第2話 初めてのテイムは



「大丈夫、ですか?」


 俺が彼女の手を握った瞬間、彼女の震えがぴたりと止まった。

 漆黒の瞳は、まるでブラックホールのように、言いようのない引力のようなものを感じさせる。


「……大丈夫、です。ありがとうございます」


 か細い声だった。

 しかし芯のある強く美しい声だった。

 先ほどまでの狂気に満ちた笑い声も、地の底まで追いかけるという物騒な呟きも、まるで嘘のような細い声。

 彼女はゆっくりと涙を拭う。


「そ、それじゃあ、俺はこれで」


 彼女のそばに居るのは危険だ、と。

 本能が告げていた。

 確かに彼女は美しい。

 目を疑うほどの美人だが、内包する恐ろしさがその瞳から溢れている。


 なぜか、彼女が俺に飛ばす視線は熱いものになっている気がした。

 これ以上この場にいれば、何か厄介ごとになるに違いない。

 そんな予感が俺の頭から離れない。


「名前を……」


「え?」


 足早に去ろうとした俺の手を逆に掴んで、止めてくる。

 細く柔らかかった腕を持つ彼女の手のひらは見た目とは裏腹に、鍛えられた者のソレだ。

 硬い皮膚に驚きつつも、彼女の熱い視線に吸い寄せられる。


「お名前を教えてください」


 思った以上に普通の質問で驚いた。

 そして、彼女の火照った表情は、整った美しい顔を際立たせ、直視出来ないものになっていた。

 だから俺は気恥ずかしくなって目を逸らす。


「あ、アクスだけど」


「アクス……様ですね」


「様って。仰々しいな、アクスで良いよ。あんたも冒険者だろ?」


 彼女の容姿は美しいが、肉体の完成度は戦士の思わせた。

 無駄な脂肪はなく引き締まった身体。特に足は筋肉が詰まり、肥大化している。俺の何倍のスピードで走るのだろうか。

 更に、彼女の様相は黒尽くめ、ベルトで服装を固定し風の抵抗を減らしている。そして足に装着された複数の短剣。

 ここまでくれば、否が応でも戦闘を生業にしているものだとわかる。

 そして何より。


「あんたが腰に付けてるポーチ、ギルドのだろ? 初心者冒険者が最初にもらえる特典だ」


「それを知っていると言うことは、貴方も……?」


「あぁ。冒険者……の見習いさ。まだその特典ももらえない程度のな」


 自分で言うのは恥ずかしい話だが、特典は立ち入り禁止のモンスターと戦うような冒険者がもらえるものだ。

 俺ではまだ貰えない。


「それじゃあな。同じ冒険者なら、また会うこともあるだろ」


「あ……! 待って」


 彼女が何か言っていた気がするが、明日も早い。

 俺は後ろを振り返り、大きく手を振って別れの挨拶をした。


「じゃあなー!」


 振り返った先、彼女もまた小さく手を振っていた。

 その彼女の口端は不自然に吊り上がっている気がした。


 —


 帰宅して、簡単にシャワーを浴びて布団に沈む。

 思っていた以上に疲れていたようだ。

 眠るのは嫌だが、生理的衝動には抗えない。


 俺はそのまま泥に沈むように眠りに落ちた。



 俺が寝るのを嫌う理由はただ一つ。

 悪夢を見るからだ。

 いつもの悪夢が待ち受けていると分かれば、そこが夢であったとしても俺の心は強く蝕まれる。

 休みの日も心は億劫になり、一日ガムシャラで鍛錬をして思考を吹き飛ばす。

 そうして結局また眠って悪夢を見る。

 そんなスパイラルが、俺を苦しめていた。


 なのに、今日は珍しく、悪夢じゃないピンクの気配。

 桃色の煙が空間を満たし、俺は雲の上を歩いているような気分になった。


『ここは……』


『アクス様』


『あんたは……路地裏の、てぇっ!?』


 漆黒のロング。漆黒の瞳に鍛え抜かれた肢体を持つ、路地裏の美女がほぼ全裸のような姿で俺を出迎える。

 紐と小さな布だけが彼女の恥部を隠し、その表面積の対比は99:1だろう。

 女の免疫などかけらもない俺にとってその姿はあまりに刺激的すぎた。


『アクス様……』


 しかも出るとこは出ているボインボインの彼女が、ゆっくりと俺を抱き寄せる。

 確かなその大きく育った双丘に、俺の顔はダイブする。

 まるで個体の水に顔をつけたような沈み込みだ。

 至福とはこのことか──ってそうじゃない!


