出会い(2)
《四日前》
「らっしゃせー」
やる気があるのかないのか分からない、紙一重の明るい声が店内に響く。
もう、他店で聞いても反射的に「いらっしゃいませ」と言ってしまうほど、耳に馴染んだ来店音が流れた。
高校を一年生でドロップアウトした誠人は、その開放感にひたりながら、日がな一日家にいた。
家にいる間、誠人は毎日家中を掃除し、気が向けば料理をし、何もなければ漫画を読んで、時々手に入れたグラビアから、好みのアイドルを切り抜いて丁寧にファイルにしまう日々を送っていた。誠人にとって、間違いなく、人生で一番幸福な時間だった。誰にも会わなくていいし、誰のことも
その幸せが崩れたのは、今どき珍しい専業主婦の母が、「定年退職した夫がずっと家にいるって、こういう感じなのねえ……。あんた、目障りだから、出ていきなさい」と言ったからだった。
更にこうしてバイトに行かざるを得なくなったのは、「就労の義務を果たしな」と言った姉が、無理やりバイト先を斡旋したからだ。それがこの、『モイリーショップ石川店』だった。
モイリーショップ石川店は、全国展開されている大手コンビニエンスストアのフランチャイズ店だった。
西新宿と初台のちょうど中間地点に存在し、オーナーの徳田一家による家族経営店でもある。前身は同じく、家族経営の個人商店だったそうなので、その空気を踏襲してか、石川店はどこかおっとりした空気が流れていた。並ぶ品もオーナーのチョイスで妙にマニアックだったりと、大手チェーン店らしからぬ部分が多分にあった。
誠人は当初、このバイトに受かってしまったことに絶望した。
面接であれだけクズみたいな発言をしたのに、オーナーの徳田はいい笑顔で「それで、
聞き間違えでは? と思ったが、聞き間違えではなかった。
そして本当に、誠人は面接を受けたその次の瞬間から、店に立って仕事をしたのだ。
とんでもねえブラックバイトだ。誠人のその感想は正しかった。
そして、ブラックにならざるを得ない理由が、半年勤務した今なら多少わかる気がした。
コンビニ業務は多忙を極めた。
商品の販売、陳列整理はもちろん。荷物の配送、コピー機の対応、公共料金の支払いに切手や収入印紙の対応。馬鹿馬鹿しくなるほど多種多様な業務の上に、来店する客層も多種多様。今までの常識がひっくり返るようなことを平気で言う人間ばかりやってくる。このバイトを通して誠人が学んだことは、「世の中の全員が平等に抱いている一般常識というものは存在しない」ということ一つだけだった。
そのように、複雑な業務と複雑な客対応ができる一定以上のスキルが求められる業務にも関わらず、対して、給与と福利厚生が底辺に近いことが、人が逃げていく要因だった。
人がいないから、誠人のようなボンクラでもほいほい雇うし、そして職場が問題児だらけになるから一部の有能なバイトが匙を投げ、また職場に問題児しか残らないという悪循環が生まれる。
そんな環境にも耐えながら、半年も仕事が続いたのは、ひとえに「穀潰し」という母と姉の圧があったからだ。今や誠人は、週五、九時から五時まで働く一社会人となっていた。
人と関わりたくなくて中卒という道を選んだのに、まさか人とばかり出会うコンビニ業につくとは思いもよらなかった。人生というのは分からない。
朝番からの引き継ぎが終わり、到着した商品の陳列や賞味期限切れの商品の引き下げなど、最初の陳列整理をこつこつとこなす。掃除が趣味の誠人にとって、楽しい時間だ。店内清掃も終えた後は、昼のピークに向けて、ホットスナックの準備に入る。
石川店の周囲には、学校や会社、病院などがいくつもある為、昼の弁当とホットスナックの売れ行きはかなりのものだった。特に、揚げ物は作った端から飛ぶように売れる。コーヒーマシンの需要も高い。補充のため、誠人はレジにいる、最近入ったばかりの――とはいえ、誠人より十歳は年上の男性――に、一声かけてバックヤード戻ろうとした。
