第41話:嫉妬
胸の奥に、小さく濁った感情が沈んでいたが、それでもあさぎさんがここで何をしてきたかはようやく見えてきた。
先に現世に降りてきて、妹のために静かに準備を重ねていたこと。
そして今も、ましろのために昼夜を問わず、何かと奔走していること。
その姿を思い浮かべると、生真面目というより...
——必死さ、執念にも近いものとして映る。
…奥底がわかり切っていない部分はある。ただ、信頼できる人だろう。
自分よりもはるかに聡くて、そして何より妹思いだ。
目の前では、ましろとあさぎが穏やかに談笑している。
その光景を見ているだけで、張りつめていた心が緩んでいくのを感じた。
——なにか、忘れているような。
「……あ。」
思わず声に出してしまった瞬間、二人の視線がこちらに向いた。
……そうだ。駄菓子。買ってきたままですっかり忘れていた。
「駄菓子を買ってきてたんですが、よかったら……食べてみませんか?」
食に興味が薄い人に気に入ってもらえるか不安だったが——
「へえ、駄菓子、ねぇ。食べたことないし、いただきたいな。それに、"人間らしさ"も学べそうだしね。」
————良かった。
ましろも「あっ」と言いたげな顔になっている。
「忘れとったのう。わしも何買ったのか気になるぞ!」
「じゃあ決まりだね。」
そう言って、3人で書斎を後にした。
あさぎさんの案内で、再び長い廊下を歩く。
前を歩くあさぎの腰元に揺れる、ふわふわとしたボリュームのあるしっぽ。
それが視界に入った瞬間、思い出す。
——さっきの、あの空気。イタズラな微笑みの奥にあった、狐のような、何か。
ましろのからかいとも違う。もっと深くて、ひんやりとした……
そう、"恐ろしさ"に近い何かだった気がする。
…だいぶあさぎさんを注視していたためだろうか。
ましろがするりと視界の端から顔を出す。
「…悠。人様の背中をじろじろ見るでないぞ。」
ムスッと唇を尖らせたましろの声には、どこか拗ねたような響きがあった。
ただの小言ではなく…そこには、ほんの少しの独占欲のような、微かに嫉妬の色が滲む。
「え?あ、いや。そうじゃなくて……考え事をしてただけで…」
あさぎがちらりと振り返る。
小雨に煙る曇り空が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
その光と影の織り成すコントラストは、まるで一枚の静かな絵画のようだった。
——振り向き美人。そんな言葉が、唐突に頭をよぎる。
「悠君?そんなにこれが気になるかい?」
からかうように、あさぎは後ろ手でしっぽをふわりと揺らす。
艶やかで、なめらかな曲線を描く一振り。
「い、いえ。そうじゃなくて————」
言い終わる前に、ましろの声が割り込んできた。
「だめじゃ!姉様のしっぽはわしのものじゃ!」
ましろはそう言うなり、ぽふっとあさぎのしっぽに抱きついた。
長く豊かな毛並みが、ましろの頬をくすぐるようにふわふわと揺れる。
上質な絹のような手触りに、ましろはうっとりと目を細めた。
その様子に、あさぎはくすっと柔らかな笑みをこぼす。
「あら、1つくらい悠君に分けてあげてもいいんじゃないか?」
「1本でも惜しいわ。こんなふわふわ、悠に触らせるのは……ぜいたくすぎる。」
しっぽに頬ずりしながら、ましろがチラリとこちらをうかがう。
その瞳には、得意げなような、そしてどこか照れくさそうな色が滲んでいた。
「……わかったよ。それは、ましろのものだ。」
そう言って苦笑すると、ましろは満足げに鼻を鳴らし、自分の猫のしっぽをゆるりと揺らしてみせた。
「ふふっ……ましろは本当に甘えんぼさんだね。」
「……甘えん坊ではない。」
そう言いながらもしっぽに頬をうずめている彼女の姿は、まさにその言葉のとおりだった。
そんな妹の頭を、姉がそっと撫でる。
なでやすいように横に倒れる猫耳。
指先が丁寧に、愛しむように髪をすくっていく。
ああ、本当に仲の良い姉妹だな。
そんな賑やかなやり取りを交わしながら歩いているうちに、いつの間にか先ほどの居間へと戻っていた。
主人公は買ってきた駄菓子を探す。
机の下に、買ってきた駄菓子の袋がそのまま置かれていた。
ビニール袋の中では、ペットボトルの結露が水滴を作っていた。
ふと、その冷たさが現実の気配を思い出させてくるような気がした。
「おや、飲み物もあるんだね。私は氷を取ってくるから、2人で話してて。」
そう言い残して、あさぎは居間の外に出る。
去り際、主人公の方を振り返って、意味ありげに目配せし、やさしく笑った。
(……な、なに……?)
