクリームのセット。
末っ子の潤(高校生):何もない。
(いや、マジでまずいでしょ……)
財布を開けば、小銭と交通系ICカードしか入っていない。バイトは許可制の学校で、潤は申請が面倒で何もしていない。こづかいも節約して漫画に消えていった。今さら手紙一枚で済ませるなんて、ずるい気がした。
母はいつも、何も言わないけど、兄たちの誕生日や贈り物はちゃんと覚えてる。
(何か渡さないと……。肩たたき券? いや、さすがにないな)
放課後、暗澹たる思いで廊下を足取り重く歩いていると、潤の目に一枚の掲示が入った。校内掲示板に貼られた「花事研究会 新入部員歓迎」のチラシだ。
(花事研究会……? 華道部じゃないよな?)
白地に手描きのイラストと、手書きの文字。
『花で人生を豊かに!』ってなんだそりゃ。
だが、“花”というワードが潤の中で引っかかった。
(花を育ててる可能性はあるよな……カーネーション、あったりしないかな)
その日の放課後、潤は思い切って花事研究会の部室へ向かった。
「こんにちはー……」
ノックしても返事がなかったので、そっとドアを開けた。
重めの木製の引き戸。化学準備室の隅に設けられた花事研究会――通称“花研”の活動スペースは、使われていない器具棚をどけてパーテーションで仕切っただけの簡素な空間だった。部活名のプレートも手書きの紙がセロテープで留めてあるだけで、全体的にやる気を感じない雰囲気だった。
中には、一人の男子生徒が椅子に座って、タブレットで何かを見ていた。
「お客さん?」
男子生徒は顔を上げると、にやっと笑った。同級生だったと思うが名前は分からない。髪はやや長めで無造作に流しており、睫毛が濃くて顔立ちがやたら整っている。制服の着崩し方もどこか板についているようだった。
「おー、めずらしいな。ウチに客なんて」
「あの……花事研究会って、ここで合ってますか?」
「合ってる合ってる。ようこそ“花研”へ」
「花研?」
「俺らのあいだじゃそう呼んでるだけ。ま、気にしないで」
そう言って、男子生徒は軽く胸を叩いた。
「俺は高村真澄。よろしく」
高村は立ち上がると、部屋の奥に声をかけた。その奥は簡素なパーテーションで仕切られていて、中の様子は外からは見えない。
「ひよりー。来客ー」
返事の代わりに、そっと現れたのは女子生徒だった。黒髪のロングヘア。前髪が長く、表情は前髪の陰に隠れてよく見えない。どこか暗そうな印象を受ける。
「……こんにちは」
「あ、えっと、佐久間って言います。実は、お願いがあって」
潤は緊張しながらも、母の日に何も用意できていないこと、せめて花を贈れたらと思ってここへ来たことを説明した。
「カーネーションとか、花が一本だけでも、あったりしませんか?」
ひよりは少し考えるように視線を落とし、静かに眉を寄せた。
そして、静かにうなずいた。
「……確認してみます」
そのとき、隣の部屋との仕切りにあるドアが開いて、大人の男性――眼鏡をかけた教師が入ってきた。神林先生だ。
どうやら化学室から来たらしい。神林先生は化学の担当だ。
「カーネーションか。あの子、ああいうの苦手そうだけどな」
「先生は、ここの顧問してくれてる」
と高村が補足する。
神林先生が、ひよりが消えていったパーテーションを見やる。
「相性の問題なんですよ、花って。うまく咲くかどうかは。まあ、その場の空気と気分次第ってとこですかね」
「……よく分からないんですが、育ててないんですか? 花壇とか」
潤が尋ねると、高村は笑った。
「まあ、うちはちょっと変わってて。育てるっていうより、流れを読むというか?」
「意味が分からないんですが」
「でしょ?」
高村は楽しそうに笑った。
「まあ、咲くときは咲くんだよ。面白いだろ?」
潤は、花事研究会のこの妙な空気に戸惑いながらも、どこか惹かれるものを感じていた。
そのとき、神林先生がふと潤のほうに向き直る。
「少し、時間をもらえるかな。そうだね、十分くらい、校内を軽く歩いてきてくれる?」
「え?」
「ちょっと準備が必要でね。邪魔ってわけじゃないんだけど、まあ……、空気を整えるってやつ」
高村も「散歩がてら、自販機で何か買ってきたら?」と軽く笑った。
潤はよく分からないまま頷いて、部室を出ることにした。
(咲くときは咲く……ってなんだよ。まるで、勝手に咲くみたいな言い方)
部室を出るとき、ふと風が吹き抜けた。
足元に、白く小さな花びらが一枚、落ちていた。
拾おうとしたその瞬間、風に乗ってふわりと舞い上がり、どこかへ飛んでいった。
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