「てめえ! ふざけてんのか!」
その時、割れるような怒声が店内を貫いた。
腕に刺青をした四十代ぐらいの男性が、レジカウンターに身を乗り出している姿が目に入った。
「さっきから、カンだって言ってんだろ!」
男は威嚇するようにカウンターを拳で叩いた。
「あの……タバコのことですか? それだったら番号で……」
「カンも知らねーのか! てめえは! バイトやめちまえ! このクズ!」
随分な言いようだ。
どうやら、男は煙草を買いに来たようだ。
コンビニで煙草を買う時は、あらかじめ陳列棚に貼られている番号を読み上げて注文するようお願いしているが、客の半分はそれを無視して銘柄で注文してくる。慣れてしまえば名前も覚えるが、時々、銘柄にかすりもしないオリジナルの名前で呼ぶ客もいる。しかもそういう客に限って、バイトが「分からない」と答えると、腹を立てて怒鳴り散らすのだ。もしかしたら、最初から難癖をつけたくて、無理難題を言ってきているのかも知れなかった。
いま来ている客も同様だ。高圧的に怒鳴り散らし、「急いでんだよこっちは!」と言いながらも、頑なに番号で呼ぶことも正式名称で呼ぶこともしないでいた。
うわー、久しぶりにああいうの来たな、と思って誠人が見ていると、困り果てたレジ担当が、誠人のことを見つめてきた。
えっ! なに!? なんで俺のこと見んの?! 俺が助けられるようなやつにみえる?!
相手はあからさまに「ジムで週七鍛えています!」という体格をしている。筋肉と刺青を見せつけたくてたまらなそうに、わざわざシャツを腕まくりし、胸元を開けさせているのだ。対して誠人はせいぜい百七十センチちょっとの身長しかなく、骨格は目立つが肉も筋肉も一般レベル。つまりただ骨ばっているだけのヒョロヒョロだ。
(上司に言えよ上司に!)
誠人は心から叫んだ。
叫んだ後に、ふと、いま店内にいる一番上のやつは、バイトリーダーであることに思い至る。
二十歳そこそこのバイトリーダーは誠人以上にヒョロヒョロだ。何なら、風にも小学生にも負けそうな体格をしている。
そんな彼は、今ぐらいの時間、バックヤードで発注作業をしているはずだ。つまり監視カメラを見ることができる位置にいる。そして確実に、この怒声を耳にしている。
誠人の脳裏に、以前、同様に理不尽なクレーマーが来店した時のことが浮かんだ。
その時、誠人は休憩で事務所にいた。バイトリーダーは今日と同じようにバックヤードにいて、フライヤーの掃除をしようとしていた。その時、レジ担当を怒鳴りつける声が聞こえた。
バイトリーダーは動揺した表情をした後、慌てて監視カメラを覗き込んだ。そこで、明らかに理不尽なクレームに、レジ担当が泣きそうになっている姿を確認した。
早く助けてやらないのかと誠人が見ていると、バイトリーダーは一旦うろうろその場を歩き回り、なんとタイミング悪く鳴った電話に向かって、「あっ! 電話だ!」と飛びつくように出てしまっていたのだ。
結局そのクレームは、騒ぎを聞きつけたオーナーの妻が収めてくれたから良かったものの、似たような状況が発生している今この状況で、あのバイトリーダーが颯爽と現れて助けてくれるとは思えなかった。
「土下座しろ! 土下座ァッ!」
絵に書いたようなカスハラが眼の前で始まってしまう。男は飲んだ帰りなのかも知れない。よく見れば頬も耳も赤く、じゃっかん足取りもふらついていた。
(なんて迷惑なんだ。朝まで飲んで人に管巻いてんじゃねえよ)
そう思ったところで、男はどんどんヒートアップしていく。レジ担当もすっかり萎縮して、男の一挙手一投足にビクビクと体を震わせているだけだ。
(あー! 仕方ないな!)