返事をする間もなく、彼女の姿は廊下の向こうへと消えていく。
ましろと、ふたりきり。
とりあえず、座ろう。
座布団に腰を下ろすと、ましろも自然に隣へとすっと座る。
静かに並んだその時間は、ずいぶん久しぶりのように感じられた。
「…悠。わしの姉様はどうじゃ?」
「あさぎさん、ねぇ。」
ましろの何気ない口ぶりとは裏腹に、その声の奥には、少しだけ棘のような感情が隠れていた。
気にしていないふりをしながらも、気にしている。そんな声色。
「すごく大人な人だったよ。落ち着いてて、すごくましろ思いだね。」
「……まあ、ちょっと変わってたけど。」
「……そうじゃろう? わしの自慢の姉様じゃ。」
そう言う顔は、誇らしげでありながら、どこか曇っていた。
「ちょっと"嫉妬"してる?」
「………」
黙るましろ。
口をとがらせて、伏し目がちな視線を遠くに向ける。
ふいに落ちた沈黙の中で、彼女の吐息が静かに耳に届いた。
やがて、ぽつりと小さな声がこぼれる。
「…わしは…ううん。そうじゃな。」
「おぬしと姉様が話しとる間、やはりすこし…気持ちが晴れんかった。」
「…でも、こうしてわしを気にしてくれたり、今みたいにちゃんと話しとると…」
「……おぬしの言い分も、ちょっとは信じられるのう。」
その言葉に重なるように、ましろの表情がふわりと和らいでいく。
「…そっか。」
先日伝えた想いが、ちゃんと届いていたんだ。
そう思うと、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
……と思ったのも束の間。
ましろが机に腕を投げ出し、頬杖をついてこちらをじっと見つめてくる。
そして、すっと流し目で言った。
「じゃが、さっきみたいに姉様をジロジロ見るのは、正直どうなんじゃ?」
「え?いや、あれは本当に別のこと考えてて…」
「ほんとか?」
「ほんとだって…」
訝しげに目を細めるましろ。
「ふぅーん…。」
「ほ、ほんとにそれ以外の意味はないよ。」
沈黙。
横に傾いた猫耳が、まるで代わりに不満を語っているようだった。
「……じゃあ……」
ましろはそっと頬杖を解き、両手を畳に添えるように置く。
そこから、まるで空気を押すように、ゆっくりと身体を前へ。
距離が一息ぶん近づいたところで、半眼のまなざしがこちらを捉える。
障子の光を反射する瞳に、淡く揺れる色が宿っていた。
「わしと姉様、どっちがええ?」
——直球勝負。真正面からの一撃だった。
「えっ……!?」
そういう話じゃないんだけどな……
そう思いつつも、言葉を探して口がもつれる。
「い、いや。どっちを選ぶなんて…どっちも信頼してるよ。」
「そうじゃのうて。」
「友達として、わしと姉様のどっちとつるみたいか聞いとる。」
ぐいぐいと、詰め寄るような質問。
「だ、だから…どっちにも楽しいと思うところがあるから…それとこれとは別だよ。」
「………」
ましろは、まだ不機嫌そうに唇をとがらせたまま、黙り込んでいる。
伏し目がちな瞳が、隙間からこちらをじっと探るように覗いていた。
「…それでも、じゃ。選ぶとしたらどっちがええ。」
「…なっ…そんなこと…」
『それが嫉妬だよ』と指摘するのは、たやすい。
でも、こんなにも真剣なまなざしに、それを言って突き放すのは……大人げない気がした。
……それだけ、気にしていることなのだろう。
じゃあ————少しだけ、甘やかしてあげよう。
「…そりゃ、ましろだよ。」
これで、さすがに満足してくれるだろう。
そんな淡い期待を込めた一言だった。
…言った瞬間、ましろの視線がすっと強くなる。
まるで、それを本当に信じていいのかと、答えの真価を測るように、じっとこちらを射抜いてくる。
「…なぜじゃ?」
「なぜって…ましろと遊ぶ方が楽しいからだよ。」
口にしながら、自分でも理由を探してしまう。
でも、嘘ではない。ちゃんと本音だった。
「……」
ましろはまだ頬を膨らませたまま、じっとこちらを見つめていた。
言葉のない静けさのなか、背筋にうっすらと汗が滲んだ。
——嫌な予感がする。
「…なぜ楽しいんじゃ?」
「…えー…」
ましろの質問攻め。想定外だ。
予想に反して、今日はまったく引いていかない。
いつもなら、そろそろ満足して笑っている頃のはずなのに。
「い、言わなきゃダメ?」
「うむ。正直に話せ。」
た、楽しい理由なんて……
不意の問いに、思考が追いつかない。
焦って、言葉をかき集めようとする。
……そんな主人公の様子を横目に、ましろがふっと身体を引く。
まるで、急に興味をなくした猫のように。
まだ疑うような視線だが、ほんの少しだけ、瞳が満足げに揺れていた。
「まあ、また今度でええ。考えておくようにの。」
そう言うと、うっすらとましろの顔に笑みが浮かんだ。
「えっ、な…どうしたの?」
(さっきまであんなに詰めてきてたのに、引き際が早い……なんだ?)
そう思った瞬間、廊下の奥から、かすかに足音が聞こえてきた。
柔らかく、規則的な歩調。
あさぎさんのそれだ。
————なるほど。そういうことか。
ましろってやっぱり耳がいいんだな。
しばらくして、あさぎが涼やかな顔でお盆を持って現れた。
グラスが3つと、山盛りの氷。
その姿は「旅館のおかみさん」という単語がしっくりくる。
「おまたせ〜。……おや、二人とも喧嘩かい?」
どこかよそよそしい空気を感じ取ったのか、あさぎが茶化すように笑う。
「いえ、そうじゃなくて————」
「また悠が悪さしての。」
「ええ!?ち、違うじゃん!」
「おやおや、悠君。女の子には優しく接してあげないとだめだよ?」
慌てる主人公を、「そうじゃそうじゃ」と野次るましろ。
違うんだってば——という言い分は、姉妹の楽しげな笑い声に、あっさりと飲み込まれていった。
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