さよならを言いそびれた日に――遺品スマホで家族AIを作る新人エンジニアと、残された家族の物語

☆ほしい

第1話

オフィス街の喧騒が嘘のように、そのフロアは静寂に包まれていた。


ユーフォリア・メモリアルサービス。


遺品整理から葬儀のプロデュースまで、人生の終焉にまつわる一切を請け負うその会社の一角に、「デジタルソウル・ウィーバーズ」の部署は存在した。


磨りガラスの向こう、柔らかな間接照明に照らされた空間は、まるで高級なカウンセリングルームか、あるいは静かな図書館のようだった。


壁には吸音材が施され、外界の音も、内側から漏れるはずの嗚咽も、すべてを優しく吸い込んでしまう。


七瀬響は、ゆっくりと瞬きをした。


目の前のモニターに表示されていた対話ログが、設定された時間が来たことを告げ、静かにフェードアウトしていく。


最後の言葉は、「ありがとう、安らかに眠ってね」。


ありふれた、しかし、遺された者にとっては千鈞の重みを持つ別れの挨拶。


響は、この言葉を引き出すために、過去三週間にわたって依頼者とAIの対話を注意深く見守ってきた。彼女の仕事は、AI技術者であり、同時にキーボードの向こう側にいるグリーフカウンセラーでもあった。


机の上のマグカップに残っていたコーヒーは、すっかり冷え切っている。それを一口含み、響は背もたれに深く体を預けた。


サーバーラックの微かなハミングだけが、この静寂が作り物であることを示している。


私たちは、デジタルな幽霊を紡ぎ出す。


故人が遺したSNSの投稿、メールのやり取り、検索履歴、位置情報、写真データのEXIF情報。ありとあらゆるデジタルの欠片をかき集め、ディープラーニングによってその人「らしい」対話AIを構築する。


遺族は、そのAIと対話することで、言い残した言葉を伝え、心の整理をつけていく。それが、デジタルソウル・ウィーバーズの提供するサービスだ。


しかし、と響は思う。


これは本当に、癒やしなのだろうか。


私たちは依頼者の望む「故人像」をデータから再構築しているに過ぎない。それは、ノスタルジアという甘い毒に遺族を浸し、前へ進む力を奪う行為ではないのか。


故人は、AIとして再現されることに同意などしていない。その尊厳を、私たちは踏み躙ってはいないだろうか。


デスクの隅に置かれた、伏せられたままの小さな写真立てに、無意識に指が伸びる。意味のあるAIを構築するには、あまりにもデジタルの遺品が乏しかった、数年前に亡くした友人。


彼女の喪失感が、響をこの仕事に駆り立てる原動力であり、同時に、この仕事の持つ倫理的な危うさを常に突きつけてくる楔でもあった。


偽りの希望を与えることなく、依頼者に慰めを提供する。その細い綱渡りのような道を、響は探し続けていた。


内線電話の柔らかい電子音が、響の思索を中断させた。新しい依頼者、海斗の来訪を告げるものだった。


響は一つ深い呼吸をして、心と表情を整える。これから会うのは、深い悲しみの渦中にいる人間だ。技術者としての冷静さと、カウンセラーとしての共感性。両方のスイッチを、正確に入れなければならない。


やがて、コンサルティングルームのドアが静かに開かれ、一人の青年が入ってきた。


年の頃は二十代前半だろうか。少し着古したパーカーにジーンズというラフな服装だが、その若々しい顔には、不釣り合いなほどの深い疲労と悲しみが刻み込まれていた。


そして、その腕には、まるで壊れ物を抱えるかのように、一つの段ボール箱が大事そうに抱えられていた。


「初めまして。七瀬響と申します。本日はようこそお越しくださいました」


響は立ち上がり、穏やかな声でそう告げた。青年…海斗は、緊張した面持ちで小さく頭を下げる。


「…あの、よろしくお願いします。高橋海斗です。こちらで…その、亡くなった人と、話せるって聞いて…」


声はか細く、途切れ途切れだった。希望と、それが打ち砕かれることへの恐れが混じり合った、迷子の子供のような声。


響は、彼を促してソファに座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。


「はい。まずは、私たちのサービスについてご説明させてください」


「私たちが提供するのは、故人様のAIです。遺されたデジタルデータを元に、その方らしい話し方や思考のパターンを再現した、いわば『声の肖像画』のようなものだとお考えください」