覚悟を決めた誠人は、小走りでレジ担当と客の間に入っていった。
「いらっしゃいませ! すみません! この人、新人なんで!」
精一杯の笑顔を浮かべて、半ば叫ぶように男に言った。
男は少し驚いた後、「声がでけえんだよ! 新人だからって許されると思ってんのか?! こっちは客だぞ! いい加減にしろ!」とまた元の調子を取り戻す。誠人は負けじと笑顔で叫んだ。
「ほんとそうですね! おっしゃる通りです! ご迷惑をおかけしております! 親にも毎日、穀潰しって言われてます! 我ながらひどいバカなもんで、高校もたった一年で中退しました! 商品名一つ覚えられないんですよー! ほんと生きてて申し訳ないです! ごめんなさい!」
後方と前方から、唖然とした空気を感じる。
後方は助けてやっている年上のバイトだ。助けてやっているというのに、何だその空気は。しかし前方の空気は悪くなかった。誠人の謎の勢いに気圧され、「えっ……と……。いや、うるせえよ、なんだその……」とすっかり勢いが落ちている。
にっこり笑った誠人は半身をずらし、煙草の陳列棚を指し示した。
「ほんと馬鹿ですみません。お客様がおっしゃっている煙草って、六十三番のこちらですか?」
「だっ……だからちげえって言ってんだろ! 俺がほしいのは……っ!」
「五十五番のこちらですか?」
「ちげえよ! ほんと馬鹿だなテメエは! 九十番! 九十番のカンだっつってんだろ!」
「はい! お買い上げありがとうございます!」
素早く九十番の店から煙草を取り出す。口を挟む隙を作らず、滑るようにレジを通し、「お会計、五百二十円です! 大変お手数おかけいたしました! ありがとうございました!」とカウンターに額を擦り付ける勢いで煙草を差し出した。
誠人のあまりの低姿勢っぷりに、男はむしろたじろいでいるようだった。「お、おう……。わかりゃいいんだよ、わかりゃ……」と言いながら、素直に支払いをし、誠人の九十度のお辞儀に見送られながら退店していく。その間、男はちらちらと誠人を振り返っては、じゃっかん怯えた表情をしていたようだったが、頭を下げ続けている誠人は気が付かなかった。
男が窓ガラスにもすっかり映らなくなってから、ようやく誠人は息を吐きながら上体を起こした。
良かった。殴られないですんだ。
(全くよぉ、いちいち怒鳴りやがって。そもそも商品名、間違いすぎててカスリもしてねーんだよ、オッサン! これみよがしに刺青見せてくる暇があったら、英語読む練習してこい。中卒の俺だって読めるんだからな……。弱い者イジメする暇人ヤローがっ!)
内心で中指を立て、思うざま罵った後、誠人は背後にいる無言の年上バイトを振り返った。
「あ……ええと……。その……中卒でも、良いこと、あると思うよ。俺は大卒だけど」
誠人は更に内心で中指を立てまくった。
てっきり怯えて話せないでいるのかと思ったら、そんなどうでもいいことを考えていたとは……。しかもさり気にマウントを取ってきている。おいお前、マウントとる前に、俺に言うことあるだろ?! お礼とかお礼とかお礼とか!!
