第二十三話

 源蔵に続いて二階へ上がり、ふすまで仕切られた部屋に入る。大きな書架と文机が配置された、八畳程度の広さの和室。部屋の窓際には布団が敷かれており、その上に足を崩して座り込む少女がいた。齢は十代半ばといったところだろうか。肩甲骨の辺りまで伸びる黒髪をくしかしていたらしい少女は、夕霧たちを見るなり慌てて会釈をした。源蔵が穏やかに声をかける。


「やあ。体の調子は悪くないかな?」


 少女がこくりと頷く。源蔵が布団の横に腰を下ろしたので、夕霧もそれにならって座った。少女の視線が源蔵から夕霧へ移る。


「こちらは、坊ちゃんの奥方様だ。今日は坊ちゃんに代わって見舞いに来てくださったそうだよ」

「お初にお目に掛かります。朝比奈鉄之丞が妻、夕霧と申します。前触れもなく押しかけた非礼を、何卒お許しいただきたく」


 夕霧が手を付いて頭を下げると、少女も慌てて頭を下げた。いきなり謝罪されるとは思っていなかったのだろう。少女は少しだけオロオロした後、枕元に置かれた紙と筆を手に取り、文字を書いて見せてきた。


『お気になさらないでください。私は、さよと申します。朝比奈様には兄妹共々お世話になっております』


 几帳面な字体と文章から、彼女の性格が窺える。兄の喜三郎も真面目な人物だったと聞いたが、妹のさよもまた誠実な女性のようだ。読み終えたことを伝えるべく首肯して見せれば、彼女はホッと胸を撫で下ろした様子だった。


「飲み物でも用意しましょうか。二人共、少しお待ちを」

「私めも、お手伝い致します」

「いえいえ、大切な客人にそのようなことはさせられませぬ。すぐ戻ります故、こちらでお待ちくだされ」

「……申し訳ございません」


 源蔵が立ち上がり、部屋を出て行った。襖を開閉する音と、床板の軋む音がやけに大きく聴こえる。残された夕霧は、改めてさよに向き直った。


「さよ様は、御年齢はおいくつでしょうか?」


 なるべく圧を与えないように柔らかい声音を心掛けながら尋ねてみる。さよは紙の束とインク瓶を手元に引き寄せ、懸命に文字を綴って答えてくれた。


『今年で十六になりました』

「お若いですね。これから何にでもなれる可能性を秘めていらっしゃることでしょう。差し支えなければ、夢や目標のようなものはございますか?」

『医師を目指して勉学に励んでおります。私はたくさんの方々に支えられて生きておりますから、自分も誰かを助け、支えられる人間になりたいのです』

「まあ、素晴らしい目標にございますね。実現する日が来ることを心よりお祈り申し上げます。お力添えできることがあれば、何なりとお申し付けくださいまし」

『ありがとうございます』


 迷わず夢を語ったさよが、とても眩しく見えた。今の彼女と同じくらいの年齢だった頃、夕霧はすでに遊郭街で幾年もの時を過ごしており、仕事の作法を厳しく仕込まれていた。夢なんて高尚なものを抱いた覚えなどない。自分が何者かになれるだなんて考えもしなかったように思う。


 自分で選んだ道ではあるので、羨ましいとは言わない。ただ、これから世の中へ出て行く彼女の未来が、明るいものであることを願った。


 ふと視線を落とすと、さよの手元には紙とインク瓶の他に、小さな櫛もあった。夕霧たちが来る前に使用していたものだ。夕霧はおもむろに櫛を手に取った。


「先ほどは御髪おぐしの手入れを邪魔してしまい、申し訳ございませんでした。よろしければ、私めにお手伝いさせていただけませんか?」


 さよがキョトンとした顔をする。返事を待たずに立ち上がり、彼女の背後へ回って座り直した。ようやく事態を飲み込んださよが、慌てて文字を書き殴る。


『そのようなことをさせるわけには参りません。源蔵先生や兄上にも叱られてしまいます』

「お気になさらず。お二人ともさよ様を大切になさっているのでしょうから、お叱りを受けるようなことにはなりませぬ。私めと致しましても、女性の友人ができるのは誠に嬉しく存じます」

『友人?』

「ええ。この機にえにしを結ばせていただけますと幸いです。鉄様も含め、殿方にご相談しづらい事柄があれば、私めにお話しください。私めも同じように貴女様を頼らせていただきます」

「……!」


 形の良い頭部がくるりと向きを変えた。キラキラ輝く瞳に見詰められ、仄かな罪悪感を覚える。彼女の力になりたいのは本当だけれども、夕霧がここへ来た目的は単なる見舞いだけではない。やらなければならないことがあるのだ。


 軽く頭を撫でると、さよは目を細めて頭部の向きを戻した。夕霧を幾らか受け入れてくれたらしい。触れた拍子に、さよの心の内が聞こえた。


【素敵な方……。お優しい朝比奈様とお似合いだわ。素敵な方々に囲まれて、兄上も心穏やかに過ごせていたのでしょうね】


 綴る文字や心の内の端々に、兄である喜三郎の影が垣間見える。さよが今でも兄を強く想っている証だ。夕霧は気を引き締めて櫛を握った。

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