未亡人の恋

沙伊

前編

「ラウラと申します、奥様」

 その少女を見た時の衝撃を、カミルラは生涯忘れることは無いだろう。



 カミルラは亡くなった夫に代わり、広大な領地を治める貴族だった。娘三人はいずれも手を離れ、他家へと嫁いでいる。カミルラは領主として、代わり映えのしない日々を送っていた。

 そんなカミルラの数少ない楽しみのひとつは、入浴の時間だった。僅かな時間の合間を縫って自慢の美貌を磨き上げる。その時だけ、カミルラの心は休まることができた。

 そんな日々の中、新しい侍女が採用された。

 彼女はカミルラの実家の寄子の貴族で、人手不足を訴えたカミルラの要望を受け、彼女の元によこされたのである。


 そうして現れたラウラに、カミルラは心を奪われた。


 豪奢な輝きを放つ黄金の髪に、微笑みを浮かべる唇は艷やかな薔薇色。血色のいい頬は淡く色付き、顔立ちは人形のように整っていて、同性でもどきりとするほど美しい。

 だが何より目を惹いたのは、その大きな瞳だった。磨き上げた極上のサファイアのような瞳には、強い意志の輝きを秘めている。その瞳と目が合ったとたん、ぶわり、とカミルラの体温が上がった。

 着ているのは簡素な青のドレスで、装飾品は胸元の紅い石の付いたブローチぐらいだが、派手ではないからこそ本人の華やかさが際立っていた。

 しなやかだが内から強健さがにじむ、不思議な印象の少女である。

 カミルラは今まで自分や娘達を含めた女性のことを華奢でなよやかな生き物だと思っていた。淑女とはそういうもの、かくあるべしと思っていたのだ。

 だが、ラウラはそんな弱々しさとは無縁の、太陽のごとき生命力にあふれていた。

 それでいて所作は下級貴族としては洗練されていて、侍女にふさわしい品格がある。第一印象を抜きにしても、カミルラが断る理由は皆無だった。

「⋯⋯奥様?」

 呼びかけたのは、ラウラを連れてきた古株の侍女だった。幼少期から世話を焼く彼女の声に我に返り、視線をラウラから彼女に向ける。

「あ、ああ、彼女に城の中を案内してちょうだい。ひと通り案内したら、お茶とお菓子を一緒にわたくしのところに連れてきてね」

「お茶とお菓子ですか? ⋯⋯いえ、解りました。ラウラ、私についてきなさい」

「はい。奥様、失礼いたします」

 古株侍女に連れられてラウラは部屋を後にする。

 だがその直前、ラウラがふと振り返った。不意打ちで蒼い瞳に見つめられ、カミルラの心臓が跳ねる。

「奥様」

「な、なあに?」

「失礼ですが、どこか怪我をされているのでは?」

「怪我? ⋯⋯いいえ?」

「⋯⋯そうですか」

 今度こそラウラは出ていった。

 それを見送ったカミルラは、ほう、と熱っぽい息をつき、熱くなった頬に手を当てる。

 ほんの僅かな邂逅にもかかわらず、ラウラはカミルラの思考のことごとくを奪っていった。こんな気持ちになるのは、人生で初めてだった。


 ──旦那様にも、こんなに胸が熱くなることは無かったのに。


 カミルラは十年前に亡くなった夫を思い出した。

 夫とは政略結婚で結ばれた。五歳年上の夫は苛烈な武人で、戦ばかりで城にいないことの方が多かった。死んだのも戦場だったと聞いている。

 別に仲が悪かったわけではない。むしろ、夫は可能な限りよくしてくれたし、普段いない分、城にいる時はカミルラをとても愛してくれた。

 カミルラもそんな夫を慕っていたし、彼が亡くなった時は、恥も外聞も無く泣き崩れてしまった。病を押して戦場に出た彼を止めきれなかった自分を、あれほど憎んだことは無い。

 だが、一瞬で心奪われるようなことがあったかと言われると、それは否になる。

 愛はあった。夫婦としての情も。だが恋しく想っていたか、と問われれば、そうではなく。

「ああ⋯⋯そうか。わたくし、ラウラに恋をしてしまったのね」

 女が女に、など、カミルラは聞いたことは無かったけれど。それでもこの胸を熱くするのは恋という感情なのだと、カミルラは確信した。

 そう思うと、今度は自分の姿が気になりだす。

 今自分が着ているのは黒いシンプルなドレスで、あとは化粧だけ。無論貴婦人にふさわしい最低限の品格は保っているし、カミルラの美しさを損なっているわけではないが、恋しい人の前に出られる格好かと言われると、それは否としか言いようがない。

「やだ、わたくしったら」

 カミルラは羞恥で頬を赤らめた。

 カミルラは己の美を高める努力を怠ったことは無い。だが夫が死に、娘達が嫁に出るまでの間に、着飾る楽しみは二の次になっていた。昔はあんなに、自らを彩ることが好きだったのに。

 カミルラは傍に控えた侍女に命じてドレスと装飾品を持ってくるよう命じた。ラウラが戻ってくるまでに、可能な限り美しく装いたかった。


    ───


 古株侍女と共に戻ってきたラウラは、カミルラの装いに面喰らった顔をした。それは古株侍女も同様だ。

 カミルラの姿は、先ほどから様変わりしていたからである。

 飾り気の無い黒いドレスは薔薇とレースをあしらったワインレッドのものに。まとめられた黒髪には銀とルビーの髪飾り。華奢な首元には繊細な細工のペンダント。化粧も美貌を引き立てる華やかなものに。