しかしそれを言葉にして訴えることが出来ないのが、物集誠人の悲しいところだった。
「あー……そうっすね! あざす」
もう絶対に助けない、と心に誓った。
はち切れそうな血管を隠して「俺、コーヒー補充しに行きますね」と笑顔で言うのが精一杯だった。すると年上バイトは、あろうことか生暖かい笑みを浮かべながら「うん。よろしく」と、誠人の肩を叩いてきやがった。舐めてんのか、この男は。年下でもここでは誠人の方が先輩だ。
やっぱり一言文句を言うべきか考えていると、後ろから明るい中年男性の声がした。
「ちょっとーダメだよ、前園くん。物集くんに先に言うことあるでしょー?」
「えっ、オーナー?!」
そこには、モイリーショップ石川店オーナーの徳田が、ぽっちゃりとした胴体を揺らしながら誠人たちのそばに立っていた。
「まったく。見てたよー? さっきのお客さん。すごい勢いだったね。よく警察も呼ばず、大事にもせず、やり過ごせたよ。頑張ったね」
オーナーの徳田は、小熊のような男だった。
百六十センチ程度の身長に、つるりとしたハゲ頭。絵に書いたような中年太りで、腹が酒樽のようにぽっこりしている。そのくせ、妙に愛嬌のある顔立ちで、くりっとした目が清潔感を演出しているという、奇跡のバランスの持ち主だった。近所の小学生や老人たちから――時には派手な格好をした女子高生たちからも「とくちゃん」と呼ばれているという、誠人とは比較出来ないほど、人望のある人物でもあった。
「今日、夜勤って言ってませんでした? どうしたんです」
正直、誠人にとっては救世主のような存在だ。普段シフトが被ると面倒臭い気持ちの方が勝るのだが、トラブルが起きた時ほど、上司にいてほしいと思うことはない。
誠人の質問に、徳田は人の良い笑みを浮かべ「ちょっと昨日、片付け忘れたものがあった気がして。暇だから様子見に来たんだよね」と、普段だったら迷惑に感じる以外ないようなことをおっとりと述べた。
「ダメだよ前園くん。助けてもらったんだから、ちゃんとお礼言わないと。物集くんが捨て身の自虐ネタを披露しなかったら、もっとこじれてたかも知れないんだよ? 感謝こそすれ、馬鹿にしちゃだめだよ。言ってる内容は笑えたけどさあ」
一言多いのが、徳田の残念なところだ。
「今日、バイトリーダーも出勤じゃなかったっけ? 今井くんもダメだなー。あれ絶対見なかった振りしてたでしょ。ちゃんとヤバいの来たら僕を呼ぶか通報してって言ってたのに……。もう。後でちゃんと言っておくから、ごめんね、物集くん」
なにかと忘れっぽいオーナーが、本当に後でちゃんと言ってくれるか疑わしいところではあったが、この一言があるのとないのとでは気分が違う。誠人の溜飲はかなり下がり、年上バイトの前園のことも、バイトリーダーの今井のことも、恨みには思うがほとんどどうでも良くなった。
オーナーに叱られたことが響いたのか、前園はギクシャクとした様子で、一応、誠人に「ありがとう……ござい、ました」とお礼を言ってくれた。敬語に抵抗がありそうな様子が気にはなったが、誠人はそれを受け入れることとした。
年下にお礼を言うことが――あるいは、自身より低学歴の誠人にお礼を言うことが――プライドに障ったのか、レジ担当のはずの前園は、「ちょっと、フライヤーやってみたいんで」と勝手に言って、勝手にバックヤードに引っ込んでしまった。
今日のフライヤー担当は誠人だったはずなのに。
勝手な変更にムッとしたが、これからもバイト生活を続けていく上で、彼ともシフトが被ることを考えると、先輩風を吹かせてこれ以上波風立たせるのも損かと思い、結局その役を譲ることとした。空いている業務といえば、レジしかない。店内整備も終わっていたため、誠人は渋々、客の来ないレジに立って、カトラリーやビニール袋の整理をすることとした。
すると、帰ればいいのに、徳田も誠人の隣に立ち、同様の作業をし始めた。