『に、にゃんでおにぇを!(なんで俺を!)』


『ダメですよ……抵抗しちゃ』


 なぜか押し倒され、腕を固定される。

 恐ろしい力だ。元々俺が非力とはいえ、抗う気持ちさえ消失する膂力。

 腕相撲をやったら瞬殺されること間違い無い。

 そんな彼女の俺を見る瞳は、漆黒に染まりきっていると言うのに、奥に潜む熱は確かにあった。

 頬は赤く染まり、舌舐めずりをする彼女の顔は獲物を狙う肉食動物そのもの。

 そのまま、俺の首元へと迫り、そして。


『や、やめろぉー! た、食べないでくれぇぇぇえ!!!?』


 夢から醒めるのは一瞬だ。

 悪夢ではいつも死に直結する何かを伴って覚醒する。

 だが今日は初めて、負の感情より嬉々とした感情が多めで目を覚ました気がする。

 ベッドから飛び起きた先はいつもの寮の壁だ。


 まさかこんな性欲に塗れた夢を見るなんて。

 もう思春期は卒業したと思っていたが、そんなことはなかったようだ。


「あらもうお目覚めですか。お早うございます。朝ご飯はもう少しかかりますよ」


「あぁ……そうか。大したもんはいらないよ。いつもパン一枚だし」


「それは不健全ですね。今日は卵と汁物も追加しましょう」


「は。そんなに食ったら……朝から鍛錬ができ……ない」


 そこでようやく異常に気付く。

 俺の家に家政婦はいない。

 寮だし。給料も一人で生活してゆけてやっていける程度のものしかないからだ。

 友人もいない。必然、女性の知り合いは受付嬢のセーラくらいだ。


 だから、俺の家で俺以外の声が聞こえるなんてことはないはずで。

 しかもそれが女の声などあるはずが。


 壊れる寸前の人形が如く、恐る恐る首を回して、声がした方向を見ればそこには。


 エプロンを着用した黒髪ロングの美女。

 そう────


「うわぁぁぁぁぁぁあああっ!!??」


 路地裏で救ったあの女が立っていた。

 続く頭部の痛み。壁に頭をぶつけたか。

 俺の驚き、ベッドから転げ落ちる様を見てもなお、彼女はうっとりと頬を赤らめて鍋の中身をかき混ぜる。


「アクス様。朝からそんな大声を出しますと、身体に悪いですよ」


「いやいや! あんたの存在の方が心臓に悪いわ!! なんで俺んちに!?」


「なんでと言われましても、鍵が」


 まさかかかってなかったのか!

 昨日はより一層疲れていた。

 一人暮らしで盗むものなんか家にない俺は結構な頻度で鍵を閉め忘れる。

 可能性は無きにしも非ず──


「壊れてしまったもので」


「壊したんかい!!!」


 視線の先。

 扉を施錠する鍵はドアノブごと地面に落ちて、無惨な穴を残していた。

 それをてへっとでも言わんばかりに照れながら言ってくるのだから恐ろしい。


「てかそもそも俺の家になぜ来る!!? そこからだろ!」


「だって昨日……『また会うこともあるだろう』と……お家に来て欲しいものだと」


「拡大解釈!? それどころじゃねぇ!! 意味が歪曲してやがる!?」


 俺は同じ冒険者ならギルドで再会するだろう、と言う意味で言ったのだ。

 そんなふうに受け取るとは普通思わない。

 目の前にいる女が実は人間に化けたモンスターと言われた方がしっくり来るほどの、理解不能さを感じている。

 そんな俺を置いて、女は火を止め俺の方へと歩んできた。


「ま、まて! 近寄るな!」


「なぜですか? アクス様は昨日、自らわたくしの手を取り、慰めてくださったではないですか。それがいきなりよるなとは……寂しいです」


「いやいや! 不法侵入者が突然這い寄ってきたら誰だって恐ろしいだろ! 頼むからそこで止まってく──」


 そこで俺の言葉は止まった。

 いや、止めざるを得なかった・・・・・・・・・・と言うべきだろう。

 視界にいたはずの彼女が瞬時に消え去って、


わたくしを騙したのですね」


 俺の背後に回って、首にナイフを突きつけているのだから。


「な、な、なにゅを」


「路地裏で振られたばかりの女に強引に手を差し伸べ、次の逢引きを示唆する男が好意を寄せていないわけがない……。私の心は今とても傷ついています。貴方様が私を癒してくれると手を差し伸べ、まさか傷口に塩を塗っていたとは」


