空色の記憶
乱世の異端児
短編小説
真壁さんの日課は、閉店間際の喫茶店「トワイライト」で、誰にも邪魔されずに珈琲を飲むことだった。使い込まれた木製のテーブル、煤けた壁に飾られた埃っぽい絵画、そしていつも変わらぬマスターの寡黙な背中。どれもが真壁さんの心を落ち着かせた。
その日も、いつものように窓際の席に座り、香り立つブラックコーヒーに口をつけた時だった。ふと視線を感じ、顔を上げると、向かいの席に小さな女の子が座っていた。小学校低学年だろうか。栗色の髪を二つ結びにし、大きな瞳で真壁さんをじっと見つめている。
真壁さんは戸惑った。この時間、この店に子供がいるのは珍しい。マスターも気づいていないようだった。女の子は何も言わず、ただ真壁さんの珈琲カップを見つめている。気まずさに、真壁さんは小さく咳払いをした。
「どうしたの? お母さんは?」
女の子はかぶりを振った。そして、小さな指で真壁さんの珈琲カップを指差した。
「あのね、それ、お空のいろ」
真壁さんはカップの中を見た。黒い珈琲。しかし、女の子の目には何が見えているのだろう。
「お空のいろ?」
真壁さんが尋ねると、女の子は嬉しそうに頷いた。
「うん。夜の、お空のいろ。お星さまがキラキラしてる、お空のいろ」
真壁さんは目を瞬いた。確かに、深く澄んだ夜空の色に、カップの中で反射する蛍光灯の光が、まるで星のようにきらめいているように見えなくもなかった。しかし、そんな風に感じたことは一度もなかった。
「あなたは…どうしてここに?」
女の子は少し考え、そしてゆっくりと言葉を選んだ。
「おねえちゃんが、ここで待ってるの」
おねえちゃん? 真壁さんは店内を見回したが、女の子の姿は見当たらない。マスターも、相変わらずカウンターの中で黙々とグラスを拭いているだけだ。
「おねえちゃんはどこにいるの?」
「あっち」
女の子が指差したのは、店内の奥、誰も座っていない席だった。真壁さんは首を傾げた。
「でも、誰もいないよ?」
女の子は少し寂しそうに俯いた。
「うん…見えないの」
その言葉に、真壁さんの胸にチクリとした痛みが走った。もしかしたら、この子は何か心に問題を抱えているのかもしれない。あるいは、ただの空想癖が強い子なのだろうか。
「あのね、お空のいろ、飲んでみて。そしたら、おねえちゃん、見えるかも」
女の子はそう言うと、小さな手を真壁さんのカップにそっと添えた。真壁さんは迷った。しかし、その純粋な瞳を前に、拒否することはできなかった。真壁さんは、珈琲を一口、ゆっくりと口に含んだ。
苦く、そして深い味わい。いつもの珈琲だ。特別な変化はない。そう思った、その時だった。
真壁さんの視界の端で、揺れる残像のようなものが見えた。それは、白いワンピースを着た、長く美しい髪の女性の後ろ姿だった。女の子が指差した、あの奥の席に、確かにその姿はあった。しかし、それはまるで水面に映る幻影のように曖昧で、掴みどころがない。
真壁さんは目を凝らした。すると、その女性がゆっくりと振り返った。彼女の顔は、月の光のように朧げで、はっきりと見ることはできない。だが、その輪郭は、確かに目の前の小さな女の子にどこか似ていた。
そして、その幻影のような女性が、真壁さんに向かって、ふわりと微笑んだような気がした。
真壁さんがもう一度目を瞬かせると、そこに女性の姿はなかった。ただ、奥の席には、古びた木製の椅子が静かに置かれているだけだ。
真壁さんは、息をのんだ。目の前の女の子は、真壁さんの反応をじっと見つめている。
「…見えた?」
女の子が小さな声で尋ねた。真壁さんは、ゆっくりと頷いた。
「うん…少しだけ」
真壁さんの言葉に、女の子は満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、夜空の星のように、きらきらと輝いていた。
「よかった! おねえちゃん、ずっと待ってたの」
その時、マスターがカウンターから顔を出し、真壁さんに声をかけた。
「お客様、もうすぐ閉店ですが…」
真壁さんはハッとした。時間は、すでに深夜零時を回っていた。女の子がいたはずの向かいの席を見れば、そこには誰もいない。まるで最初からいなかったかのように、空っぽのテーブルがぽつんとあった。
真壁さんは慌てて店を出た。夜の静かな通りには、真壁さんの足音だけが響く。先ほどの出来事が、夢だったのか、それとも現実だったのか、判然としない。
家路に着き、部屋の電気をつけた時、ふと、テーブルに置かれた珈琲カップを思い出した。真壁さんは急いで店に戻った。
しかし、店はすでにシャッターが閉まり、真っ暗な沈黙に包まれていた。
翌日、真壁さんは「トワイライト」を訪れた。いつもと同じように珈琲を注文し、窓際の席に座る。しかし、どんなに目を凝らしても、あの小さな女の子の姿はなかった。マスターも、昨夜の出来事には一切触れない。
真壁さんは珈琲を一口飲む。苦くて、深い味わい。そして、カップの底に、見慣れないものが沈んでいるのに気づいた。
それは、小さな空色のガラス玉だった。まるで、夜空の一部を切り取ったかのように、中に微細な光が閉じ込められている。
真壁さんはそっとそのガラス玉を拾い上げた。ひんやりとした感触。そして、そのガラス玉を通して見る世界は、少しだけ、鮮やかに見えたような気がした。
真壁さんは知っている。あの夜の出来事は、きっと、心のどこかに深く沈んでいた、忘れかけていた「誰か」の記憶と、この空色の珈琲が、一瞬だけ繋いでくれた、不思議な時間だったのだと。
そして、その記憶は、この空色のガラス玉のように、これからも真壁さんの心の中で、静かに輝き続けるだろう。
空色の記憶 乱世の異端児 @itanji3150
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