毎朝、僕を忘れてしまう君に、今日も「はじめまして」の恋をする

☆ほしい

第1話

放課後のチャイムは僕にとって戦いのゴングだ。


授業という名の退屈なジャブの応酬が終わる。

メインイベントのゴングが鳴り響いた。


僕は椅子から跳ねるように立ち上がりカバンをひっつかんで廊下へと飛び出した。


友人たちの「海斗またかよ!」「部活行けよ!」なんていう野次。

それすら心地よい声援にしか聞こえない。


目指す場所はただ一つ。


特別棟の三階。

その一番奥にある美術室だ。


そこに僕の心を奪ってやまない少女、月島ひかりがいるからだ。


階段を二段飛ばしで駆け上がる。

心臓が破裂しそうになるのを必死でこらえた。


息を切らしながら美術室の前にたどり着きそっとドアに手をかける。


古い引き戸はいつも小さな悲鳴を上げた。

ギィという音に中にいる彼女の肩が小さく跳ねる。


「……また来たの」


振り返りもせず彼女はそう言った。


その声は窓から差し込む西日みたいだ。

淡くてどこか寂しげで。


「おう!今日も傑作は生まれそうか?」


僕は努めて明るくおどけた調子で返す。


彼女は返事をしない。

ただイーゼルの前に立ち巨大なキャンバスに向かい続けている。


白いセーラー服の背中は驚くほど華奢だった。

今にも消えてしまいそうに見える。


だけどその手に握られた絵筆だけは確かな意志を持ってキャンバスの上を滑っていた。


それが月島ひかりという少女だった。


物静かで儚げで。

だけど誰よりも強い光を放つ天才。


僕が彼女に初めて心を奪われたのは去年の文化祭だ。


廊下に展示されていた一枚の絵。

それはありふれた教室の窓から見える雨上がりの紫陽花を描いただけの風景画だった。


なのに僕はその絵の前から動けなくなった。


絵の具で描かれているはずなのに紫陽花についた雫は今にもぽたりと落ちてきそうだった。

湿った土の匂いまで立ち上ってくるようだ。


そして何よりその絵全体を包む光が信じられないくらい優しかった。


描いたのが美術部の月島ひかりだと知ったあの日から僕の高校生活は一変した。


彼女の絵をもっと見たい。

彼女のことをもっと知りたい。


その一心で僕はこうして毎日美術室に通い詰めている。

迷惑がられているのは百も承知だ。


「あのさ、これ。差し入れ」


僕はカバンからメロンパンの入った袋を取り出す。

近所のパン屋で一番人気のやつだ。一日三十個限定の。

これを買うために昼休みを返上してダッシュした。


「……いらない」


ひかりはやっぱりキャンバスから目を離さない。


「まあまあそう言わずにさ。腹が減っては戦はできぬだろ?天才画家さん」


僕は半ば強引に彼女の近くの机にメロンパンを置いた。

ふわりと甘くて香ばしい匂いが広がる。


彼女の筆が一瞬だけ止まった。


その隙を見逃さず僕は彼女の描いている絵を覗き込む。


そこには息を呑むような夕暮れの空が広がっていた。

燃えるようなオレンジと深く吸い込まれそうな藍色が混じり合う空のグラデーション。


「すげえ……。これ屋上から見た景色か?」


「……見てわかるでしょ」


「わかるけど!すげえなって言ってんだよ。写真みたいだ。いや写真よりずっと綺麗だ」


僕が心の底からそう言うとひかりは少しだけ顔をこちらに向けた。

長いまつ毛に縁取られた瞳が僕を捉える。

その瞳は彼女の描く空みたいにどこまでも澄んでいた。


「……お世辞はいいから」


「お世辞じゃねえよ。本心だ」


僕は食い気味に答える。


「ひかりの絵はいつだってすげえ。見てるだけで胸がぎゅってなる。俺はひかりの絵の世界で一番のファンだからな」


言った後で少し恥ずかしくなった。

あまりにも真っ直ぐすぎる言葉だったかもしれない。


ひかりはふいと顔を背けて再びキャンバスに向き直ってしまった。

でもその耳がほんの少しだけ赤くなっているのを僕は見逃さなかった。


それだけで僕の心は舞い上がる。

単純だと笑われようと構わない。


彼女の心の壁をほんの少しでも壊せたのならそれだけで十分だった。


しばらく沈黙が続いた。


聞こえるのは絵筆がキャンバスを擦る音。

それと窓の外から聞こえてくる野球部の掛け声だけ。


僕は邪魔にならないように隅の椅子に座りただひたすら彼女の背中を見つめていた。


ひかりの描く絵が好きだ。


でもそれと同じくらい絵を描いているひかりの姿が好きだった。


夕日を浴びてキラキラ光る髪も真剣な眼差しも。

時折きゅっと結ばれる唇も全部。


不意にひかりが筆を置いた。


そしてゆっくりとこちらに振り返る。


「……なんで毎日来るの」


それは静かだけど芯のある声だった。

僕の目を真っ直ぐに見つめて問いかけてくる。


「え?いやだから……ひかりの絵が好きで……」


「本当にそれだけ?」


彼女の瞳は嘘を許さないという強い光を宿している。

僕はごくりと唾を飲んだ。


ここで誤魔化しても意味がない。


僕は椅子から立ち上がり彼女の前に進み出た。


「ひかりが好きだからだ」


言ってしまった。


自分でも驚くくらいはっきりと大きな声が出た。


ひかりの瞳が僅かに見開かれる。


「君の描く絵だけじゃない。君自身のことが好きなんだ。だから会いに来てる」


ああもう後戻りはできない。

全部伝えてしまえ。


「俺と付き合って……はまだ早いかもしれないけど!まずは友達から!いや友達っていうか……その今度の日曜日一緒に……」


僕が必死に言葉を紡いでいるとひかりは悲しそうに首を横に振った。


「……だめ」


「え……?」


「私と関わらない方がいい」


彼女の声は震えていた。


「私と一緒にいてもあなたを不幸にするだけだから」


そう言って彼女は僕から目を逸らした。

その横顔は今にも泣き出しそうに見えた。


なんでだよ。

不幸にするってどういう意味だよ。


わけがわからなくて僕は何も言えなかった。

ただ彼女の拒絶の言葉が鋭いナイフのように胸に突き刺さる。


重い沈黙が僕たちの間に横たわった。


気まずい空気に耐えられなくなった僕が何か言わなきゃと口を開きかけたその時だった。


「……あ」


ひかりが小さな声を漏らした。

彼女の視線は窓の外に向けられている。


つられて僕も窓の外を見ると空に見事な虹がかかっていた。

雨なんて降っていなかったのに不思議な虹だった。


七色の光のアーチが彼女の描いていた夕暮れの空に鮮やかな橋を架けている。


「……きれい」


ひかりがぽつりと呟いた。


その横顔はさっきまでの悲壮な色を消してただ純粋に目の前の美しい光景に見惚れていた。

僕も胸の痛みも忘れてその光景に見入ってしまう。


「本当だな。すげえくっきりしてる」


「うん……」


彼女は小さく頷くと机の上のスケッチブックを手に取り夢中で鉛筆を走らせ始めた。


その姿はまるで世界に二人きりしかいないみたいに静かで集中していた。


僕はそんな彼女の姿をただ黙って見つめていた。


さっきの拒絶の言葉はまだ胸に刺さったままだ。


でも今はそれでいいと思った。


こうして同じものを見て同じように「きれいだ」って思える瞬間がある。

それだけで今は十分すぎるほど幸せだった。


ひかりがスケッチを終えると満足そうに息をついた。


そして僕の方を見てふわりと花が綻ぶように微笑んだのだ。


「……ありがとう。虹見れた」


その笑顔を見た瞬間僕の心臓はこれ以上ないくらい大きな音を立てた。


今まで見たどんな彼女の表情よりも破壊力のある笑顔だった。


「お、おう……」


僕はそれしか返せなかった。

頭が真っ白になって自分が何を言おうとしていたのか全部吹き飛んでしまった。


「それと……これも」


彼女は僕が持ってきたメロンパンの袋に手を伸ばす。


「……ありがとう。美味しそう」


そう言ってまた小さく笑う。


その笑顔に僕の心は完全に打ち抜かれてしまった。


不幸にするなんて嘘だ。

こんなに綺麗に笑う君が誰かを不幸にするわけがない。


きっと何か事情があるんだろう。

でもそれは今聞くべきことじゃない。


「ひかり」


僕はもう一度彼女の名前を呼んだ。


「俺は絶対にあきらめないからな」


僕の言葉に彼女は少しだけ驚いた顔をした。

でも何も言わずにただ静かに俯いた。


その日の帰り道僕の足取りは雲の上を歩いているみたいに軽かった。


断られたはずなのに。

心は今までで一番希望に満ちていた。


彼女の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。


あの笑顔が見れるならなんだってできる。


そう固く誓った。


僕はまだ知らなかったのだ。


あの日のあの美しい虹と彼女の屈託のない笑顔がどれほど残酷な代償を伴うものだったのかを。


そして彼女が言った「不幸にする」という言葉の本当の意味を。


この時の僕はただ恋の始まりに浮かれるどこにでもいる愚かな高校生に過ぎなかった。

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