 ナイフによって首の皮が切れ、血が滴る。

 頭の血が冷えていく感覚に死を察した。

 だがそれはナイフも傷も原因ではない。

 彼女が放つ、殺気の強さに、生存本能がアラートを出しているのだ。

 この女は、“危険”だと。


「貴方様を殺して、あの男も殺して……この際ですから元彼共も殺してゆきましょう。そして私は一人孤独に海に身投げをするのです。もう二度と、私のような被害者を出さないために」


 あまりの拡大解釈。

 あまりの情緒不安定さ。

 正直言って、この女とこれ以上関わりたくはなかったが、命の危険と天秤に掛ければ、命に勝るものなどありはしない。


 だから俺は、彼女が話している刹那の間に、決断した。


「何言ってるんだ、ハニー」


「……え」


 彼女が放つそれはきっと、強者のみが扱えると言われる覇気のソレだ。

 殺気プラス覇気の混合のオーラは既に俺の魂を空の彼方へと飛ばしかけていた。

 だから俺もまた、正常な判断ができなくなっていたのだと思う。


 朦朧とした意識の中、出来る限りのイケボを出して、震える声をなんとか整えて、彼女の手を優しく包み込み、振り返る。


「路地裏で君を見つけた時から思っていた。君は運命の人だ、と」


「あ、アクス様……! う、嘘よ。私は騙されな」


「間違いないハニー。君こそ俺の人生の伴侶だ」


「はうぅっ!?」


 出せる限りのイケボと、壁ドンをしながらの顎クイ。

 俺の中の解像度が低いモテ男の動作をフルに使って、彼女の抵抗を奪う。

 元々好意があると思ってやって来たのなら、きっと俺に対する壁も薄いはずだ。

 だからこそ俺は最大の演技を持って彼女を騙す!


「だからハニー。まず君の名前を教えてくれないか?」


「り……」


「り?」


「リリアです……きゃっ」


 先程までの殺気はどこへやら。

 恋する乙女の顔に戻り、両手で顔を隠して照れている。

 どうやら危機は脱したようだった。


 とはいえ。

 これからどうすれば良いか……。

 彼女は寝込みに家に忍び込み、勝手に何が入っているかわからない家庭料理を振る舞おうとしてくる化け物だ。

 このまま一緒に居ては、危険なこと間違いなしである。

 どうにかして、この縁を断ち切りたいものだが……。


 と、考えている俺の手を優しく握り、彼女──リリアは自身の頬に当てた。


「アクス様……いえ、旦那様・・・。これからも、リリアを末長くよろしくお願いしますね?」


「あ、あぁ……もちろ、ん」


 半ば脅迫のその言葉。

 彼女の実力と俺の実力は、正しく天と地の差がある。

 本気を出せば刹那のうちに俺の首と胴はお別れを済ませて、彼女に抱かれて海へと一緒に身投げされてしまうだろう。

 こんな脅迫がこの世にあるとは思わなかった、と同時に。


 光が彼女の反対側の頬に浮かぶ。


 それを俺は知っていた。


「あ……あぁぁぁっ!!??」


「どうされましたか? 愛くるしい動物の鳴き声が汚かった時のような叫び声をなさって……」


「だって……だってそれは……!?」


 俺はソレ・・を知っている。

 冒険者になれる唯一の希望であり、俺の心を最もへし折ったその元凶。

 俺が冒険者を最後まで諦め切れなかった、俺が俺である最たる理由。

 俺の無二の個性──ソレは。



「テイムの印、じゃないか」



 彼女の頬に現れたそれは確かに。

 俺がモンスターにつけられる、テイムの印だった。

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