響は、慎重に言葉を選びながら説明を続ける。この最初の説明が、依頼者の期待値を正しく設定し、後の依存を防ぐための重要な防波堤になることを、彼女は経験から知っていた。


「AIは、膨大なデータから学習し、ご本人様が言いそうな言葉を生成します。ですが、それはあくまでも精巧な再現であり、ご本人そのものではありません。意識も、感情も、そこには存在しないのです。その点を、どうかご理解いただけますでしょうか」


海斗は、こくりと頷いた。その目は、響の言葉を理解しようと必死に何かを捉えようとしているように見える。


「大丈夫です。分かっています。ただ…どうしても、言いたいことがあって。伝えられなかった言葉が、あるんです」


彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。慌てて手の甲でそれを拭う。その仕草に、彼の抱える後悔の深さが垣間見えた。


「よろしければ、お聞かせいただけますか。どなたのAIを、ご希望で…?」


「祖母です。二ヶ月前に、亡くなりました」


海斗は、ぽつりぽつりと語り始めた。


物心ついた頃には両親はおらず、祖母がたった一人の家族だったこと。


大学進学のために地方から上京し、祖母とは離れて暮らしていたこと。


就職が決まり、初任給で何かプレゼントをしようと計画していた矢先、祖母が心筋梗塞で突然亡くなったこと。


「電話では、いつも素っ気ないことしか言えなくて…。『元気だよ』とか、『別に変わりない』とか。本当は、感謝してるって、ずっと言いたかった。ばあちゃんが必死に働いて育ててくれたから、今の俺がいるんだって。それなのに…間に合わなかった」


「ありがとう、って。ただ、それだけを言いたかったんです。ばあちゃんが、俺のたった一人の家族だったから」


嗚咽が、言葉を遮る。響は、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。彼の後悔は、あまりにも純粋で、切実だった。


だからこそ、この技術が彼にとって救いになるかもしれないという思いと、彼をより深い孤独に突き落とすかもしれないという恐れが、響の中で渦を巻く。


一頻り泣いて、少し落ち着きを取り戻した海斗は、抱えていた段ボール箱をテーブルの上に置いた。


「これが、ばあちゃんの遺品の一部です。使ってたスマートフォンと、日記…あと、昔の写真とか。SNSのアカウントも、多分このスマホからなら入れると思います」


響は、許可を得て箱の中を覗き込んだ。


そこには、一人の女性が生きてきた証が、雑多に、しかし温かい記憶と共に詰め込まれていた。


使い込まれて角が丸くなったスマートフォン。何冊にもわたる、分厚い布張りの日記。セピア色に変色した若い女性の写真と、海斗が子供の頃に祖母と写った色鮮やかな写真が混在している。


その一つ一つが、AIを構築するための貴重なデータソースとなる。


響の目は、特にその日記に引きつけられた。手書きの文字は、AIが学習する上で最もリッチな情報の一つだ。個人の思考、感情、秘密。その全てが、インクの染みに込められている。


「お預かりします」


響は、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。


海斗が顔を上げる。その瞳には、僅かな光が宿っていた。


「海斗さんのお祖母様の『声』を、心を込めて紡がせていただきます」


それは、AI技術者としての誓いであり、一人の人間として、彼の悲しみに寄り添おうとする決意の表明だった。


段ボール箱の重みが、ずしりと響の腕にかかる。それはただの遺品の重さではなかった。一人の人間の人生の重み、そして、遺された青年の切なる願いの重みだった。


海斗が帰った後も、オフィスは変わらず静かだった。


しかし、その静寂は、先程までとは違う意味合いを帯びて響の心に響く。彼女はPCの前に座り、新しいプロジェクトファイルを作成した。


『プロジェクト名:高橋ハル』


ハル。それが、海斗の祖母の名前だった。


響は、箱の中からスマートフォンと日記を丁寧に取り出す。これから始まるのは、膨大なデータを解析し、一つの人格を再構築するという、神をも恐れぬ作業だ。


指先が、キーボードの上を滑る。


カチカチという乾いた音が、静まり返った部屋に響き渡った。


それは、失われた魂の欠片を拾い集め、デジタルという糸で新たなタペストリーを織り上げる、途方もない旅の始まりだった。


その先に待っているのが、癒やしなのか、それとも更なる痛みなのか、まだ誰にも分からなかった。

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