徳田を追い出したい誠人が、「オーナー、片付け忘れを見に来たんじゃなかったんですか?」と聞くと、徳田はのんびりカウンターを拭きつつ、「そうなんだけどさー。もう、思い出せそうにないから、いいかなって」と、ひどくいい加減なことを返事した。
「それにしてもさ、物集くんって、ああいうのにビビりそうなのに、全然ビビらなかったよね」
ふいに、先程のトラブルに話題が戻される。
評価されているんだかされていないんだか分からない口調だ。心外すぎて誠人は反論した。「いや、めっちゃビビってたんすけど」あの様子のどこに、ビビってないと感じたのか。やり取りの終わりの方だけ見て評価されたのなら、ぜひ訂正してもらいたい。誠人は暴力という暴力がことごとく苦手なもやしっ子なのだ。
「いやいや、本当にビビっちゃったらさあ、それこそ前園くんみたいに黙っちゃったりするじゃん? でも物集くんって、変に度胸があるっていうか。相手、ヤクザみたいだったのに。腕もめちゃ太かったしさあ」
それに関しては、誠人も曖昧に笑うしかない。
確証があったわけではないが、ある種の確信があったのは確かだった。
ああ見えて、
「僕、いつでも警察呼ぶ心構えしてたよ」
「オーナー、警察呼び過ぎじゃないですか?」
「いいんだよ。こんなに毎日大変なのに、危険な目にもあうなんて、割にあわないじゃん」
徳田の良いところは、危険に対してすぐ『警察』という権力を使うところだ。
一応、防犯スプレー等の対策はしてあることと、そもそも、大きなクレームにならないように初動の対応を心がけるべきではあるが、徳田は比較的すぐに「警察を呼ぶ」という最終手段を取る癖があった。コンビニバイトの情報を見るに、オーナーのこうした傾向は、やや「あり得ない」部類に入るらしい。すぐに警察を呼ぶことについて、本部からオーナーに対して苦言を呈されたこともあるようだが、徳田は全く改める気がなく、まるでデリバリーを呼ぶぐらいの気軽さで、何かあればすぐ警察を呼んだ。誠人はその点を好意的に思っていた。
アルバイト程度に「なんとかことを納めろ」と無茶振りするオーナーより、「警察」という切り札で客を脅迫するオーナーの方がずっと良い。
実際、彼のこの方針が地域に知られているからか、警察はしょっちゅう立ち寄ってくれるし、厄介な客もこの店では比較的穏やかに過ごしてくれている気がした。トラブルを起こすのは常連でなく一見の客だけだ。
「まあ、万が一殴られでもしたら、それこそ警察呼べますし」
「そうだけどさー。そもそも殴られたくないじゃん」
それは確かに。殴られたくない。痛いことは大嫌いだ。
「ほんと物集くんって変わってるよね。そのくせさ、なんか全然怖くない人のこと、怖がるじゃん? ほら、あの、すごいイケメン」
徳田の言葉に、余裕を見せていた誠人の表情が凍りつく。
「ほらー、また怖がってる! なんで? あの人、イケメンだけどめちゃ良い人じゃん。虐められたことないでしょ?」
徳田が言う人物が誰なのか、このコンビニで働く者に分からない者はいなかった。
ひと月ほど前から来るようになった、通称『神』だ。名前が分からないから、このコンビニでは従業員全員が、彼のことを『神』という呼称で呼んでいた。
『神』は大体、平日の日中に来店した。
年頃は誠人より一つ二つ上のようで、近所の大学生らしく、大抵は友人達と連れ立って昼食か、もしくは間食や夜食を買いにやってくることが多かった。
『神』と呼ばれるようになった理由は複数あるが、まず挙げられる要因に、彼の人並み外れた容姿があった。
シャンパンゴールドのショートヘア、ライトアンバーの瞳。それだけでも童話に出てくる王子様のような色彩だ。それに加えて、その顔は、男も女も振り返るような、現実味のない美形だった。
こういわれると、線の細い、昔の少女漫画のようなヒーローを想像してしまいそうだが、『神』の身長は店内の冷蔵ショーケースよりも大きかった。