 ラウラが広い城内を案内されている間、その時間をめいっぱい使ってカミルラはその身を飾り立てていた。

「おかえりなさい。さあ、座ってちょうだいな」

 カミルラは満面の笑みを浮かべ、ラウラの手を取った。

 ラウラは目を丸くしたまま、カミルラに引かれるまま椅子に座らされる。向かいにはカミルラが座った。

 古株侍女は一瞬眉をひそめるも、すぐに無表情になって押してきたカートの上のものを机に並べる。

 白磁の茶器と菓子が目の前に置かれて、ラウラはようやく我に返ったようだった。

「奥様? これは」

「そんな他人行儀に呼ばないで、貴女には名前で呼んでほしいの」

 カミルラが小首を傾げてねだると、ラウラの顔に困惑が浮かんだ。

「そういうわけには」

「ねえ、お願い。わたくし、貴女と仲良くなりたいの」

「仲良く⋯⋯ですか?」

「そう。ねえ⋯⋯ラウラ。わたくし、貴女のこと、とても気に入ったの」

 好きになったの、とはさすがに言えず、カミルラは恥じらいながらそう言った。

「貴女と⋯⋯いいえ、貴女を知りたいわ。わたくしに貴女のことを教えてちょうだい」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 ラウラはしばし黙り込んだ。長いまつ毛が伏せられ、蒼い瞳が隠れる。それだけで、カミルラは太陽が隠された気持ちになった。

 その瞳を見たい。その瞳に映りたい。いっそその瞳を自分のものにできたら──そう思い始めた時、ラウラが顔を上げた。

 唇に、静かな笑みを浮かべて。

「⋯⋯私の話で、貴女様の無聊を慰められるとよいのですか」

「ええ⋯⋯ええ! ぜひ話して」

 カミルラは胸の前で手を組んだ。鼓動が激しく脈打ち、体温が上がる感覚が全身を駆け巡る。

 その日、カミルラは遅くまでラウラの話をねだり、夕食の時間まで彼女を離すことは無かった。


    ───


 夜、カミルラはベッドに腰かけながら、今日のことを──というより、ラウラのことを思い返していた。

 茶と菓子をお供に聞いたラウラの話は、カミルラにとって新鮮なものばかりだった。

 ラウラの実家は代々騎士を輩出しており、ラウラ自身も女性ながら幼い頃より剣術や馬術を嗜んでいたこと。

 亡くなった母親は昔女官をしており、ラウラの行儀作法は彼女から学んだこと。

 領地は小麦とホーソンベリーが名産で、農地を見回ったり、実際に手伝ったりしたこともあること。

 代々太陽神を信仰しており、朝のお祈りが日課であること。

 魔力はあるもののそれほど多いわけではなく、身体強化ぐらいしかできないこと。

 ベルタというとても仲のよい幼馴染がおり、幼少期はいつも彼女と一緒に遊んでいて、本当の姉妹のように育ったこと。

 ラウラが語る彼女自身は、自由で、温かくて、どこまでも輝いていた。物心ついた頃から貴族の娘として制限され尽くした生活を強いられてきたカミルラにとっては、妬ましく思えるほどに。

 だがそれ以上にラウラが眩しくて、彼女を育んだ全てが愛おしく感じた。

 そんな楽しい時間は、夕食の時間という避けようのない日常によって終わりを迎えた。

 カミルラは食事があまり好きではない。貴族の料理全般に言えることだが、味が濃く、匂いもきつい料理がカミルラにはおいしく感じられないのだ。

 唯一肉料理は好きなのだが、それも焼き過ぎのものは好まない。偏食というほどではないが、それもあって一食二食抜くことも多かった。

 だが古株侍女はカミルラが食事を抜くことにいい顔をしなかったし、何よりラウラもよしとしなかった。

 本音を言えば夕食もラウラと共にしたかったが、侍女として仕えるラウラがそれを固辞することは目に見えたため、泣く泣く諦めた。

 それに明日からラウラはずっとカミルラの傍にいてくれるのだ。食事ぐらいは我慢しなければならない。

「いつか、同じものを食べられるかもしれないし」

 訪れるかもしれない幸運を想像して身悶えたカミルラは、ふと、ラウラが最後の方で話していた噂を思い出した。



 どういうやり取りでその話が出てきたのだったか──確か、領地の話からそこに至ったように思う。

「そういえば、奥様──カミルラ様は民草に広がる噂はご存知でしょうか?」

「いいえ? 興味無いもの」

「そうですか」

 ラウラは一拍置いて話してくれた。

「人間がここ十年で次々姿を消しているそうです。皆若い未婚の女性だとか」

「ふうん⋯⋯やっぱり聞いたことが無いわ。本当かどうか解らないけれど、見付かるといいわね」

 本音はどうでもよかったが、ラウラによく思われたくてそう言った。それに対しラウラはそうですね、とあっさり頷いた。



 ラウラの話は、小さな棘のように心に残った。

 未婚の年若い女性が、行方知れずになる。それはつまり、ラウラもその対象になる可能性があるということだ。

 ラウラがいなくなったら、と想像して、カミルラは心臓が凍り付く心地になった。

「嫌、嫌よ。ラウラがいなくなるなんて絶対嫌」

 今日会ったばかりの、娘ほどに歳の離れた少女の存在がこれほど自分の中に喰い込むとは思わなかった。

 しかたがないじゃない、と言い訳のように呟く。それだけラウラの存在はカミルラに鮮烈な印象を与えた。彼女は太陽神の信仰者だが、彼女こそ太陽のごとくカミルラに焼き付いたように感じる。

 彼女になら全身を焼かれても構わないかもしれない、そんなことさえ思ってしまった。

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