第四話

 反射で彼の手を払いのけ、数歩後ずさって距離を取る。体毛を逆立てて威嚇する獣の如く、夕霧は鉄を睨んだ。その様子を見て、始めこそキョトンとした表情を浮かべた鉄だったが、やがて堰を切ったように笑い出した。


「ははははは! いやあ、君の表情筋がそれほど豊かに動くところを、僕は初めて見たかもしれない。面白いやら、愛らしいやら、堪らないな。……しかし、その反応を見るに、どうやら先の話は真実だったようだ。他人の心を読めるとは、また面妖な」

「……真偽を測るために、あえて不埒なことをお考えになったのでございますか」

「さあ、どうだろうね?」


 食えない笑みを浮かべる鉄に、夕霧は未だ警戒を解かない。そのうち鉄はまた大根を一切れ口へと放り込み、今度は酒も一緒に流し込んで嚥下した。


「ああ、男を満足させられないというのも、包み隠さない欲望が頭に流れ込んできて耐えられなくなるからか」

「……仰る通りで。ちょうど今しがたも体感したところにございます」

「おやおや。君にそんな無体を働く輩がいるなんて、許せないな。僕が懲らしめてあげるから、連れておいで」

「…………」


 夕霧が眉をひそめれば、鉄は一層楽し気に笑う。やはり、この男は苦手だ。ほとんど素面のはずなのに、絡み酒をしてくる他の客よりもずっと、扱いに困る。愛想の欠片もない夕霧をここまで器用にからかってくる人間も珍しい。一体何がそんなに楽しいのだろうか。


 一頻ひとしきり笑い終えたところで、鉄が突然、いやに真面目な声音を出した。


「――時に、夕霧さんはここでの仕事を楽しんでいるかい?」

「? ……如何様なお話しにございましょうか」

「そのままの意味さ。君はこの仕事を誇りに思って続けているのかい? それとも、金が手に入って両親が救われるのなら、手段は問わない覚悟かな?」


 唐突な問いかけに面食らい、夕霧は暫し閉口する。何を目的に尋ねられているのだろう。それを知って彼にどんな得があるのか。はたまた、自分がどんな不利益を被る可能性があるのか。考えてもさっぱり分からない。


 降参する他に打つ手がなく、仕方なしに素直な答えを口にした。


「……後者にございます。特段、こちらの勤めにこだわる理由はございません」


 夕霧にとって大切なのは、何よりも両親の安寧である。娘と離れることでそれが得られるのなら喜んで縁を切るし、懐事情の安定によってそれが得られるのなら自身の内臓を売り捌いてでも金品を貢ぐ。そんな覚悟を持って夕霧は生きていた。それが自分をここまで生かしてくれた両親への、せめてもの親孝行だと盲目的に信じきっている。


「そうかそうか。それは良いことを聞いた」


 返答を受け取るなり、鉄がうっとりと微笑んだ。先ほどまでの快活な笑い方とはまるで違う、謀り事でも企てていそうな顔付き。美しい男の微笑に、全身がゾゾゾと粟立った。


 そんな様子を知ってか知らずか、鉄はそのまま話を続ける。


「夕霧さん、僕と取引をしないか。君が僕を助けてくれるのなら、僕も君を助けてあげるよ」

「は……?」

「君のその特異な力を、僕に貸してほしいんだ。代わりに、君の両親の生活を保証すると約束しよう」

「!」


 両親の生活の保障。夕霧にとって、これほど効果的な撒き餌は他にない。まだ取引とやらの全容を聞いてもいないのに、前のめりになって頷いてしまいそうな危うさが自分の中に芽生えたのを感じる。けれども、それを何とか押し殺し、夕霧は平静を装って尋ね返した。


「……目下、お応えすることは致しかねます。仔細を伺っても?」

「興味を持ってもらえたのかな? それならば、場所を変えよう。ここでは誰が聞いているか分からないからね」

「私めは遊郭に身を寄せる下賤な女にございます。易々とこの地を離れることは叶いませぬ」

「あまり自分を卑下するものではないよ。なあに、愉快な話を聞かせてもらえたからね、僕も興が乗ったんだ。今宵は君を指名するから、遊女屋の個室へ案内してくれないかい? そこでゆっくり話そう」


 遊女屋という施設の主要な用途は、もちろん男女の営みの手助けではあるが、現世から隔離された特殊な空間につき、密談を交わす場として政治利用されることも珍しくない。その真似事でもしようと言うのか、或いは本当に政治が絡む小難しい話でも繰り広げる腹積もりなのか。未だその真意は掴めない。


 鉄が再び手を差し出してくる。客の手を取って店を出るだなんて、いつ振りだろうか。おかしな緊張が走ったものの、それでも彼の話は聞いてみたいと思ってしまった。


 恐る恐る距離を縮め、そっと彼の手に触れる。皮膚の固い大きな手指には、不思議な温かさがある気がした。


【柔い肌、細い指、ひ弱な握力……堪らなくそそる。襲うだけならこの場でも構わないのだけどなあ】


「!?」


 不埒な声が響いてきて、瞬時に飛び退く夕霧。それを見て、鉄が「しまった」と呟いた。


 移動するのは良いものとして、もう手を取るのはやめようと固く誓った。

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