モイリーショップの冷蔵ショーケースの大きさは、大体百八十センチぐらい。『神』がドリンクを取ろうとショーケース前に立つと、その顔は、ウィンドウの上枠あたりに存在した。冷凍ボックスを覗く時など、身体がほぼ九十度に折れ曲がっている。おそらく、『神』は身長百九十センチ程度はあるのだろう。
挙句に『神』は、身長だけでなく体格も良かった。
頭が小さく手足が長いという、これ以上ないモデル体型だから目立ちにくいが、その上半身は肉厚。誠人のように骨格ばかり目立つのとはわけが違う。先日など暑かったからか、『神』は袖をまくって来店したのだが、商品を取る際、その腕があらわになり、思いがけず浮かび上がる血管と腱に、店内にいた女性客及び女性従業員が全員釘付けになって微動だにしなかった。鍛え抜かれた肉体が服の下にあるという、まるで韓国アイドルのような男なのだ。
そんな全方向完璧な美貌の男が、なんと性格まで良いときていた。
無言で商品を出し、金を投げつけてくるような客がいる一方で、『神』は丁寧に会計を頼んでくれ、商品を渡せば百二十点をこえる素晴らしい笑顔を浮かべてお礼を言ってくれる。しかも背の低い男性従業員が高いところの店内ポップを替えているところに出くわせば、「大変ですね。手伝いますよ」と、その長身を活かして、さっと手伝ってくれる、なんてことまであったそうだ。
モイリーショップの従業員は『神』を信奉する信者のごとく、そのご尊顔を拝むだけでもご利益があると、『神』の来店にシフトをいれたがり、無事『神』に会うことが出来れば、まるで宝くじに当たったかのように飛び跳ねて喜んでいた。通常ひねくれ者で通っている一部の男性バイトですら、口では文句を言っていても、いざ『神』に会うと、初恋の人に出会ったかのように頬を赤くしてぶっきらぼうな反応をする。誠人はその一部始終を生暖かく見守っていた。
「別に、怖いわけじゃないですけど……イケメンってちょっと、ムカつくって言うか」
ありきたりな答えになるように、考えながら返事をしたが、徳田は疑いの眼差しをよこし、「そうは言うけど、物集くん、面食いじゃん」と一蹴した。
「面食いなのは女子限定なんで」
「イケメン死すべしって発想はないでしょってことだよ」
「あの顔で性格まで良いって、ちょっと出来過ぎっていうか。嘘くさいじゃないですか」
「本当の性格の良さなんて関係ある? 来店時にお上品なら、僕らなんだっていいじゃん」
ぐうの音も出ない。
徳田が言うように、彼と友達になるわけでも恋人になるわけでもなんでもないのだ。ただの客と店の関係。たとえ『神』が裏でどれだけ非人道的な人間であっても、店内でそうでないなら関係ない。
しかし誠人は、素直に頷けない事情があった。
それは誰にも言っていない、誠人の『秘密』に絡むことだった。誰にも言えないことだから、誰にも分かってもらうわけにはいかない。
今の誠人の気分を言葉にするのならば、「まるで、自分にしか見えない猛獣を眼の前にしている気分」だ。誰にも見えない猛獣なのだから、いくら誠人が「猛獣がいる」と騒ぎ立てたところで、誰もそれを信じない。むしろ「こんな良い人捕まえて馬鹿なの?」と誠人を異端児扱いするだろう。
誰かに信じてもらいたいなどと思う年頃はとうに過ぎている。とはいえ、何年経っても、その居心地の悪さは変わらないのだ。
「あっ噂をすれば、神だ」
徳田の声に振り返ると、来店ミュージックとともに、『神』とその友人たちが、わいわい話しながら自動ドアをくぐる姿が目に入った。
うっ。眉根を寄せ、誠人は一歩後退する。
「ほらほら。接客接客!」
その背中を無遠慮に押し出され、誠人は渋々声を発した。「いらっしゃいませー……」不快な気持ちが声に滲んだ。無言で徳田が脛を蹴ってくる。やむを得ず、背中を伸ばして笑顔を貼り付けた。あー、『神』に会うなんて、ついてない。なんでいつも俺がシフトにいる時にばっかり来るんだよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます